3 生きるということは他の生命を奪うこと
すべての者は暴力におびえる。
すべての(生きたもの)にとって生命は愛しい。
自らの身にひきくらべて、殺してはならない。
殺させてはならない。
(一三〇) (第10章 暴力 より)
自らが幸せになろうと思って、そのために幸せを求めている他人に暴力でもって害するならば、その人は幸せを得られない。
(一三一) (第10章 暴力 より)
S さんは、私が殺されたくないように、他人もそうだ、のような例えを用いて説明しています。
つまり、やられたくないならやるな、という、いわば消極的な理由づけに見えます。
そして、人間を殺してはいけないことは、暗黙の前提としているらしく、人間以外の命を殺してもいいのか、許されるのか、と問いかけています。
ゴキブリにもアリにも、生きとし生けるものには、生きる権利があるはずだ、その権利を奪う理由がなぜ私達にあるのか、他の生物の権利を奪えば自らの権利がなくなることを覚悟しなければならない、とさえお書きになっています。
しかしながら、生物、特に人間は多くの生物の犠牲の上に立って生きている、他の多くの生物の命を奪うことで、いや、奪うことでしか生きながらえない、罪深く、恐ろしい存在であることも指摘されています。
S さんは、ここをいわば転機として、心を浄めていく道が始まるとして、そうすることで、ひいては多くの人がこの事実に目覚めることで、きっと人間同士が互いの生命を傷つけ合うこともなくなっていくはずだ、としています。
しかし。
やられたくないならやるな、という理屈は、申し訳ありませんが、理由づけとしては、不十分な気がするんですよね。
なぜならば。
中村さんの原始仏典の時にも少し書きましたけど、仮にノイローゼ状態、あるいは、錯乱状態の死にたくてたまらない人の場合には、一体、どうなりますか?
こうした人達は、死にたい、自殺願望がきわめて強い可能性が高い訳です。
だからといって、本人が望んでいるからといって、殺していいことにはならないでしょ。
それはなぜですか?
やっぱり、霊性の観点からでないと、納得のいく説明がつかない気がするんですよね。
それに、神様の定めた寿命までは、肉体人間が勝手に手を下すことは許されない、と思うんです。
肉体人間は、神様の分け命、分霊(わけみたま)が本体であり、この命こそが本来の人間である。
神様の霊光の一筋一筋の分かれが、それぞれの肉体人間に宿り、生きていくことができている。
つまり、私達は、その本体、本質において神様の分かれ分かれであり、同胞であり、兄弟姉妹である、ということです。
神様を本質とするならば、たとえどんなに分かれていても、互いに慈しみ合い、愛し合い、協力し合うことが当たり前であることはあっても、互いに傷つけ合ったり、殺し合ったり、などは絶対にあってはならない、あり得ない、という理屈になります。
実際のこの世には、数々の過去世からの真善美に悖る想いと行いを果てしなく積んでしまっているケースがあるために、その悪しき因縁の解消として、傷つけ合ったり、殺し合ったり、という場合が出てきてしまっている訳です。
かなり悪い因縁の清算です。
この霊性の観点を度外視して、この世でのあらわれの悪い因縁因果にまみれた肉体人間だけを見た場合には、説明が苦しいような気がするんですよね。
以上が、私達肉体人間が、他人を、人様をむやみに傷つけたり、殺してはならない理由だと考えます。
肉体人間の本体が、神様の分霊である、すなわち、神様であることが、万人にわかる形で証明できていないので、信じてもらうしかないですけどね。
次に、肉体人間以外の生物の命についてです。
確かに、私達肉体人間、すなわち、人類は、動物はおろか、植物に至るまで、あらゆる命の犠牲としながら生きている訳です。
植物を食べる、動物を食べる、というのは、生きていたこれらの命の犠牲があるからこそ、な訳です。
植物も動物も、やはり、その命の元は神様から来ているとしか、考えられません。
植物がなぜ成長するのか。
動物がなぜ成長するのか。
やっぱり、何かしらの命を与えられたからこそ生きている、と考えられるんですよ。
そうすると、やはり、命の元は神様が与えているとしか考えられないんですよ。
神様は、肉体人間には、その本体として、本質として宿り、植物や動物とは比較にならない創造する力と知恵を与える元になっている。
だから、肉体人間は、万物の霊長と言われる訳です。
植物や動物は、同じく神様から命を与えられてはいても、命の本体が神様ではない点が異なる。
しかし、肉体人間と同様に、神様から命を与えている植物や動物を、肉体人間の都合で、勝手に殺しても構わないものであろうか、となってくるんですよね。
やはり、このように、植物や動物を犠牲とした上で、肉体人間が生きていかざるを得ない形になっているということは、神様がこのような形を、暫定的にしろ、想定しているとしか考えられないんですよね(地上天国が成った暁には、どのようになるかはわかりませんが)。
しかし、想定内とは言っても、やはり命であり、植物、動物のそれぞれに意思があるので、できる限り尊重することが必要になってくるはずです。
ということは。
もし、食物として肉体人間に食べられて、栄養分として同化するものならば、やはり、植物や動物を頂く時には、感謝をしなければならない、となります。
そして、肉体人間としても、ただ生きているだけではなくて、何かしらの神様のお役に立つようにしていくことが求められる、と考えられます。
おそらく、神様の世界をこの物質の地球世界に映し出す、そのために何かしら役立つことということで。
その中に、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行があると思うんです。
だから、食物である、植物や動物を頂く時は、命をいわば投げ出してもらった形を頂く訳ですから、あんなものまずい、こんなものまずい、というのは、非常によろしくない、という結論になってしまう。
まあ、とにかく、あらゆるものは、神様があらわしたものとすれば、できるだけ心を配り、感謝しながら生きていくように心がけることが必要なってくるのかもしれません。
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①追記: 2021/04/05 23:12
②追記: 2021/04/24 14:30
〜訂正内容〜
上記 2 回にわたり、本文を訂正しました。