13 自我をだしたとたん心の成長は止まる
無意味なものを有意義とみなし、
有意義なものを無意味とみなす人は、
その誤った心にとらわれて、
決して真実は得られない。
(一一) (第1章 対句 より)
以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんとします。ご了承下さい。文章も私の個人的な判断で、改変・省略・意訳などしますが、ご了承下さい。
S さんは、自我を出す云々とお書きになっていますが、申し訳ありませんが、私の独断と偏見で置き換えた話に変えます。ご了承下願います。
S さんの自我と呼んでいるのは、肉体人間のことです。
人間とは、本来ならば、霊なる人間、神様の命を分けられていきているところの、命そのものです。
唯物論ではそうは考えません。
五感で認識できる、目で見える、耳で声が聞こえる、鼻でにおいがわかる、口で(舌で)味わえる、肌で感じる(触れる)ことができる、あたかも外見は動物の一種であるかのようにあらわれている、この肉体こそが人間である、肉体人間=人間という認識です。
極論すれば、精神は、これにくっついているもの、付随しているもの、くらいにしか見ていません。
ゆえに、肉体人間として、この世に分かれた形である他人様は、同じ神様の命を分けられた同胞だとはわからず、個々の肉体人間とその近しい身の回りの者だけの利害得失計算ばかりに明け暮れます。
肉体人間個人なら、その利益を最大化することが第一におかれてしまうのです。
それには、この世で生きていくために、まず、自分の生活ができるだけつつがなく成り立つようにすることを確保することが最重要となります。
後のことは、肉体人間の五感にまつわる各種の欲望にもとづいて、順次優先順位をつけながら、叶えていこうとします。
こうした欲望そのものではなくても、こうした生活の他人様との比較により、名誉欲や権力欲などまでが、出てきます。
S さんの言われている、自分は偉いと思い込んで傲慢になると、心の成長が止まる、自我を無くすことが、つまり、何のたれがしという名前の肉体人間そのものが人間だという、人様との区別を無くすことが、人様と自分とを比較して、競争して争うこともなくなり、心穏やかになる、としています。
他人様との区別を無くせ。
これは要するに、皆、神様の分けられた命を頂いて生きている同胞なのだから、その時々の経済状況を始めとした様々な境遇が異なっても、同じ人間としてそれなりに敬意を払い、尊重しろ、ということですよね。
だって、この前提がなければ、競争するな、争うな、の根本的な理由づけができないからです。
とは言うものの、この世で生きている、私達各々は、あまたの過去世からの因縁により、抜き差しならない対立関係にあったりと、各自の神性を見いだそうとしても、一筋縄ではいきません。
なので、とりあえずは、人間は肉体人間ではない、神様の命を分け与えられたからこそ生きていかれる存在であり、その神様の分け命こそが人間であることをまず、第一に頭に入れて(今はわからなくてもいいから)、
そして、簡単には、自分と他人様との垣根を取り払えないような過去世からの因縁因果が、いろいろとある可能性が高いので(元々、因縁の解消のために修行としてこの世に出されることが多いから)、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることで、少しでも因縁の解消を穏便に、あるいは解消して頂くことが望ましいと思います。
この経文に関して、S さんは、さしずめ人間=肉体人間観、あなたも私も別々に分かれている人間でありながら、自分を無くせ、というのは、申し訳ありませんが、やや苦しい、ちょっと窮屈な説明になっているように思えるんですよ。
やはり、霊性の観点から、みんな誰もがその本質において、同じ神様の命の分かれ分かれであり、互いに尊重しあって、協力、共存するのが、あるべき姿だ、だから、あなたが偉い、私が偉いもない、としたほうがスッキリするように思うんですよ。
これは、前に男女のことに関して、なぜ、女性ばかり優遇されなければならないのか、について書いたことと理屈はまったく同じです。
だから、あなたが偉い、私が偉い、と比べて、一喜一憂することもなければ、妬(ねた)んだり、嫉(そね)んだり、思い上がって傲慢になることもない。
ただひたすらに、神様のみ心に合うかどうかを自問自答だけして、精進していけばいい。
他人様の霊性の向上は素直に称(たた)えればいい。
そう言えると思います。
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①追記: 2021/04/15 21:35
②追記: 2021/04/15 21:38
③追記: 2021/04/26 12:51
〜訂正内容〜
上記 3 回にわたり、内容を加筆・訂正しました。