15 解決しようとじたばたしない
心は煩悩が漏れることなく、
混乱することもなく、
善も悪も乗り越えて、
目覚めている人には、
何も恐れることがない。
(三九) (第3章 心 より)
この訳文も一行目がわかりにくいので、また、別の訳を参照します。
心乱れることなく、
思い惑うことなく、
(世俗的な)善悪を超越し、
目覚めた人には、
恐れがない。
申し訳ありませんが、私のような理解力の低い者には、S さんの例えがピンと来ないので、また、私の独断と偏見で置き換えた話にします。
ただ、一応、S さんのお書きになっていることをまとめてみると。
S さんは、問題が生じた時に「問題を解決しよう」という考えを捨てよ、のようにお書きになっていますが、この書き方は失礼ながら、あまり適切ではないと思います。
後の文章の内容から照らし合わせて読み替えると、問題に直面しても、その解決ができようとできまいと、オタオタするな、どんな結果になろうとも、それはそれで受け入れよ、そうすれば、結果の如何(いかん)に関わらず、心を落ち着かせることができ、それによって最適な対処法が見えてくる(ここまでは書いていませんが、私の意訳です)としているように、読めるからです。
解決する、というか解決には当たる。ただ、必ず解決するんだ、と意気込みすぎるな、心を乱すな、という内容に読めるからです。
従って、解決そのものを放棄するかのように、誤読される可能性のある言い回しはちょっと・・・。
ここにも、明日はどうなるかわからないとの気持ちで問題解決に当たっていけば、人生はいきいきとしてくる、とありますが、明日はどうなるかわからない、これもちょっと・・・。
とにかく、上記経文を霊性の観点から読み替えて見ると。
この世で起きてくることの、
どんなことにも心乱されることもなく、
従って、想いも乱されることもなく、
この世で起きてくることの、
どんな善も、肉体人間がこの世でつくった想いと行いによる過去世の善因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿、
どんな悪も、肉体人間がこの世でつくった想いと行いによる過去世の悪因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿、
それが心の真からわかっている人には、
恐れることがなくなり不動心となる。
なぜならば、すべては神様の思し召しとしてあらわれた、
神様のみ心をあらわすための、
過程としてあらわれたものだと納得することができるから。
仮に、この世で起きてくることの、大半ではなく、そのすべてが、人間のあまたの過去世の因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿である場合には、このように読み替えることができる、と考えられます。
とは言うものの。
このように、あらゆることを観る、捉(とら)えることができるというのは、人間は肉体ではない、神様から分かれた命そのものなんだ、輪廻転生を通して、如何なる時代に、如何なる肉体人間としてあらわれようとも、如何なる善因善果が巡っても、如何なる悪因悪果が巡っても、それは神様の永遠の生き通しの本体(霊性ではこれが本当の実体)からすれば、目の前を通り過ぎて消えてゆく姿であり、最後に残るのは神様のみ心である、絶対善だ、と確信しているからこそだ、と言えます。
そもそも、人間=肉体人間ではなく、神様(仏教ならみ仏かな)の分け命だと自覚することが、まずできない。
これがわかったら、涅槃に入る、悟りを得ることになるから、到底、唯物論に染め上げられた現代人には、難しすぎる。(※)
難行道(聖道門)の自力修行はすべてをなげうち、捨ててかからないとまずできないほどの難事(それでも必ず悟れるとは限らない。悟れるか否かは、その人の過去世からの修行の積み重ね次第になるから)だし、やはり、浄土門、それも、妙好人のような在家にいながらにしての南無阿弥陀仏の念仏一念のやり方や、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行で、段階的に霊性の開発を詰めていくのが適切だと思います。
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(※)以前、中村さんの原始仏典のところでも少し触れましたけど、昔の修行はとてつもなく厳しい。
戒律を守るのもきわめて難しい。
複雑な環境にあり、しかも、様々な誘惑に駆られ易い現代人には、つまり、現代人の置かれた環境では、自力修行はあまりにも難しすぎて、その実行はまずは不可能だと思えるからです。
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追記: 2021/04/27 06:10 〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。