おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

363_法話50-46-3

何だか、前回の内容を補足説明して、加筆・訂正したら、縁起についてやたら気になってきたので、また、書かせて頂きます。

なお、前回と同様、以下に述べることは、私の独断と偏見による仮説ですので、拙(つたな)い者の罵詈雑言(ばりぞうごん)のように見える点もあるかとは思いますが、この点は、あらかじめ、平にお許し願います。

まずは、一般的な話から。

縁起の話のところで、自分のものは何一つない、とするのは、いわゆる、諸法無我(しょほうむが)のことです。

これは、すべてのもの(諸法)が、因縁によって(縁起によって)生じたもので、実体(という我)はない、という話です。

だから、これは諸行無常と併せた、並行した内容です。

諸行無常は、万物は流転・変転するから、それなりの時間が経てば、結果としては何も残らない。

無となる。

だから、(残るものとしての)実体はないんだ、という話ですね。

後の変転消滅した結果から遡(さかのぼ)って、その形があらわれて消滅するまでのすべての期間を、遡及(そきゅう)して、ないものと見做(みな)してしまっていますね、これは。

何か、結果論のようで、少々乱暴なやり方に見えるんですけど。

そこでは、一時的なかりそめの形(実体)でさえも、遡及することによって、ない、と否定してしまっている。

そう読み取れますよ。

で、この世に様々な形であらわれている、いわば、かりそめの姿は、その変転消滅の前に、縁起を通して、相互依存の形で関連しあっている間だけ、見えている、存在している、ということですよね。

でもこれ、変じゃないですか?

縁起という因縁因果を結ぶ網の目も、何かわからないけど、突如として(?)あらわれて、相互依存の姿同士(仮に A と B とする)を結びつける。

相互依存の形ではあるにしろ、A と B は、いわば、相互依存の投入と産出、インプットとアウトプットの関係にあると言えます。

投入という原材料がなく、産出という製品もない。一時的には姿形があってもいずれ消滅してしまう。

だったら、そもそも、媒体となる、加工して産出する機械だってないんじゃないですか?

その機械だけが、投入と産出の間を取り持つ時だけ、都合よく、奇跡的に忽然(こつぜん)とあらわれるとでも言うんですか?

ずいぶん、恣意的な話に見えるんですけど。

縁起だって、物や光や音と同様に、何らかの物質的な形のあらわれだと思うんですよ。

A と B を確実に結びつけて両者の間を取り持つのですから。

ただの概念だけじゃない、と思うんです。

仮に、想いでも、物質でも、あらゆるものがすべて波動としてあらわされるものと仮定するならば、縁起も波動(概念波動?)ではないか、と思うんですよ。

これを、何かしら(ここでは波動と仮定)の物質的なあらわれだ、とすると、A と B と同列の扱いと言えますよね。

そう考えてくると、きわめておおざっぱに言うと、原材料もない、製品もない、だったら加工する機械もないはずでしょう?

何で機械だけが、ポッと出で、臨機応変にあらわれるんですか?

機械だって、原材料から作られた製品です。

物としての本質は、原材料と製品と同じのはずですよ。

だから、空(むな)しいもの。

(遡及して)ない、と看做(みな)すことができるはずのものですよ。

ならば、原材料、加工する機械、出来上がった製品となる、A と B と縁起の 3 つすべてが「ない」のではありませんか。

縁起だけが魔法のように神出鬼没、変幻自在、臨機応変にあらわれて、しかも実体として残らない、空しいものを作り出す・・・。

その縁起自体もないものであるはずなのに・・・。

だから、私には理解できないんです。

何を言っているのかわからない。

私が能力不足だから仕方ないのかもしれませんが、言っていることが、モヤモヤとしてわからないんですよ。

なぜ、このようになっているのか?

以下も、上段にお断りしたように、あくまでも、私の独断と偏見にもとづく仮説です。再度のお断りになりますが、あらかじめご了承下さい。

こうした、すべてのものはない、縁起によって一時的な、かりそめの姿としてあらわれるだけだ、という理論がこのようになっているのは、自らの仏性(神性)は肯定しながらも、創造主あるいは絶対者としての神様を否定しているからではないか、と考えられます。

神様がすべてを作ったんだ、ありとあらゆるものに命を吹き込まれたんだ、命をお与えになったんだ、すべては神様のあらわしたものなんだ。

すべては神様のものなんだ。

すべてのあらわれたものは、神様の創作作品であり、ある意味では、神様が形を変えた、その化身なのだ。

だからこそ、大自然雄大さ、素晴らしさ、言葉にはあらわし切れない美しさ(もちろん、理解の難しい厳しいものもたくさんありますけれど)を見て、人は心を打たれ、讃歌を謳(うた)い、画を描き、写真に収める。

そして、神様は因縁因果の転回の法則をお作りになった。

そうして、良いものも悪いものも、この世(現界)で時を経て消えてゆくが、中でも、神様のみ心にそぐわない、肉体人間が余分に作り出した真善美に悖る想いと行いの業想念は、神様の世界にはあるべからざるものとして、その存在が許されず、時間をかけて消滅させられる形となる。

この業想念は、いわば、一定の限度があるもの(たくさんの輪廻転生を通して消していかなければならないから、それなりに多くあっても)。

しかし、よいものは、神様のみ心に沿ったものとして、消えてもまた神界から流れてきて、消えてもまた神界から流れてきて、と限りはない。

その中で、私達肉体人間は、特別に神様自体の命を分け与えられた万物の霊長という、かりそめの姿として幾度となくこの世にあらわれ、その輪廻転生を通して神様のみ心を肉体を持ちながらあらわすことができるように、進化・向上していく立場にある、と言えばいいところを・・・。

神様を否定しているせいで、そうは言えない。

そうした訳で、かなり苦しい理屈をつけているように感じるんです。

般若心経で言えば。

色即是空で、この世にあらわれているものは、すべて時間をかけて消えてゆくものだ、だから、最終的に残らないのだから、ないものと看做す、として、一度この世にあらわれているもの、肉体にまつわる五感に感じることのできるものを、すべて「ない」とする(これは、悟りを得た人でないと理解が難しいでしょうね。一般的な私達は肉体=人間だという、肉体人間観が抜きがたくあるから)。

そうすると、残るのは、神様の世界のものだけ、神様の光そのままの想いや行いだけが残ってくるから、空即是色で、空(神様)がそのまま、この世にまで流れてきて、素晴らしいものが、この世にあらわれてくる。

神様を否定していると、こうした考え方はできないと思うんですよ。

色即是空=空即是色としてしまうと、何もかもが、ない、ない、ない、となってしまって、何を言っているのかわからないんですよ、私には。

だから、私はこうした一般的な見解に対して思うんです。

ないと看做されるものは、一時的に、かりそめにあらわれている訳です。

じゃあ、それを作り出している縁起は誰が作ったんですか。

因縁因果の法則は誰が作ったんですか。

神様としか答えようがないんじゃないですか。

神様がすべての生きとし生けるものに命をお与えになっている。

神様が因縁因果の法則をお作りになった。

空の中から、無からすべてのものが出てくるのではなくて、神様からすべてのものが出てくる。

こうした方がずっと話がすっきりするような気がするんです。

神様は肉体人間の中の内側にも、仏性(神性)としてあり、それを守護する外側にも守護の神霊としてあり、それを取り巻くあらゆる環境にもある。

つまり、神様はすべての世界に満ち満ちている。

神づまりにつまっている。

そうした方が話に無理がないような気がするんですよ、個人的には。

神様を現代の科学(または古代の科学水準)で証明できないからといって、否定してしまうのは無理があるんじゃないかなあ、と。

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・拙い~つたない~①下手(へた)である。
(用例)拙い文章。
②能力が劣っている。愚かである。
(用例)拙い者ですがよろしくお願いします。
③運が悪い。
(用例)武運拙く敗(やぶ)れる。
ここでは、②の意。

・罵詈雑言~ばりぞうごん~口ぎたなくののしり、悪口を言うこと。また、その言葉。罵詈讒謗(ばりざんぼう)。悪口雑言(あっこうぞうごん)。

・遡及~そきゅう~過去にさかのぼって影響・効力を及ぼすこと。
(用例)遡及力。2 年前まで遡及して適用する。

・看做す~みなす~見てそれと判断して取り扱う。また、仮にそれであるとする。
(用例)一人前の大人と看做す。

・かりそめ~①一時的なこと。その場限り。
(用例)かりそめの命。かりそめの恋。
②ふとしたこと。ちょっとしたこと。
(用例)かりそめの病。
③軽々しいこと。おろそか。
(用例)かりそめにする。
ここでは、①の意。

・忽然~こつぜん~たちまち。にわかに。突然。忽焉(こつえん)。
(用例)忽然と消え去る。

・神出鬼没~しんしゅつきぼつ~鬼神のように自由自在に出没し、所在が容易につかめないこと。

・変幻~へんげん~姿が急にあらわれたり、消えたりすること。変化が非常にはやいこと。

臨機応変~りんきおうへん~その時その場の変化に応じて適切な手段を取ること。
(用例)臨機応変に対応する。

・謳う~うたう~①主義主張・特長・効能などをはっきりとわかるように述べる。
(用例)条文に謳う。
②ほめたたえる。もてはやす。
(用例)至宝と謳われる名器。
ここでは、②の意。

(追伸)

中村さんの原始仏典について書いたもので、縁起などに関連した部分はいまだに書いていません。

申し訳ありませんが、折を見てゆっくりと、ボチボチとやらせて頂きます。

かなり間を置くかもしれませんが、お許し下さい。

縁起を扱うとなると、何だかとっても気が重くなり、特に疲れてしまうので。

また、それに伴い、だいぶ前の過去記事の更新が余分に増えることにもなりますが、この点も、あらかじめご了承願います。

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①追記: 2021/05/06 12:15
②追記: 2021/05/06 22:14
③追記: 2021/05/08 06:00
④追記: 2021/05/08 06:05
⑤追記: 2021/05/08 12:01
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。