おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

327_法話50-17

17 不安の消えた状態が悟り

渇愛から憂いが生じ、
渇愛から恐れが生じる。
渇愛を離れたならば、
憂いは存在しない。
どうして恐れることがあろうか。

(二一六) (第16章 愛しきもの より)

この世のあらゆることは、良いことも、悪いことも、人々のあまたの過去世の因縁の時を経て消えてゆく姿であり、従って、目で見、耳で聞き、鼻で匂いがわかり、舌で味がわかり、肌で触れてわかる、いわゆる、五感にもとづいて認識されるものは、万物流転を避けることができない。

従って、こうした、万物流転する、いわば、かりそめの姿に、愛情を抱き、執着をするならば、その愛情を抱く対象が失われること、喪失することに対する恐れが、そして喪失することそのものが、苦しみとなってあらわれてくる。

あるものは、神様のみ心だけ。

これが実体。

あとは、すべて、上記のような消えてゆく姿。

これを体得、感得できたことが悟り。

これを、体得、感得できなければ、喪失感などの不安を無くすことはできないために、常に何らかの憂いはつきまとうことになる。

この世のすべてが万物流転するものであり、実体は神様のみ心のみであると認識できない限り、渇愛ならば、そうした家族や親しい友人などに対する愛情により、その人が失われることについての憂いと表裏一体の現象をあらわしている、ということ。

だから、渇愛を捨て去っている境地、悟りを得た境地でなければ、憂いを無くすことはできない。

霊性的には、こうした意味に読み取れると思います。

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追記: 2021/04/27 06:14 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。