おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

319_法話50-12-1

12 「わたし」も同じように移ろいゆくもの

世の中(生命)をあわつぶのように、
かげろうのように観(み)る人は、
死も同じように観る。

(一七〇) (第13章 世の中 より)

以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんとします。ご了承下さい。

なお、文章は(以下の五井先生の本も含めて)個人的な判断で、私的な内容の意訳・改変・省略などしますが、ご了承下さい。

で。

あー、また出てきてしまいました。決着をつけていない(ちょっと私見をそのままには書けない)保留中の縁起や無我に関するものが。

とりあえず。

S さんの内容を見て、その後に、五井先生に助けて頂こうと思います。

ちょうど、少し前に引っ張り出した空即是色の本に、参考になる箇所があるので、それを引かせて頂きます。

あと少しばかり、前中後に私の勝手な文を書くかもしれませんが、これもお許し願います。

S さんは、諸行無常を観念で理解することと、実感することとは違うとする。

無常をわかること、それは、以下のようなものだ、としています。

花が散る。これがわかるのは、花が咲いていた記憶があり、それと比べることでわかるのだ、と。

これは、観念で過去と現在観察した状態を比較しているだけで、実感ではないと言う。

S さんは、「知っていること」と「実感すること」は違うと言う。花が散るのを見ている「わたし」も同じように、移ろうものだという確かな実感がなければ、真に無常を理解したことにはならないと言う。

そして、最も根本的なことは、この「わたし」が無常であることだとする。

「わたし」には実体がなく、変化しているものである、と。

「わたし」も「世の中のあらゆる存在」も同じ物質でできており、ともに瞬間瞬間に変化していると言う。

移ろいゆくもの同士が一緒に変化しているから、あたかも止まっているように見えるものだとも言う。

わたしもその他の万物も、宇宙の法則によって、生成・変滅するから実体はないのだ、と。

さらに、万物の無常は認めながらも、「わたし」は無常を認めたがらないものだ、と言う。

自分自身の変化は認めたくないのだ、と。

S さんは、これを「執着」としています。

(拙文)

ちょっとこれ、突っ込みどころがあるんですけど。

万物は常に変化するところの同じものでできている、とはどういうことですか?

原子や素粒子ならぬ、もっと微細な仏子(?)なるものでもあるんですか?

聞いたことないんですけど(私が無教養のせいなのかもしれませんが)。

宇宙の法則って、そもそも、何のことですか?

サラッと簡単にお書きになっていますけど、これらは大問題じゃないんですか?

私は、S さんのお書きになったことをまとめて(ほんの少し圧縮してまとめ直したつもり)みましたが、何をいっているのか、よくわからないのが、正直な感想です。

だって、端的に言ったら、私という無常なるものが、花という無常なるものを見ている話でしょう、これは。

ないものが、ないものを認識する。

そもそも、こんな話が成立するんですか。

しかも、一瞬の仮の姿があるものとしても、私と花の双方のごく一場面だけを切り出して、観察出来ていることになる。

まるで、僥倖ですね。

そもそも、ないもの同士なら、私が認識することもないし、お花さんが咲く姿を見せたり、散る姿を見せることは、ないんじゃないですか。

互いに認識が成立することだって、ないもの同士だからないんじゃないですか。

やっぱり。

ないないづくしでは、私のような理解力の低い者には、よくわかりません。

(五井先生のお話 - 空即是色より。かなり長いですが、お許し願います。上記お断りのように、都合により、改変・省略などがありますが、ご了承願います)

(前略)

色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即是空、空即是色という説明を、普通は、色はあらわれている物のことです。それはみんな空なんだ。空と同じなのだ。その空は物と同じなんだ、だから空にして有なんだ、空は有なんだ、というのです。これは浅い浅い上っ面の話です。

空というのは、仏教の極意の言葉でして、坐禅観法をするのは、空の心境になるためなのです。ところが空になることが実に難しい。食うや食わずで山に入り、滝などにあたったり、坐禅を組んだりするのだけれど、空にならない。空々寂々(くうくうじゃくじゃく)にならない。大体、空というものがわからない。空というものは、言葉にも言えなければ、掴むこともできない。その空が物と異ならない、と説明している訳です。

私の説明ではー

ここにあらわれているもの、例えば机というものは、無いところから出てくる訳なのです。

肉体の人間が生まれます。肉体の人間は両親があって生まれてくる訳ですね。その両親はどこから出てきたかというと、それぞれの両親から出てきている。そのまた両親は・・・とたどってゆくと、どこまでいっても果てがない訳です。すると一番最初は何だったのか、無いところから生まれてきたとなる訳でしょう。空の中から生まれてきた、とこう言う訳です。空というのは何もない訳ではない。私どもの考えでは空というものは実体がある訳なのです。仏教で説きますと空で、実体はないことになっている。空の中に無い。空の中にただあらわれてくるものがあるような説明をしている訳です。

空というものを神と言ってしまえば、話は簡単です。神様から生まれて、神のいのちがここに流れてきて、みんなが生きている、みんな神の分けいのちだ、とこう簡単に説けますが、仏教では神という言葉をそういうように使わない。仏教では「神(じん)」と言っています。霊魂のことを「神(じん)」と表現していまして、絶対なる神(かみ)というようには説いていない。そこで空にまでくるんだけれども、空から先がどうにも説明にならなくなってしまう。先がないのですよ。それで空の悟りに導くことが難しい。滅多にわからないんだから(阿羅漢が現代にはいない(?)ように)。

空というのはどういうことかと言いますと、わかりやすく言うと、自分の想いがまったくなくなってしまうこと。自我、自我欲望、個人という自分が全部なくなって、大我(たいが)、大生命、いわゆる大神様の中に溶け込んでしまった人を空の人というのです。

空になってしまうと、今度は空の状態から生まれてくるもの、ものというのは、机もあるし、肉体もあります。そして、もの、あるいは出来事というものがはっきりわかってくるのです。この話は一番の極意の話だから難しいと思うけれど、きいて下さい。

宗教も信仰も何もなくて、ごく当たり前に生きている人、悟りも何もしない人の見ているもの、机でも、お米でも、人間でも、すべてのものと、空になってしまってから見るものは、同じ形でも内容が全然違うのです。

普通はそうは説かない。わからないから。ただ、空になれ、と言う。空というのは何かといったら、自我欲望をなくすこと。そこまではいい。それから先の心境がわからない。祖師と呼ばれるような人はみんな知っています。大覚者という人も知っている。だけど普通は、空の境地がわからない訳です。

だから、空即是色とあらわれてくるものと、色即是空のものとは同じだから、唯物論者につっこまれちゃう訳です。「それなら、どうしたらそうなるんだ」「坐禅観法で、坐(すわ)ればいい」「坐ってどうやって食っていくんだ。坐っていて食えるか」「いや立っていても、歩いていても、坐った境地になれ、常住坐臥(じょうじゅうざが)、空の心境になれ」てな、すれ違った問答になってしまう。

常住坐臥、歩いていても空の心境、坐っていても空の心境、仕事をしていても空の心境、などとなるためには、大変な修行があってもなれないのですよ。そこが一番大事なところ。なれないようなことをいくら説いてもだめです。この教えはよい教えだ、般若心経はいい教えだ、と言われたって、自分ができないようなことを説かれても、聞いたほうは、頭ではなるほど、なるほどと思っても、実際には出来ないや、とやめてしまう。

すみませんが、続きは、次回以降とします。ご了承下さい。

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・寂々~じゃくじゃく~ひっそりとして、寂しいさま。
(用例)寂々として人影もなし。

・常住坐臥~じょうじゅうざが~すわっている時も、寝ている時も、いつも。日常。平生(へいぜい)。

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①追記: 2021/04/12 05:30
②追記: 2021/04/12 05:33
③追記: 2021/04/26 12:49
〜訂正内容〜

上記 3 回にわたり、内容を加筆・訂正しました。