おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

321_法話50-12-3

前回(320_法話50-12-2)の続きです。

空をわかるために

誰も彼も兄弟姉妹、物質の肉体が離れてしまったから、利害関係が対立しまして、他人も自分も、自分のことを守ることで精一杯。自分のことだけを守ることを考えてしまった。そのように慣れてしまって、今の、この戦争が起こりそうな世界が出来ている訳です。それを直さない限りは世界が平和にならない。そこを直そうとして働いているのは、宇宙神、絶対者、唯一神ではなくて、唯一神から分かれて、そういう役割を持たされた守護神なのです。

いつも言うけれど、一人一人に祖先の悟った霊の守護霊がいるし、神様の分かれの生命、絶対者の分かれの光明の守護神がついていて、一人の人間を一生懸命守り、それから大勢をも守っている訳です。各守護神、守護霊が一つになって、世界人類を守ろうとしているのが救世の大光明。いわゆるみんなが集まって人類を救済しようとする神様の愛念がー、守護神の団体になって今、働いている訳なのです。

だから大神様そのものが働いているという意味ではない。大神様は片方としては、大生命として、小生命、いろんな生命を与えてみんなを生かしている。決まった法則のままに生かしている。神様がそのままあらわれてくるまでは不完全ですね。その不完全を補うために守護霊守護神というものが派遣されていて、手が足りないな、手助けをしてやろう、荷物が重いから持てないな、持ってやろう、として助けてくれているのです。それが守護霊守護神なのですね。ところが今の仏教者は守護霊守護神を説かないんです。あんまり説かないで、ただ「仏になれ」とか「空になれ」とか説く訳です。しかし、守護霊守護神の助けがなくて、空になどなれる訳がないのですよ。坐禅観法しても空になんかなれっこない。説いている人もなれっこない。

そこで本当の般若心経をわかるためにはどうしたらいいか、というと、やっぱり守護霊守護神の力を借りて、大般若という般若の智慧、神界の智慧の中に入らないうちは、この中は神の世界だということがわからないのです。そこに祈りが必要になってくるのです。その祈りというものを、お坊さん方は、お願いだと思っている。お祈りというと、家内安全、商売繁盛、どうかご利益(りやく)がありますように、というのが祈りだと思っている。それはお願い事なのです。

本当の祈りというのは、いのちを宣言する、命を宣(の)りだす、命をそのままあらわすということです。そこで祈りが必要な訳です。祈りはいろんな方法があるけれども、どうしたらよいかというと、私が一番最初に考えたのは、守護霊守護神さんに感謝する祈り「守護霊守護神さん有難うございます」だった。こっちは 1 日の 3 分の 1 は眠ってしまうのに、守護霊さん守護神さんは寝もやらず、必死になって守って下さっている。有難うございますという感謝です。これから私の宗教は始まっています。それからその感謝だけではなくて、もっと自分の想いを拡げて、世界人類のために、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、というような大愛、慈愛の想いにまでひろめるようにした訳です。それで世界平和の祈りというのが出来上がった訳ね。

自分が悪い、だめだと、いい悪いとコチョコチョ思っているうちは、人間は心が開けないのだから、そういう想いを全部、守護霊守護神さんに任せてしまって、大神様の光の中にいれてしまう訳です。自分がだめだとか良いだとか思っているうちは、大神様から外れているのです。心臓がちゃんと何でもなく動いている間は、心臓のことは何も思わない。肺のことも思わない。何にも思わないで働いています。結局、故障が出た時に、今日はどうかなって思う訳でしょ。それと同じように自分が神様のみ心のままに働いている時には、何にも思わないですよね。スースー働いている訳です。ところが、ちょっと自分が間違った、法則に外れたりすると、どうかな、大丈夫かな? 大丈夫じゃないかな? あいつは悪いかな、こいつは悪いか? なんてだんだん思いだす訳でしょ。だから、自分がだめかな、とか悪いかな、とか思う心があるうちは、もう法則から外れているというのです。神様のみ心の大慈愛の法則から外れているのです。

自分はいいかな、悪いかな、不平不満がある、いろんな批判がある時には、もう神様のみ心から外れているんだから、その想いを守護霊さん守護神さん有難うございます、という心をもって、世界人類が平和でありますように、という大きな祈りをする訳です。そうすると、その想いが守護霊守護神さんの柱を通って、神様の中に入っていく訳です。そこでちゃんと軌道に、神様のみ心にのせてくれる訳です。こういうのが祈りなんで、それを私は世界平和の祈りという祈りにしてやっている訳なんですよ。