おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

314_法話50-9-2

9 心を具体的にとらえるには_その2

あらゆるもののなかで、先立つものは心である。
あらゆるものは、心を主とし、
心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、
苦しみはその人につきまとう。
荷車を引く牛に車輪がついていくように。

(一) (第1章 対句 より)

以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんと略します。ご了承下さい。

前回(313_法話50-9-1)の続きになります。

前回と同様に、心とされるものを想いと読み替えて話を進めて行きます。

あらかじめ、ご了承願います。

前回書いたことは、肉体人間は、神様の分け命を与えられて(仏教を奉じる人ならばみ仏の命、あるいは、仏性などとなるのでしょう)生きている。

ただ、それだけではなくて、過去世からのあまたの輪廻転生を繰り返して、積み重ねてしまった業想念や今の想いなどが入り交じって、行動としてあらわれてくる。

いわば、神様のみ心(守護の神霊さんの心も含めて)からはじまって、過去世で積み重ねたもの、今現在のもの(純粋な現世のものは少ない。かなりの部分が過去世の想い)などの想いが、混合して生きて活動しているのが、今の肉体人間ということです。

S さんは心(想いのこと)が自己の支配者であり、自己の管理者だとしていましたが、これは先のように考えると、純然たる今現在のものはそう多くない、となります。

神様のみ心は、業想念にさえぎられて、到底、そのままにはあらわれきっていないし、過去世にも業想念が多く、今現在も業想念が多い。

そうした想いが、かなりの今現在の肉体人間の行動に影響を及ぼしている。

今現在のこの世のありようが、神様のみ心から離れた、このような形になってしまっているのは、行いの元となるこのように入り交じった想いが乱れてしまっている、整っていない(いなかった)から。

その、今現在、自分でつくりだした想いも、実は、過去世のものがあらわれて、今の想いだと思い込んでいる、認識しているものがある訳です。

これは、信じることができれば信じる、という話で、なかなか、ピンときませんけどね。

五井先生(の本)によると(改変・省略・加筆・書き換えあり)。

この世(現界、時系列では現世)では、潜在意識と顕在意識がぐるぐると巡り回っている。顕在意識に思ったことは、すべて幽界(想いの世界)に属する各自の幽体(想いの体)に記録される。その記録された想いは、顕在意識に記憶として浮かび上がり、ある時は直接言動となる。そして、この直接言動が、また、潜在意識に記録(録音)される。こうした回転が、肉体人間各自の運命となってあらわれる。

なので、幽界と現界を通して、肉体人間各自の運命を修正の働きをする守護霊さんを意識する必要があるらしい。各自の運命を少しでも改善するために。

肉体人間各自の運命は、まずは、幽体に各自の想いが記録され、この想いを現界に実現させるべき、各種の材料としての環境が自然に整い、幽界(過去世からを含めた想いの世界)にその原型がとりあえずはつくられる。

そして、やがて時を経て、現界の各自の想いが縁(きっかけ)となって、幽界につくられた環境が現界にあらわれてくることになる。

守護霊さんの(主に悪因縁の解消・救済の)働きを度外視すれば、もし、そうした回転する想いが、真善美に悖る、神様のみ心から外れた誤ったものであれば、そのままに誤った環境が現界(この世)にあらわれてくることになる。

浄まった想いの人ならば、浄まった環境があらわれ、汚れた想いの人ならば、汚れた環境があらわれ、憎しみに満ちた想いの人ならば、憎しみに満ちた環境があらわれ、盗みの想いの人ならば、盗み盗まれる環境があらわれ、淋しい想いの人ならば、淋しい環境があらわれ、といった具合に、各自の想いの環境があらわれてくることになる。

これらは、業生(ごうしょう)の法則とされる。この法則は、1回の人生、例えば、50 年や60 年だけの想いを言うのではなくて、3 回、5 回、10 回と輪廻転生した(生まれ変わった)ところの、数百年、数千年、数万年と堆積された想いが、順次縁(きっかけ)となり、現界にあらわれ、また、縁の元(因縁)となり、縁を生じて、これがまた縁となり、再び別の世としての後世の現界にあらわれるといった形になっている。

何だか、海の波のようなものを人間の輪廻転生とした、バッハのフーガみたいですけどね。

それとも、フーガを伴うスパイラルかな。

私が、前に因縁因果の話を取り上げながら、過去世をふっ飛ばしているから、お話になっていない、と指摘したいくつかの事例は、こうした理由によるんです。

こうしたことを抜かして、いくら因縁因果の話を説いたって、現世内での因縁因果であるところの、原因と結果の起承転結が完結しないことが多いのだから、まずは理解できませんよ、と書いた訳です。

従って。

今の人生(現世)の、30 年や、50 年の想いが、今の人生に反映されるとは限らないことになる。

むしろ、限らない方が多い、と。

私は今現在、悪いことを想わないのに、悪いことばかり起きてくる、といった事例のように。

で、ここまで来ると、前回省略した、想い(心)があらわれる、という法則になる訳です。

S さんは、建物、飛行機、宇宙船、幸不幸、成功不成功は、想い(心)がつくる、としていましたが、こうした意味にとらえ直すことになる訳です。

もっと大きな立派な建物に住みたい、使いたいという想いや、空を飛んでいく乗り物が欲しいという肉体人間の願いが、想いが、ある程度の時間を経て形となってあらわれてくる訳です。

建物や飛行機として。

なので、現界(現世、この世)だけの想いや行いを見て、一概にああだこうだ、と断罪することは、(霊的に見た場合には)必ずしも適当とは言えないことになる。

これに関して、五井先生はこう書いています(改変・省略・加筆などあり)。

想い、特に、業因縁は、過去世の過去世から流れ続けている波の連続であり、現世の 50 年、60 年の間のものではない。

ましてや、各自の病気や幸不幸などの境遇(環境)は、直近の 2、3 年での想いのあらわれではない。

誰が見ても立派な人格の人が不幸であったり、何であんなのがと思われる人間が、誰もが羨(うらや)む境遇にある例は枚挙にいとまがない、と。

だから、現世の今現在のありようだけを見て、人様を簡単には責めたり裁いたりできないのだ、と。

で、おそらく、こうした法則のままで放っておかれれば、自己保存の本能を肉体人間として生きていく都合上、便宜的に付与された私達は、苦労ばかりするはめになる。

なので、神様はその愛情の発露として、守護霊さんと守護神さんを遣(つか)わして、肉体人間を、その霊魂魄の成長(肉体をまといながら、元の神体に近づいていくようにするための、魂の成長)をにらみながら、その裁量の範囲内で悪因縁を消し去るように働いていらっしゃる、となります。

以上が、霊性の面からの話になります。

こうしたことを知らない、あるいは、まったく認めない方が、世の中のデタラメぶりや不条理を取り上げて、霊魂なんかない、神様なんかいない、と言っていると考えられます。

上記経文にある、汚れた心(想い)での言動は、その人自身に苦しみがついてくる、荷車を引く牛に車輪がついていくように、という例えですが、霊性を踏まえると、以下のようになると考えます。

想いと行いは、その内容に照らして、神様のみ心に合うか合わないか(真善美に悖るか否か)、で(原則として輪廻転生を通して、回転して)返ってくるものが、異なってくる。

現時点での想いでも、過去世の想いがそのまま映されてあらわれている(本人は無自覚なことがほとんど)場合が多いので、その過去世の真善美に悖る業想念には、悪いものが返ってくる、あらわれてくることになるので、その人自身が苦しむはめになる、となります。

で。

また、かなり長くなってしまったので、霊性のことは、ひとまず置いて、次回に S さんの話に戻ります。

(追伸)

まあ、上記に霊性の話、特に輪廻転生を含めた因縁因果の話を書きましたが、現在のところ、こうした内容は、万人に理解できる形で証明ができるものではないので、あくまでも信じるか信じないかはその人次第だ、ということになります。

個人的にはその人その人の現時点での過去世からを含めたところの因縁因果次第だと、勝手に解釈していますけどね。

霊的な体験や臨死体験も、万人に理解を共有するまでには、到底、至らない、ほど遠いのが現状ではないですかね。

残念ながら。

それに、霊感や臨死体験がある人が、必ずしも高潔な人格者とはならないし、漏尽通を備える聖者ではないのが実情でしょう。

この世での、恵まれた、境遇や条件をいいことに、やりたい放題をする、霊性を爆下げ(?)するようなことをする人達は、上記のような輪廻転生の仕組みをまったく知らないか、見聞しても鼻先で小馬鹿にしてせせら笑っているか、あるいは、あえて知らない振りをして、やり逃げ(?)に耽(ふけ)っているのかもしれませんね(彼らのありようは、過去世の因縁をすでに通り越してしまい、やり過ぎになっているように感じますので)。

とにかく、やりきれない悪い因果に苦しんだ(まだ続いている)私としては、一人でも多くの人が、霊性や輪廻転生の仕組みに目覚めて、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして下さる方が増えるのを、願うばかりです。

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・仏性~ぶっしょう~仏教語~①一切衆生が、本来持っている仏になれる性質。仏心。
②仏の本性。
ここでは、①の意。

衆生~しゅじょう~仏教語~一切の生き物。特に人間。

(参考)
衆生済度~しゅじょうさいど~仏教語~仏が人々を迷いから救い、悟りを得させること。

・堆積~たいせき~①うず高く積もり重なること。
(用例)廃棄物が堆積する。
②岩石の破片や土砂などが、風や川などによって運ばれ、一ヶ所にたまること。
(用例)堆積作用。
ここでは、①の意。

・純然~じゅんぜん~①まじりけのないさま。
(用例)純然たるサラブレッド。
②まったくそれ以外の何ものでもないさま。
(用例)純然たる犯罪。
ここでは、①の意。

・耽る~ふける~ある事に熱中する。深く心を奪われる。没頭する。おぼれる。
(用例)読書に耽る。
物思いに耽る。
ここでは、おぼれるの意。

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①追記: 2021/04/10 06:38
②追記: 2021/04/12 05:25
③追記: 2021/04/25 08:12
〜訂正内容〜

上記 3 回にわたり、本文の一部を加筆・訂正しました。