26 得る道ではなく捨てる道
何もない我らは、
大いに楽しく生きている。
アーバッサラ神(光輝く神)のように、
喜びをさ滋養として生きている。
(二〇〇) (第15章 幸せ より)
まず、アーバッサラ神についてですが、S さんは突然のように出してきて、しかもこれについての解説がまったくなされていません。
申し訳ありませんが、このアーバッサラ神の話は、かなりそれた内容になってしまうので、ここでは触れないこととさせて下さい(多分、これからも。突き詰めてしまうと、概念をこねくり回した哲学のような話が出てくるので)。
正直どこまで書いていのよくかわからないし、ここではわざわざこだわる意味はない、と判断して割愛することにします。
ご了承願います。
とりあえずは下記の訳のように、アーバッサラ神は、(光輝く)神々でいいと思います。
まあ、ともかく、わかりにくいので、ご参考までに、また、別の訳を引いておきます。
何も所有することなく、
私達は幸せに生きよう。
光り輝く神々のように、
私達は喜びを糧(かて)にしよう。
(二〇〇) (第15章 幸せ より)
以下に、S さんの書いていることを勝手にまとめさせてもらうと。
世の中のあらゆるものが無常であり、従って、ものが失われていくことによる不安が生じるために人々は物をためようとする、と言う。
しかし、いかに物を確保しようとも、無常に逆らうことはできないので、物が失われる不安から逃れることはできないと言う。
そして、次の経文を引いて、仏教は得る道ではなく、捨てる道を教えるものだと言う。
sati (気づき) の実践者は、
(常に)つとめ励む。
彼らにはよりどころはない。
白鳥が池を立ち去るように、
この世(今世)、あの世(来世)を捨てる。
(九一) (第7章 まことの人 より)
これも、別の訳を引いておきます。
心ある人は励みつとめ、
世俗に住むことを楽しまず、
白鳥が湖を後にするように、
住まいを捨て去る。
(九一) (第7章 まことの人 より)
この (九一) については、この2つの訳を合わせて、見てみます。
なお、まことの人 とは、arahant で、尊敬・供養に値する人の意で、漢訳では、阿羅漢または羅漢と音写されるものを指します。
S さんは、捨てる生き方を歩めば、身も心も軽くなって楽な気持ちがずっと続くと言う。
そして、それは単に物に頼らないことだけではなく、神であろうが、仏であろうが、まったく何物にも依存しない生き方であり、これこそが、真の自由だと言う。
悟りを得た人は、すべてのものが無常であることを実感して生活しているがゆえに、何もため込むことはなく、心に何の不安もない、と言う。
食事も体を維持するために必要な量しか採らず、空を飛ぶ鳥たちが、その足跡を空に残さないような生き方になると言う。
これだけは、ちょっと違うような気がするなあ。
確かに、煩悩を捨て去る、絶ち切ることができれば、あらゆるものに対する執着から離れることができる(はずだ)から、物はため込まないし、かなり不安も減らせるでしょう。
ただ、神仏に依存しない生き方はどうなんでしょうかねえ。
ご利益信仰ばりの現世利益を叶えて下さる神様ばかりならいざ知らず。
こうしたご利益信仰的に頼られる神様・仏様だって、実は本意じゃないと思いますよ。
もしかしたら、しぶしぶ、応じていらっしゃるのかもしれない。
だから、ご利益を得るためには、それ相応の大変な代償が必要となる。一定の形式を踏んで、それこそ、聖道門(難行道)の自力修行ばりの厳しい行を修めなければならない。
なぜ、このようになっているのか?
以下は、また私の勝手な独断と偏見による仮説なので、色々と異論があるとは思いますが、お許し願います。
本来、この世でもたらされる様々な良き事は、神様のみ心に沿うもの、真善美に悖らない想いや行いの積み重ねによってもたらされるもの。
ゆえに、輪廻転生を通しての、それなりの想いや行いの積み重ねがないと、得ることができない、返ってこないものである。
これが本来のあるべき形。
良い想いと良い行いの積み重ねがあったからこそ、その恩典(?)が輪廻転生を通してもたらされる。
これがないのに、無条件でご利益があるという訳にはいかない。
絶対に。
ゆえに、その代償として、神様や仏様を通してご利益を頂くために、生半可では太刀打ちできない、大変な行を修めなければならない。
だから、現世利益獲得のために、神様や仏様に頼るのは、本筋ではない、と考えられるのです。
もちろん、そうは言っても、過去世での業想念の厳しい償いの修行を課されるこの世ですから、あまりにもその償いが大変だと、耐えきれなくなる可能性が高い。
そこで、守護の神霊さんが時宜(じぎ)を見計らって、ご利益信仰を入り口として、最終的には本来の信仰までたどり着けるようにしながら、それなりの縁がある神様や仏様にお導きになる可能性が考えられる。
ご利益信仰をしていくうちに、だんだんと本来の信仰に目覚めさせるようにして。
そうして、本来の信仰までたどり着けたとしても、神様に頼らない、何にも依存しないという訳にはいかない。
そもそも、この肉体からしてが、神様の分け命によって生かされている。
その命があるからこそ、神様のみ心に沿うかどうかの善悪良否の判断は、自らの理性で行うことができる。
過去世からたまっている誤った想いや行いの業想念を、退(の)けて、退けていくのも、浄(きよ)めるのも、判断の主体があるからこそです。
それは、神様の分け命をおいて他にない。
そして、足りないところを懸命に助けて下さるのが守護の神霊さん。
だから、神様がなければ、何一つできませんよ。
神様に肉体人間として生かされて、判断のよりどころとなる知恵も授かり、守護の神霊さんに守られている。
だから、神様がなければ、そもそも、私達肉体人間はないんです。
しかも、お釈迦さんのようにたくさんの過去世の良き積み重ねのあった人が、守護の神霊さんの助けも借りて、はじめて悟りを得て独り立ちできる。
だから、神様に依存しないどころか、あらゆる面で、神様にお世話になっている。
支援されている。
そして、私達の置かれている環境。
自然の恵みは、一体、どのようにもたらされたのでしょうか?
やっぱり、すべては神様から与えられたとしか考えられないんですよ。
従って、S さんは、「神であろうが、仏であろうが、まったく何にも依存しない生き方」が「真の自由だ」としているのは、違っていると思います。
なお、この世(今世)、あの世(来世)を捨てる、というのは、良き行いだけに励み、その見返りは、一切期待しない、と解釈できると思います。
現世(今生)でも、来世でも、見返りなんか一切気にしない。
ただひたすら、良き行いだけをするだけでいい、と。
ただし。
これは高邁な理想なので、実践するのは難しいですけどね。
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・高邁~こうまい~心がすぐれて気高いこと。また、そのさま。
(用例)高邁な精神。
・気高い~けだかい~おかしがたい気品がある。上品である。
(用例)気高い心。