おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

326_法話50-16

16 今なすべきことに意識を向ける

なすべきことを、なおざりにし、
なすべからざることをなす。
遊びたわむれ放逸な(今の瞬間に気づかない者には)、
煩悩が増大する。

(二九二) (第21章 さまざまなこと より)

・放逸~ほういつ~勝手気ままでだらしないこと。また、そのさま。
(用例)生活が放逸に乱れる。

特に、霊性的に書くこともあまりないと思うので、S さんのお話を要約して、おきたいと思います。

S さんによると、お釈迦さんは、何事もするに当たって、これを巧みにこなすような人になるためには、今行っていることについて、正しく気づくことだ、としているとお書きになっています。

(例えば、仕事や家事などでも)今していることを正しく認識していく、とでも言いましょうか。

おそらく雑務に追われて、物事がはかどらなくなっている時には、こうした認識が足りず、心が落ち着かなくなっているからだ、と言われているように読み取れます。

S さんは、何事をなすにも、一点集中、なしている行為に気づきながら、ことを行えば、巧みに事を運べると言われているように思います。

まあ。

それでもこの経文を文言通りに素直に読んで、霊性の観点から言えることがあるとすれば。

前にも、何回か書きましたが、私達肉体人間は、自分で生きているのではないことがあります。

各人に定まった寿命、天寿があるのならば、これを勝手に変えることはできない、と思われます。

自殺をする以外は。

それ以外は、私達肉体人間は、自らの意思だけによって生きているのではなくて、何らかの摩訶不思議なる力の働きかけによって、生命活動を維持しています。

睡眠時に、休むことなく体の各器官が働き続けてくれていることからもわかるように。

この肉体に生きるための働きかけをしているその不思議な力が、神様から分けられた命になる訳です。

唯物論で考えても、消去法でいけば、これしか考えられないんですよ。

つまり、人間の肉体としては、自分で生きているのではなくて、神様の分け命によって生かされているとなります。

そうしてこそ、初めて肉体人間として生きていくことができる。

では、そうして神様から分かれた命で生かされている私達はどう生きるべきか。

少なくとも、享楽三昧、遊興三昧に使うことは、望まれていないことだけは確かですね。

だから、生活が放埒に乱れて、煩悩にまみれることは、不可ということになります。

そして、肉体人間の各人が、過去世からの因縁を踏まえた上で、与えられた境遇の中で、できうる限り神様のみ心に沿うように、精一杯生ききることが、望まれているとのでしょうね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2021/04/27 06:12 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。