おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

346_法話50-31

31 「知っている」と思う者が愚か者

もし愚か者が、
自ら愚か者であることを知るならば、
すなわち賢者である。
愚か者でありながら、
しかも自ら賢者だと思う人こそ、
愚か者だと言われる。

(六三) (第5章 愚か者 より)

S さんの言うことを(私の独断と偏見の意訳で)まとめると。

S さんによると、自分は知っている、自分は正しい、とする人間が愚か者だと言う。

そして、こうなってしまうと、謙虚さが失われ、従って、(探求心もなくなり)成長が止まると言う。

まあ。

とはいえ、知っている場合だってあるでしょう。一概に、知らないと決めつけるのはおかしいです。

ちょっと、話の運びが雑だと思います。

神様が、この世のありとあらゆるものをおつくりになったのならば、本当に肉体人間の知識、いわゆる、才智はとるに足らない。

あらゆる生命の誕生の不思議、成長の不思議など、わからずじまいなのではないだろうか。

遺伝子もほんの触り(と思われる)内容だけでも信じられないほどに精緻で詳細にわたる。

肉体人間は、現段階ではあくまでもその外枠だけをようやくとらえたくらい。

あんな想像を絶する生命の設計図を作ることもできなければ、働きを作りだすこともできない。

外からほんの触りを、わずかに操作するだけ。

だから、この世で抱きがちな、人様との比較での名誉欲、非崇拝欲など、本当に愚かしい。

研究しながら、ようやく、はしっこの、はしっこの、はしっこに、かろうじてたどりつけたけど、お互いによくここまできたね、と励まし合うのが、適当と思われるくらい。

そう考えてくると、肉体人間はあらゆるものを、常に謙虚な姿勢で学んでいくべきだと思わされる。

S さんは、この内容に関連して、さらにもう1つの経文をあげています。

愚かな者は、
自分にありもしない尊敬を得ようと願う。
修行僧の間では高い地位を望み、
僧院にあっては支配権を望む。

(七三) (第5章 愚か者 より)

道を求めていくのもそう。

肉体をまといながら、自分の本質は神様である、神様の分け命だと、悟るのは超のつく難行・苦行。

悟りは、過去世からの積み重ねによるから、今生(今回の人生)で悟りを得ることができるとは限らない。

むしろ、得ることの方が、希でしょう。

それでも、悟りたければ、ひたすら精進していくしかない。

輪廻転生を通して、来世以降にたすき(バトン)を渡すように、努力を続けるより他はない。

だから、人様と比較して、ちょっとばかりすすんだだの、偉くなっただのと、誇示しているのは、滑稽な限り。

ちょっと謙虚だからと言って、賢者と言うのさえ、はばかられるようなもの。

これらの経文は、過去世からにわたり、たくさんの業想念を積んだ肉体人間は、常に謙虚に精進していきなさい、と言っているものだと思われます。

現代では、人様に認められたい、という渇望は、承認欲求と言うようだが、人様の目ばかり気にしていては、いつまで経っても相対評価の呪縛を外せずに、いたちごっこは終わらない。

いわば、承認欲求の価値を相対評価に求めるから、ダメな訳です。

人様の目を気にしないためには、どうすればよいのか?

バッハさんが、神に音楽を捧げたようにすればいい。

いかに神様のみ心に沿うか、適(かな)うか、自らの真善美にたいする判断力に照らし合わせて、ただひたすら精進していけばいい。

つまり、絶対評価に評価の基準を置いて精進していけばいい。

あと、やっぱり、霊性の開発、現代なら祈りと感謝行も必要でしょうね。

アイツがだめだ、コイツがだめだ、俺様の方が偉い、なんだかんだ、というのは、すべて真善美に悖る、反する想いと行いの業想念。

これを浄めてなくさなければ、根本的な解決にはならないから。

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①追記: 2021/04/29 03:20
②追記: 2021/04/29 17:17
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。