おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

320_法話50-12-2

前回(319_法話50-12-1)の続きです。

法則の神と救済の神

そこで私が徐々に説くのは出来る方法なのです。

空になった人から見たもの、世界はどういうものか、これを先に説明しますとー
肉体があります。これは物質です。肉体は動物か神の子か。肉体的に見れば動物です。虎だって、犬ただって、猿だって、同じ組織になっている。肺もあり、腸もあり、胃もある。そうすると、これは単なるもの、物質か、肉体か? 普通の宗教のない人の目から見れば、これは単なる肉体です。ところが本当にわかった人から見れば、肉体ではないのです。光の波と自我欲望のカルマが混ざったものが、肉体にあらわれている。だんだん浄まり、悟りに近づけば近づくほど、その肉体の波は光一元になってくる。しかし、普通の人は、光の波と業想念のが混ざって肉体となっている。

それが統一会などに来て、想いを神様のほうに全部捧げてしまう。全部投げ入れてしまうと、神様の大光明のほうから光が流れて入って来て、知らない間に業想念をきれいに浄めてくれるものだから、統一(祈り)をした後などは、光一元になって、きれいな心になり、きれいな魂になり、きれいな体になって帰る訳です。

しかし、今までの仏教の説法では、神様は説けない。説けないで、ただ空までで止まってしまうから、後がどうにもならない。空になることによって、自分の中の仏性、仏様があらわれてくるんだ、と説いていますね。自我欲望、小さい肉体の自分が、自分ではないとわかってくると、本当の自分、仏様があらわれてくるんだよ、とお釈迦様は説いている訳です。

何故、お釈迦様は神様を説かなかったか? お釈迦様の頃には、迷信邪教がたくさんありまして、蛇(へび)などの爬虫類とか他の動物とかを神様にして、神様、神様と拝(おが)んだような邪教がたくさんありまして、それはインドばかりではなく、どこにもあった訳です。そこで念力というものが出たりしたんです。そこで、お釈迦様はいっぺん神様というものをなくしてしまって、絶対者、要するに造物主という形もなくして、自分の中で自分の心で悟る方法を教えたのです。

自分自身が仏なんだ、神とは言わないけれど、要するに、神から来ている命なんだ。だから、命を覆っている業というもの ー 自分勝手な想い、自我欲望 ー をとりさえすれば、本当の自分が出てくるんだ、と教えて、他からくる神の力を説かなかった訳です。だけど、お釈迦様は全部知っていた。毘沙門(びしゃもん)、帝釈天(たいしゃくてん)が守っている、とか、守護神のことはすべてお釈迦様は説いていますね。守護神がみな守っている、ということを随分説いている。

お釈迦様がなぜ絶対神を説かなかったか? 私から言わせれば、絶対神を説いても何にもならないからですよ。どういうことかというと、要するに法則の神、絶対者を説いても、その絶対者そのものが、そのまま法則にのって働いているんだから、絶対者さん!て拝んだってどうしたって、実はそんなもの関係がない訳なのですよ。本当に人間を助けてくれるのは守護神です。守護神がついて、人間の運命を変えてくれる訳なのです。唯一絶対者が変えてくれる訳ではない。唯一絶対者の大生命というのは、宇宙始まって以来、地球界が出来て以来、決まった定まった通りに動いている訳なのです。一分一厘もまけがないのです。いいですか。宇宙の運行というのは、一分一厘まけがないのです。ズーッと決まったまま動いているのです。それをまけてごらんなさい。

ある時、月と太陽が相談した。太陽が神様に「神様、私は朝出るのが嫌だから夜にして下さい」月が「私はもう夜出るのは嫌だから、たまには朝にして下さい」と頼んで、月と太陽が代わって出たなんて話は聞いたことがないでしょう。片方で「雨を降らせたまえ、雨を降らせたまえ」と拝むかもしれない。片方は「天気にして下さい」って拝むかもしれない。念力の強い方を聞いたとすれば、決まったものがなくなってしまう。この宇宙の運行が乱れてしまうでしょ。そこで大神様というのは、全然変わらない。法則のままで動いてゆく訳なんですよ。

そこで法則の神様の法則を曲げるのではなくて、神様の法則のまま、神様のみ心のままに動いていれば、人類は今のような不調和な状態、戦争が起こりそうな状態、天変地異が起こりそうな状態に、この世界は絶対にならなかった訳です。

ところが微妙な波動の神様のみ心の中から生まれた人間は、はじめは微妙な実に微妙な波動で、こんな体ではなくて、霊身で、アメリカに行こうと思えば、パッとアメリカに行く。どこかへ行こうと思えば、パッと行けるようなそういう体だった訳です。それが地球の肉体界という世界に、波動を緩慢にして、粗くして住みついた訳なのです。そうするといつの間にか、その粗雑な波に慣れてしまった。今でもこの世の人間は、例えばいい着物を着て、いい家に住んでいた人があるとします。ある機会から、汚ない生活になったとします。そこで汚ない生活に慣れてしまうと、ボロを着ていても平気になってくる。戦争中に、今まできれいな着物を着ていた人が、モンペをはいて、汚ないなりをした。それでみんながそうするから、みんな平気になって、みんな汚ないなりでも平気になってしまったでしょ。あれと同じように、本当は微妙な自由自在な体を持った人間なのだけれど、それが肉体界という、粗い波の中で地球界で生活しはじめて、それが長い間に慣れてしまうと、粗い波の地球のこういう物質の世界が本当の世界だと、だんだん習慣で思ってしまったりして、自分でもだんだん自己限定をして、自分でもって、これっきり出来ないんだ、という風にしてしまって、今の地球人間が出来てしまったのですからね。この地球世界では、自分と他人とは全然関係のない、つながりのない赤の他人なんですね。ところが元をただせば、命の世界では一つにつながった、命の分かれなんです。

すみませんが、この続きは、次回以降とします。ご了承下さい。