おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

331_法話50-20

20 まず自分をととのえてから

まず自分を正しくととのえ、
ついで他人を教えなさい。
そのように賢明な人は、
煩(わずら)わされて悩むことがない。

(一五八) (第12章 自己 より)

あなたが他人に教える通りに、
自分でも行いなさい。
自分をよくととのえた人こそ、
他人をもととのえる。
自分を制することはとても難しい。

(一五九) (第12章 自己 より)

S さんによると、お釈迦さんの教えは、「他人の過失を見るのではなく、自分を観なさい」(見と観が使い分けてあります)ということだそうです。

人のことは放っておいて、自分の責任だけを果たしていけば、上手くいくそうです。

説教はいけないのではなく、まず、自分がやってから、すればよいとのこと。

つまり、自ら手本を示してから、ということですね。

これも何十回書いた語句かわからないんですけど、業想念。

神様の真と善と美に悖る、外れた、人間=肉体人間観により生じる、誤った想いと行いです。

こうした、業想念にまみれて、その渦の中に巻き込まれている、悟りには程遠い状態から、いくら人様を教化しようとしてもダメだ、ということですね、これは。

とは言うものの。

実際には、現代では悟ることはまずはできないので、どうしても、業想念を抱えた中での、お諭しならお諭し、説教なら説教ということになります。

上記 2 つの経文を煎じつめれば、人様の参考になる鏡として、手本として、なるべく精進しておきなさい、となりますね、実際のところは。

悟れない以上は、自分と人様の相対的な比較からどうしても逃れられないので、どうしても、妬(ねた)み、嫉(そね)み、(アイツよりも俺の方が多少は偉いなどという)高慢が生じてくる。

やはり、相対的な考えでは、基本的には教化は難しく、教化の基準は絶対的なものに置くしかない。

つまり、自らが、あらゆる想いと行いを、神様のみ心に沿うものかどうか、自問自答しながらやっていく、精進していくしか、安定する道はない。

そうして、自らのあまたの過去世からを含めた因縁因果を少しでも詰めて改善しておくしかない。

あとは、悟りに至れない者同士としても、いくばくか人様よりも精進できているのならば、せいぜい、鏡、手本となるようにしていくしかない。

因縁因果の改善による、無言の教化となりますね。

説教は無効だ、とこれも何回も書いてきましたが、完全とは言いません。

ただ、説教がたまたま因縁因果にはまって、効果があるかのような形に見える時だけ、効果があると感じるだけだ、と思います。

だから、説教は無効だ、と。

まあ、せいぜい、説教のようなものがあったところで、実質的な効果があるのは、悟れたような人が、穏やかに諭す場合くらいじゃないですかね。

なので、各自の因縁因果の改善、つまり、霊性の向上と、感化(これは多分、神様の光による)が、望ましいと思います。

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追記: 2021/04/29 00:31 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。