おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

359_法話50-44

44 法を念ずる

仏弟子は、
いつもよく覚醒していて、
昼も夜もつねに法を念じている。

(二九七) (第21章 さまざまなこと より)

以下、一通り S さんのお話を見ていく(かなりの要約・意訳・改変などあり。なお、お釈迦様も敬称を省き釈迦とする。ご了承下さい)。

私達は釈迦だけではなく、法も念じる。法とは教えである。

法を念じるとは、釈迦の教えを常に考えていることである。釈迦がこの世にいない以上、教えがその代わりとなるのだ。彼の遺言自体も「自分が死んだ後の指導者は、自分の教えだ」としていた。

法を念じると、どのような問題が生じても、対応の仕方やあるべき生き方がわかってくる。

世の中は誘惑だらけだ。私達が欲に駆られるまま、怒りの心(以下、想いとする)で生きているならば、修羅道や餓鬼道、畜生道に陥ってしまうだろう。

だが、法を念じていれば、こうした誘惑を避け、自らを戒めることができるのだ。

「悪は悪だ」と言い切る勇気が出てきて、自ずと明快な答えが出る。

釈迦は、人生に対してあらゆる実験をした。だから、その教えを念じていれば、暗闇にさまよい、失敗することはない。無駄がなくなるのだ。

人生は後戻りはできない。やってみなければわからない、では危険なのだ。仮に何かを 10 年間やって失敗したならば、再び10 年前には戻れない(転ばぬ先の杖か。うーん・・・)。

だから、何かを試す前に釈迦の教え(法)から学べばよい。

釈迦は、怒りと見栄と、高慢を持って物事を行うと、確実に悪い結果をもたらすと言った。優しい、人を助ける気持ちを持てば、結果は望み通りにはならなくても、決して悪い結果にはならない。最小でも、よい結果となるのだ。

釈迦は、人生は苦だ、と説いた。法を念じる時には、「これはどういう意味だ?なぜ、彼はそう説いたのか?」と考えるのだ。

この世には、客観的な苦というものはない(???)。楽しみばかりを追っていけば、すぐに苦しくなる。シーソーは、上に上がると気分は爽快だ。しかし、ずっとそのままでは面白くない。上下するから面白いのだ。人生はこのように苦楽が巡るものなのだ。

人生にいくら幸福を追い求めても、結局は不満足に終わる。釈迦は、この不満足こそが苦だ、と説いたのだ。

さらに、彼は、生老病死が苦だと説いている。

生苦は、生まれる苦しみだ。私達は生まれた時に苦しかったかどうかは覚えていない(???覚えている人もいる)が、母親にとってはあれほどの苦しみはないでしょう。

老苦は、老いる苦しみのこと。歳をとることは、喜びではない。体力は落ち、視力は落ち、腰が曲がる。膝が痛い、腰が痛いと言いながら、一歩一歩歩くのは大変だ。

病苦や死苦は言うまでもないだろう。

生老病死は、誰にとっても苦しみであり、例外はない。

こうして、釈迦の教えを一つ一つ考えていくこと。それが、法を念じることだ。

法を念じれば、私達の生き方は必ず変わる。「なるほど、彼の教えはすごい」と納得して、想いがしっかりと確立されていくからだ。

とのこと。