おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

362_法話50-46-2

今回は、前々回(360_法話50-45)と前回(361_法話50-46-1)をまとめた形で話をします。

なお、以下の話は、私の独断と偏見による、あくまでも個人的な考えですので、この点をあらかじめご了承願います。

前々回(以下、A とする)と前回(以下、B とする)の法句経の経文は以下の通り。

ーAー
無知な人には精神の安定統一はありえない。
精神を安定統一しなければ、
智慧はあらわれない。
精神の安定統一と智慧の備わっている人は、
涅槃に近づく。

(三七二) (第25章 出家修行者(比丘) より)

ーBー
賢者は、順次に少しずつ、
そのつど、みずから汚れを除く。
鍛冶(かじ)職人が銀の汚れを除くように。

(二三九) (第18章 汚れ より)

以上を霊性を踏まえた、他力信仰の面から見ていきたいと思います。

S さんは、精神的に安定すると、智慧(仏教での、煩悩を消滅させ、真理を悟る精神の働きのことで、旧来は習わしとしてこう書いてきた。しかし、今は知恵の表記が多いし、漢字変換もきわめて煩わしい(超面倒くさい)ので、以下、私の文内に限り知恵で統一表記する)と知識(概念を理解して頭に入れることだそうだ)が備わってくると言った。

入ってくるものは受け入れ、ただし、執着しないことが、知恵があることだそうだ。

しかも、無条件にすべての生命を愛すると常に心の中にとどめておけば、知識も素晴らしく役立ち、それが智慧とともに、知識を得る方法だと言う。

すべては無常なことがわかれば、自由になり、それが智慧の完成であるともしている。

これらは、そう簡単にできるとは思えません。

ある程度の自力の修行をして、精神を安定させる(もちろん、良い)癖ができている人ならいざ知らず、ごく普通の在家の人間が、そう簡単に精神を安定させることなど、できるとは思えないからです。

精神を安定させることは、今流に解釈すれば、想いを整える、ととらえることができる。

この想いを整えること自体が、とても難しいこと。なぜならば、修行をして悟りを得たい人でさえ、想いを整えるのは、困難をきわめ、座禅観法を何十年として、ようやく悟れる場合があるかどうかの難行苦行だから。

自力にしろ、他力にしろ、想いを整える修行をして、ようやくいくらか、想いが乱れ難くなってくるのが、せいぜいではないでしょうか。

悟りを得ていない一般的な私達が抱きがちになる神様のみ心から外れた間違った想いの業想念、人様より抜きん出たい、いい思いをしたい、憎い、欲しい、妬ましい、などなどを抑え、整えるには、どうしても、それなりの修行、最低でも修養が必要になる。

過去世からたまっている様々な業想念が、この世を生きていく時に、縁に触れ、機に触れて、わき上がるようにあらわれてくる。

ちょっと精神統一をしよう、想いを無にしよう、と試みればわかるけど、私達の頭の中には常に何らかの想い、しかも、良き想いよりも、乱れた想いの方が多く行き交い、整えるのは容易でないことがわかります。

従って、精神を安定させて知恵を得ること自体が、生易しいことではないのですよ。

それゆえに、世の中のあらゆるものを、良き想い、良き行いのために、正しく取捨選択し、正しく活用できる知識として蓄えていくことそのものが、それなりの努力を要することになります。

だから、私なんかは拙い知識ながら、祈りと感謝行をおすすめしてきた訳です。

そして、無条件にすべての生命を愛するとは、どういうことなのか。

これは、すべてのものが、ありがたい、と心から感謝できるようになることです。

S さんはどうお考えなのかはわかりませんが、これは動植物に限りません。

あらゆるものとは、あらゆる物事です。

つまり、自分にとって、快いもの、都合のいいもののみならず、自分にとって、快よくないもの、都合の悪いものまでも、すべて含めて、無条件で受け入れることです。

しかし、こんなことはできませんね。

悟りを得た人以外は。

以前に、縁起の話のところで、自分のものは何一つない、という話がありました。

あれは、そのまま普通の解釈で考えれば、行き着くところは、虚無主義です。

一般的には縁起がすべてを関連づけている特別な存在であるかのようにしてありますが、あのように、縁起への投入と産出、今流に言えば、インプットとアウトプットをない、ない、ないの虚無にするならば、媒体たる縁起だってない、虚無ですよ。

そうでなきゃ、おかしいじゃないですか。

明らかに、理解の仕方が不自然です。

すべてのものは、神様があらわしたものである。

この自分の肉体を動かしている、魂要素の有機的な生命体、組織として機能させている命も、神様から分け与えられたもの、魄(ぱく)要素の肉体も神様から与えられたもの、身の回りの物から何から、そして、あらゆる生命から、何から何までみんな神様があらわしたもの、お与えになったもの。

そう考えてくると、自分のものは何一つない。

すべては神様があらわしたもの。

すべては神様のものということになる。

永遠絶対なるものは神様だけ。

あとはみんなあらわれては消えてゆく、万物流転の姿。

だから、この世も無常になる。

このように考える場合には、すべてのものは神様のあらわしたもの、すべては神様のもの、みんな神様なんだ、とただ、ありがたい、と感謝一念となる。

まあ、実際は、悟りを得たような人でなければ、こうした心境にはなれないと思うので、難しいことですけどね。

そうして、業想念のような間違った想いや行いがなくなれば、神様の光そのままの正しい神様の行いや、そのための知恵もそのまま何の差し障りもなく、この世にまで降りてくる。

つまり、A はこのように解釈してくると、悟りを得ると、神様の光そのままの正しい知恵をあらわすことができる、と読み替えることができます。

涅槃に近づくとありますが、涅槃は悟りを得た境地のことなので、悟りを得る境地に近くなれば、こうした神様の知恵を出す可能性が増えてくる、という意味合いに理解できると思います。

なので、順序としては、むしろ逆で、想いが浄められて、精神が安定してきて、悟りを得る状態に近づく、涅槃に近づいていくからこそ、神様(仏様)の智慧がそのままあらわれてくる、とした方がわかりやすいと思います。

次に、B ですが、お釈迦さんも、試行錯誤の後に、さらに 6 年もの苦行をして、その末に、悟りを得た訳です。

だから、お釈迦さんの高弟(弟子のうちで特に優れた者)も含め、悟るには一足飛びにはいかないのはわかりますよね(以前、中村さんの原始仏典で、お釈迦さんのお弟子さん達、しかも、高弟ではない人達が、割と簡単に悟れたような事例がいくつかありました。私がこれらの事例に対する疑問を呈したのは、この理由によります。お釈迦さんでさえ、紆余曲折を経たのだから、いかにお釈迦さんという優れた指導者を得て、それなりの指導を受ける好適な環境が整っていたとしても、そんな数日とか、簡単に悟りを得たのはおかしいのではないか、と)。

従って、この B は、どんなに厳しい自力修行をしても(浄土門や世界平和の祈りの他力でも)、やはり、それなりの段階を踏んで、少しずつ確実に精進していかないと、悟りにはなかなかたどり着けない、という意味をあらわしていると思います。

仮に、2 段階、3 段階の長足の進歩があったような場合でも、それは目には見えない過去世での積み重ねがあったからこその賜物であって、原則としては、謙虚におごりたかぶらず、常に想いを整えるように努力しながら、一歩一歩、着実に歩んで行きなさい、と暗示している経文のように思います。

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・一足飛び~①両足を揃えて翔(と)ぶこと。
②一定の順序を踏まないで、一気にとびこえること。
(用例)一足飛びに出世する。
ここでは、②の意。

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①追記: 2021/05/05 06:47
②追記: 2021/05/05 14:27
③追記: 2021/05/05 19:27
④追記: 2021/05/05 21:09
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、内容を加筆・訂正しました。