おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

330_法話50-19

19 自我は苦しみを生むおおもと

「一切の事物は我にあらず」(諸法無我)
と明らかな智慧をもって観る時、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これが清浄になる道である。

(二七九) (第20章 道 より)

S さんは、私はと認識する主体を自我として、この自我が苦しみを生む大元だとしています。

私という固定した実体があると思い込む、その主体こそが自我との認識のもとに。

やっぱり、法句経にしろ、何にしろ、仏教では無我は避けて通れないですね。

仕方がないので、まだ、縁起や無我については、保留中だったのですが、とりあえず、大まかなことだけ書いておきたいと思います。

いろいろと異論があるかもしれませんが、何分、私のような力不足の者の言うことなので、ご了承願います。

S さんに限らず、おそらく一般的な仏教では、このように説くのでしょう。

認識する主体の肉体すらもない、と。

そして、すべてのあらゆるものは、関係をもたらす縁起によって、生じてくるだけのもにすぎないのだ、と。

これ。

はっきり言ってしまうと、何言ってるのか、わからないんですけど。

本当におわかりになりますか。

何にもない。

ない、ない、ない、と言っているのだから、縁起だってないでしょ。

よしんば、縁起だけはあるものと仮定しても、その縁起の起点、始まりがありますよ。

とっかかりが。

土台が。

そうじゃなきゃ、おかしいじゃないですか。

あらゆるものは実体がない、何もない、のならば、縁起も、その縁起のとっかかりの起点もなーんにもいことになりますよ。

とっかかりがないんだったら、その関係を構築する網の目に相当する縁起だってないですよ。

そうじゃありませんか。

ふわふわしたクラゲのような縁起だけがあって、この世のものが、様々にあらわれていると言うんですか。

とっかかりは不明、縁起だけはある。

これでは、何を言っているのか、サッパリわかりません。

まず、自我。

私だ、と思う主体はありますよ。

感じる主体、判断する主体があるじゃないですか。

もちろん、こうした、ない、ない、ない、と判断する主体もあります。

そうしないと、話にならないでしょ。

ただし。

その主体は、人間=肉体人間という肉体人間観としての主体ではない、ということ。

神様の分け命としての、霊なる人間としての主体です。

別項で既述のように、実体としてあるものは、神様のみ心だけ、神様の命だけ。

あとは、ありとあらゆるものが、万物流転するので、恒常的なものは一切ない。

ないものは何かというと、神様の分け命を曇らせている、覆っている、人間=肉体人間観による勝手な想いやこれにもとづく欲望です。

だから、五感で認識できるものも、何もかも、この世では、時間が経てば、すべて消え去ってしまう。

こうした見方をすれば、あらゆるものは、この世であらわれては、時を経て消えてゆく姿で、神様の命以外は恒常的なものは一切ない、となりますよ。

だから、肉体人間としての、すべての人が、この世では、寿命が、天寿があり、生を授かった以上、時間の長短はあっても、死に向かって生きていくことになります。

この肉体人間としての肉体は、輪廻転生を通して何度もあらわれては消えてゆく、かりそめの姿だ、ということです。

だから、この世で、肉体も時間が経てば消えてゆく。

永遠にあるものは、神様の命だけ。

神様の分け命こそが私だ、自分だ、と感得できれば、言い換えれば、悟りを得られれば、この世での苦しみも、迷いも、すべては(主に)あまたの過去世からの間違った想いのこの世で時を経て消えてゆく姿だとわかるので、心穏やかに、清らかな境地にいることができる。

いくら過去世からの償わなければならない因縁があったとしても、すべては神様のお計らいとお任せの心境になることができる(はず)。

ただし、何もせずにお任せではなくて、妙好人の人達のように、南無阿弥陀仏の祈り一念で、すべてを阿弥陀如来様(神様)から頂き直すようにしていくことが、必要になってくる。

あるいは、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行によって。

自力修行で悟りを得るのがきわめて困難な現代では。

そうして精進していけば、清浄になる道に通じる。

十二縁起だと事細かく難しいことをあげても、縁起そのものの存在が疑われたら、どうしようもない気がするんですよ。

以上、きわめておおざっぱですが、あくまでも、私個人の独断と偏見による考えなので、平にご容赦願います。

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①追記: 2021/04/18 19:53
②追記: 2021/04/18 20:25
③追記: 2021/04/29 00:25
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を訂正しました。