9 心を具体的にとらえるには_その1
あらゆるもののなかで、先立つものは心である。
あらゆるものは、心を主とし、
心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、
苦しみはその人につきまとう。
荷車を引く牛に車輪がついていくように。
(一) (第1章 対句 より)
以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんと略します。ご了承下さい。
経文に書かれていることと、S さんのお書きになっていることの概要を、勝手ながら私的に意訳と省略と改変をして、まとめながら見ていきたいと思います。
経文の先立つものが心とはどういうことか。
まず、心とは何か?
心とは、様々な意味がありますが、とりあえずは、精神や知・情・意などのそれぞれについての働き、または、精神活動の元になっている全体のことです。
想念とは、その心に浮かぶ考えや思いのことです。
ここで、書いてある心(訳は心となっていますが原語(サンスクリット語かな?ちょっと忘れました)のニュアンスはわかりません)とは、前後関係から判断する限り、想念、想いのことですね。
以下、 S さんの書く「心」を「想い」と読み替えて見ていきたいと思います。
S さんは、生きることの大元には想いがあると言う。
想いが大事なのに、金や健康や建物などの物質に重きを置いてしまっていると言う。
また、生命あるものは、想いにより行動し、生きていると言う。
さらに、建物、飛行機、宇宙船も想いがつくり、幸不幸、成功不成功も想い次第だと言う。
つまり、想いが、すべての創造者だと結論づけている。
そして、無意識の想いが願う通りにことが進んで行くと言う。
想いが現実をつくっていると言う。
申し訳ありませんが、これは、ちょっと色々なことがごっちゃになっているように見えるので、勝手ながら私流にまとめ直させて頂きます。
まず、生きることについて。
私達が生きているのは、神様の命が働きかけているからです。その神様の命そのままに生きれば、この世でも、真善美に悖らない、神様のみ心に合った生き方となるはずです。
おそらく、植物がそうですし、肉体人間なら赤ちゃんがそうですね。命そのままに生かされている。ひたすら生きている。
しかしながら、肉体人間は、物心がついてからは、想いが出てくる(※)ために、この神様の命、神界にある神様の霊光が、この世まで来る間に、すなわち、神界→霊界→幽界→現界(この世)と来る間に、主として、幽界で汚されてしまい、今のような、この世になっている訳です。
幽界は、肉体人間の想いの世界で、肉体人間の五感にまつわる各種の欲望、中でも、真善美に悖る業想念にまみれているので、神様の命、神様のみ心そのままに生きることができていない。
五井先生は、以下のように言われています(改変・省略あり)。
この世には、永遠の生命(神様の命)が神界から霊界を通してあらわれている。ところが、この世にあらわれるまでに、霊界もあれば幽界もある。幽界というのは光明波動(神様のみ心に合った想い)と暗黒波動(業想念)が混合している。それがこの世にあらわれてくる。だから、肉体人間は玉石混淆して、生命の実体(神様の命)もあれば、仮の姿の肉体人間が幽体の想いでつくった想念波動の世界(業想念の世界)もあって、混ざっている、と。
従って、生きることの元に想いがあるのではなくて、神様の命が、想いの世界である現界で(主に)汚されている形で、混じって生きているのが、私達肉体人間となります。
肉体人間として生きている、生かされている命の源は神様の命であり、そこに想いの世界の影響が加わって、生命活動をしている、と。
これによって、S さんの言うことを書き直すと。
生きることの大元には、神様の命がある。そして、その命を元にしながら、各種の想いに影響されて、私達肉体人間は様々な活動を営んでいる。
無意識の想いが願う通りにことが進んでいくとは、無意識とは顕在意識と潜在意識のうちの潜在意識のことで、これは想いの世界の幽界、主に過去世からの想いの集積=因縁により、私達の運命がある程度定まって、運ばれていく(修正がまったく不可能な訳ではない)ことを指している。
想いが、建物などの様々なものをつくりだすことは、少し面倒なので、勝手ながら省略します。
ただ、成功不成功が(現界=現世の今現在の)想い次第だとするのは、ちょっと大まか過ぎるんじゃないですかね。
なぜなら、今現在の想い次第で成功出来るなら、誰しもが成功できなければおかしいからです。この世では、過去世からの因縁もあり、みんなそれぞれに様々に置かれた境遇や能力が異なっている。もちろん、成功するためには、鋼鉄の強固な意志が必要なのでしょうが、その意志の持ち方でさえも、強さも、やはりおのおので異なり、過去世からの因縁次第で異なっている。そのために、どんなに努力しても、成功したくても、誰もが成功することができるとは限らないからです。
想いがすべての創造者である、想いが(この世で)実現するといっても、これも一筋縄ではいきませんよ。
想いには、守護の神霊さんを含めた神様のいくつもの想いと過去世からの(幽界と肉体界で溜め込んだ)幽界の想いと現界(この世。現在の肉体世界)の想いが、混ざりあうのですから。
こうした想いが、玉石混淆して(この世の)現実をつくっていると思います。
だって、そうでしょう?
人類の構成要員のそれぞれが、思い思いに、それこそ勝手に、今現在の自己保存の本能に基づく想いで現実をつくりだせるのならば、物質上の資源は限られているのだし、欲に任せてやりたい放題にしたら、限られた資源を巡ってみんなで争い合って、世の中がめちゃくちゃになって、収拾がつかなくなってしまいますよ。
さらに、S さんは、だめだと想うと何事もできなくなり、想いをないがしろにして、形ある金や健康や建物のようなものを神様のように大事にしているようなことでは、想いは物質の奴隷になっているようなものだと言っています。
そして、私達は想いにより生きており、想いが自己の支配者であり管理者であるとしています。
これも、想いが自己の支配者や管理者であるというのではなくて、想いは本来の神様の命があるみ心が、過去世の因縁や業想念で、汚されてしまいがちだから、できるだけ、神様のみ心に沿うように、合うように、常日頃から想いを整えるべきだ、ととらえ直した方がいいと思います。
自力のやり方(これはお釈迦さんに代表されるような厳しい修行のやり方なので現代では実践が難しい。禅宗の曹洞宗や黄檗宗や臨済宗のような坐禅観法(さぜんかんぽう)などもそう)にしろ、他力のやり方(浄土門や世界平和の祈りのやり方)にしろ。
過去世からの想いも含めて、できるだけ想いを整えるようにしながら、生きて行く、そして、ことに当たる。もちろん、こうした S さんのお話やお釈迦さんの説法をたどる書物を読んで参考にするなりとすればそれなりによい形になるとは思います。
しかし、やはり、祈りと感謝行をして、実践をした方が、より想いは整うと考えられます。
なので、過去世からのものをも含めて、想いは自らの現世での行いに多大な影響を及ぼすから、神様の命を元に生きているけれど、想いにはよくよく気を配って、整えて行くことが望ましい、と言えると思います。
ちょっと、かなり長くなってしまったので、すみませんが、この節(50 節のうちの 9 番目のこと)は、ここで一旦、区切って分けさせて頂きます。
ご了承願います。
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(※)こうして、だんだん成長するに従って、過去世からの様々な想いも徐々に出されて、混じっていくものと考えられます。
過去世から溜まっている業想念をすべて一遍に出してしまう(従って、これに伴う償いも一遍にしなければならないことになる)と、肉体人間としては、耐えきれなくなってしまうと考えられるからです。
やはり、この世での修行は肉体人間として与えられた寿命と、時宜を勘案しつつ、守護の神霊さんが、そのご守護とともに徐々にさせていくのではないのかな、と。
一遍に出して、強い神様の光で一遍に浄めたら、肉体人間として耐えられないだけでなく、肉体世界を卒業してしまうかもしれませんから。
・禅宗~ぜんしゅう~仏教語~仏教の一派。座禅によって仏教の真髄を体得する(悟りを得る)ことを目的とする。中国で広まり、日本へは鎌倉時代、栄西(えいさい)・道元(どうげん)によって伝えられ盛んになった。臨済宗(りんざいしゅう)・曹洞宗(そうとうしゅう)・黄檗宗(おうばくしゅう)の三派がある。
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追記: 2021/04/25 08:10 〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。