38 真の勇者とは
よいことをするためには、
ためらってはならない。
善をなすのに躊躇(ちゅうちょ)していたら、
心は悪を楽しむことになる。
(一一六) (第9章 悪 より)
よくわからないのだが。
S さんは、人間の心(以下、想いとする)は悪い方向に行く方が楽で、ちょっとした隙(すき)さえあれば、悪い方向に行ってしまうと言う。
安易な気持ちで、大したことはないと、悪いことをするものだ、とも言う。
人間はこんなものだからこそ(?)、よいことを実行するためには、かなり強い決意が必要だ、と言う。
そして、意志薄弱な者はよいことはできないとして、よいことをする者こそが、真の勇者だと言う。
これ、何だか、人間は元々怠惰な悪者である、と言わんばかりの性悪説みたいじゃないですか。
まるで、人間は元から悪者的だからこそ、よいことを実行するために、並々ならぬ決意が必要だ、と言わんばかりです。
まるで、磨いても、光らない玉。
私にはそのように読めるんですけど。
人間、なかんずく、肉体人間は、本質は絶対善です。
磨けば光る玉。
神様の分け命なのだから。
神様なのだから。
ただし、この世に生を受けることは、基本的には、あまたの過去世でため込んできた、神様のみ心にはそぐわない、真善美に悖る想いと行いの清算をするという(過去世のよからぬ因縁=業想念の償いをするなどの)修行をしながら、同時に、神様の世界をこの世に映し出す活動をしていく訳です。
安易に悪いことをしがちで、迷っているのは、輪廻転生を通して染み付いてしまった人間=肉体人間であるとの肉体人間観と、業想念のためです。
だから、肉体人間の本質それ自体が悪い訳ではない。
それゆえ、お釈迦さん時代のような自力修行や、浄土門や世界平和の祈りと守護の神霊への感謝行のような他力修行や、こうした常識のようなあるべき規範としての経文を拠り所として、霊性の開発をして、業想念を少しでも浄め去って、元々の神性、神様の分け命としての人間の形を取り戻すように、努力していく。
従って、この経文は、安易に流されないために、意識してよきことをするように心がけなさい、という常識的な規範をあらわしている、と思います。
なお、S さんは、加えて、次の2つの経文をあげています。
戦場において百万人に打ち勝つよりも、
ただ一人の自己に勝つ者こそ、
最上の勝利者である。
(一〇三) (第8章 千という数にちなんで より)
己に打ち克って、
つねに落ち着いている人の勝利を破ることは、
神もガーンダルヴァも、悪魔も、梵天もできない。
(一〇四、一〇五) (第8章 千という数にちなんで より)
S さんは、次のように述べています(適宜改変などあり)。
気が弱くて怖がりな人は武器を持とうとします。
自信のない人は強がります。
不満のある人は派手に自己主張します。
抑圧された人は懸命に権力や地位を手にいれようとします。
本当に強い人、自信がある人は、そんな愚かなことはしません。
もちろん、他人のせいにしたり、他人の非を咎(とが)めて攻撃するようなこともしません。
自分自身に満ち足りていますから、いつも落ち着いていられるのです。
経文の一つは、克己心が強いことの、たとえ話ですね。
今一つについては、ちょっと遠慮します。
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・克己~こっき~自分の欲望や怠け心に打ち勝つこと。
(用例)克己心が強い。
克己復礼~自制して礼儀を守ること。
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①追記: 2021/05/02 06:15
②追記: 2021/05/04 13:52
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。