おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

310_法話50-6

6 勝つ人は一人もいない

勝利者が勝ち取るものは敵意である。
敗れた者は苦しんで萎縮する。
心穏やかな人は、勝敗を捨てて安らかに過ごす。

(ニ〇一) (第15章 幸せ より)

以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんと略します。ご了承下さい。

S さんの書いていることを、霊性の観点から読み替えて見てみます。

まず、お書きになっていることは、大体、以下の通りです。

S さんによると、競争社会は、太古からの輪廻転生を通した自己保存の本能による、他者の排斥や争いを繰り返してきたために、その争いの心を持ち続けているとお考えになっているようです。

そして、仏教には「戦え、頑張れ」という教えはなく、「今ここで戦うよりも、もっと優れた道はないか」という「超越した道」を教えるものとされます。戦いの泥沼に足を入れずに、戦いを「乗り越える」のだそうです。

お釈迦さんは、「聖者は、勝ちも負けも乗り越えて平安に住む」と説かれたそうです。誰かに勝つ必要もないし、誰かに負ける必要もない、と。

だからといって「競争をするな」ということではないそうです。勝ち負けを争うのではなく、「自分の能力を発揮する」ことに努めることだとされます。

そして、勝ち負けを争うのではなく、自分の能力を発揮する。そのことによって、自分に適した道が開かれていくそうです。

さて。

これを、どう解釈したらよいのでしょうか。

ここで、ちょっと話を変えて、植物を考えてみます。

以前に書きましたが、植物も動物と同じように、神様から命を与えられて生きています。

おそらく、肉体人間のように、姑息に立ち回ったり、ああでもない、こうでもない、と自由自在には生きていないと考えられます。

祈りは、殊に、肉体人間の祈りは、神様の命を宣(の)りだすことです。

私は、神様の命を生きている者です、と。

植物の場合には、おそらく、神様から与えられた命そのままで生きていると思われます。

従って、植物の姿は、神様から与えられた命をそのままをあらわしている、祈りの姿と読み替えることができると思います。

神様から与えられた命そのままで生きている。

だから、よほどのことがないかぎり、争ったり、計算高く立ち回ったり、ということはないと思います。

これに比べると、肉体人間は、自己保存の本能と数限りない輪廻転生により、人間=肉体人間観が、染み付いてしまい、いかに自分と近しい者の利益を最大化するかという、自らの利害得失計算をはかり、これを最大化することばかりに追われるようになってきたと考えられます。

肉体人間観に支配されるようになってしまったために、五感にまつわる欲望の最大化と、これが損なわれることへの不安や恐怖にも煩わされることになってしまった。

もう、ほとんど、祈りからは遠ざかっているように見えます。

究極の苦境に陥った時には、誰しも「神様!」「神様!助けて!」と呼びたくなるとは思いますが、神様を念頭において、普段からあらゆることに感謝しながら生きている、祈りの生活をする人は、そんなにはいないのではないでしょうか。

古(いにしえ)の妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人達が、まさにこのような祈り人であった訳ですが。

こう考えてみたらどうでしょうか。

私達は生きていく上で、ある程度、競争社会に巻き込まれるのはやむを得ないとします。

そして、今ある様々な環境は、自らの努力はあるにしても、ある程度、過去世の因縁によって影響されたものである、と。

つまり、神様によって、人それぞれの過去世の因縁からある程度大枠の決められた持ち場、持ち場を与えられて、その中で、できる限り神様のみ心に沿うように、生きていくことをのぞまれていると。

つまり、過去世の生き方により与えられた大枠の環境と自らの努力で築き上げた環境を踏まえて、その中で神様の命を生かす、精一杯生きていく、これがのぞまれていると。

その中では、やむを得ない競争もあるでしょうし、様々な争いごともあるかもしれませんが、競技でない限りは、極端に勝ち負けだけに固執せず、精一杯、生ききることを目標にすると。

もちろん、祈りと感謝行ができるのが理想ですし、あるべき形だとは思いますが、とりあえずは上記のように生きていくことが、植物の祈りの生き方に近づくように思います。

そうすれば、ある程度の心の平安も得られるのではないでしょうか。

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追記: 2021/04/25 08:03 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。