おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

311_法話50-7

7 怒ろうとするとおばあちゃんの顔が浮かぶ

粗暴な言葉を言うな。
言われた人々は、あなたにそのまま言い返すだろう。
怒りを含んだ言葉は苦痛である。
仕返しがあなたの身に至るだろう。

(一三三) (第10章 暴力 より)

ちょうど壊れた鐘のように、自己が静寂であるならば、あなたは安らぎに達している。
そのようなあなたに、怨みなどあるはずはない。

(一三四) (第10章 暴力 より)

以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんと略します。ご了承下さい。

この最上段の S さんのつけた表題の意味がわかるお話が書かれていましたので、引用します(私の判断で適宜改変などがありますが、ご了承下さい)。

スリランカでは、在家の方が私達僧侶を礼拝します。その姿を見ると、出家と在家では、大きな差があると思われるかもしれません。しかし、日本の人が思うほどに、出家と在家の差はないのです。私の子供の頃は、在家のおばあちゃん達が私達を叱って、立派な僧侶になるように教えてくれました。そのおばあちゃん達は、私達の振る舞いに間違いがあれば、今でも私達僧侶を叱りつけたりします。

ある満月の夜のことです。私の田舎のお寺で、信者達が集まって、大きな儀式が催されました。沢山の参拝者が来るものですから、食事の支度が大変です。在家の方々が準備をするのですが、私達僧侶もおばあちゃん達と一緒に料理を作っていました。ところがその台所に悪童がやってきて、用意していた料理をひっくり返して無茶苦茶にしてしまったことがありました。私はその子をつかまえて、きつく叱りつけたのです。すると、お米を研(と)いでいたおばあちゃんが、私に言いました。
「そんなふうに叱ってはいけないよ。それぐらいのことで怒るなんて、情けない。その子の母親にしてみれば、それは可愛い子供なんだから」
それ以来、怒ろうとすると、すぐにその時のおばあちゃんの顔が浮かぶのです。

たとえ相手に非があろうとも、粗暴な言葉で相手を責めてはなりません。粗暴な言葉は苦痛となって、相手の中に残ることでしょう。安らぎを得たいならば、いついかなる事情のもとでも、すべてのものに慈しみの眼(まなこ)を向けなければなりません。在家のおばあちゃんは、そのことを私に教えてくれたのでした。

このようにスリランカでは、時には出家、在家という立場を超えて、お互いに支え合い、学び合いながら生きているのです。

だそうです。

以下、これを霊性も踏まえて考えたいと思います。

なお、余計なこともたくさん書きますし、間違ってしまうかもしれませんので、不安をお感じになる方は、上記の S さんのお話まででとどめておき、以下はご覧にならないようにして下されば、お時間の節約になると思いますので、適宜、ご判断の上で、省略して下さるようお願い致します。

悪ガキや悪質ないじめっ子。これは本当にどうしようもない気がしてしまう。

私は小学校時代に凶悪ないじめっ子(以下、 N とする)に苦しめられた。

N は本当にどうしようもない人間で、クラスの大半の男子生徒を悪く染め、学校の外では、動物虐待などの話があり、悪魔に毒されているんじゃないのかコイツは、と当時の私は思っていた。

詳しくは書けないが、私は普段のいじめの他に、忘れられないほど嫌な目に遭わされたことがある。下手をしたら命に関わると思われるようなことを。

母子家庭らしく、しかも暮らし向きがあまりよくないようで、もしかしたら、家庭環境に何らかの問題があったのかもしれない。

高校時代にクラスに N と同じような境遇の女子生徒(以下、 Y さんとする)がいたが、彼女は心優しく穏やかで、とてもいい人だった。

Y さんを見て思いましたね。これは、環境もあるかもしれないけれど、やっぱり本人の資質だと。

同じような境遇に置かれていても、天と地ほどに違いがある。やはり、ある程度は、本人に責任があると言わざるを得ない、と。

同じような境遇でも、荒れ果てて、人間や動物に危害を加える、その他の悪いことばかりをする人間と、こんないい人がいるんだ(一般の女子生徒はワガママでクセの強い人が多かった)という人がいたからです。

N については、今ならば、過去世の私の悪い因縁の現世での時を経て消えてゆく姿となるのだろうが、なかなかねえ。

ようやくほんの少しは怨みは減ったが、まだまだ、私の業か深いためか、いまだに釈然としない感情が残っている。

悪ガキなどが、地位を与えるなどの、自己肯定感を持たせて変わる例も世間にはあるのかもしれないが、急にいい子になったって、それじゃあ、それまで散々してきた悪事はどうしてくれるんだ、やられたこっちは納得なんかできねえし、ふざけんじゃねえよ、というように思いますね。

それこそ、今後は、いにしえの妙好人の人達のようになって、祈り一念の人になり、決して悪いことは致しません、と誓いを立ててもらわなければ、納得できないほどに。

いまだに、N に神性を見い出すのはなかなかに難しい。

五井先生の教え(教義の人間と真実の生き方)には、自分を赦(ゆる)し人を赦し・・・とあるけれど、やっぱり、難しい。

なので。

嫌な目に遭わされた時の忍耐。

これは、なかなか厳しいものがあるような気がするんですよ。

だから、上記のような忍耐や慈しみで乗り切るだけではなくて、祈りと感謝行による、悪い因縁の(守護の心霊さんの裁量の範囲内での)お浄めと解消の手助けも頂くことが、より助かる気がするんですよね。

中村さんの原始仏典を見た限りでは、お釈迦さんをはじめとする当時の修行者や一般の在家の人も、真善美に悖る想いと行いの業想念を、祈りではなくて、自力の修行で、消滅させる・克服する形になっていたようなので、当時の人々は唯物論に染められた現代人に比べて、よほど意志が強固だったのかもしれません。

なお、五井先生のどの本に書いてあったのか忘れてしまったのですが、子供などを叱る時には、心臓をバクバクさせないようにして、叱るようです。

心臓がバクバクしたままだと、怒りの感情に任せて叱ってしまうことになるらしく、一呼吸置いて、相手のためを思う愛情と、できれば祈り(子供ならば子供の守護霊さんと守護神さんに子供の天命がまっとうされるように祈る、そして自分のことも)も併用するのがいいようです。

私も文中で、一部粗暴な言葉を使ってしまいました。申し訳ございません。

世界人類が平和でありますように

なお、最上段の経文にある、静寂は現代風に言えば、この世で起きてくる、良いことも、悪いことも、すべては過去世の因縁のこの世(現世)での時を経て消えてゆく姿であり、あるのはただ神のみ心だけなのだ、と理解することに匹敵すると思います。

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悪童~あくどう~イタズラや、悪さをする子供。現代の悪ガキのこと。

(参考)以下、ご参考までに、五井先生の教義を引いておきます。初めてこれを読んだ時にも思いましたが、何だか人生は修行が規定値のような感じがしますね。

そうお感じにならないで、比較的順風満帆な人生を送られている方は、現世での努力もさることながら、過去世の生き方がかなりよかった方なのでしょうね。

~人間と真実の生き方~

人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現れて消えてゆく時に起こる姿である。
いかなる苦悩といえど現れれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真(まこと)と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに、想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

~世界平和の祈り~

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように。
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように。
守護霊様ありがとうございます。
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます。

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追記: 2021/04/25 08:05 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。