50 人格の完成をめざす
一切の悪を犯さないこと。
善に至ること。
心を清らかにすること。
これが諸仏の教えである。
(一八三) (第14章 ブッダ より)
また S さんのお話をまとめます(要約・意訳・改変などあり)。
仏教の教えとは何か。一言で言えば、「一切の悪を犯さないこと。善に至ること。心を清らかにすること」である。「何だ、そんな簡単なことなのか。それが高度な思想なんだろうか」と思うかもしれない。しかし、仏教はあくまでも実践論だ。この 3 つを実践すれば、それが最高レベルでの思想だとすぐにわかるだろう。それは完全なる人格者になるための教えだからだ。
悪を犯さない生き方を実践するためには、そもそも悪とは何かを理解する必要がある。聖典や古典には、大昔からある悪のリストがある。しかし、聖典や古典に書かれているからといって、必ずしもそれが悪だということにはならない。
「今、ここ」で「私」が行う行為自体が、善になるのか、悪になるのか。その都度(つど)、その都度、注意深く判断しなくてはならない。かつて悪とみなされていたものが、現代では悪ではなく、かつて悪ではないと思われていたことが、現代では悪となることもある。そして、今も昔も、一貫して悪と認められる行為もある。
悪を犯さないとは、どういうことなのか。それはまず、今の世の中で悪とみなされる行為は絶対に犯さないこと。そして今、この瞬間にする行為が、善になるのか、悪になるのか、常に判断して行うことである。
この判断のためには、世の中の出来事についての深い理解が必要だ。常に心の眼を開いておかなければならない。それが智慧の開発につながる。
「善を行う」という意味も同じである。しかし、何か一つよいことを選んで守るだけでは、人格は向上しない。大事なのは、「善を行う」よりも「善に至る」ことだ。善に至る人は、「今日は昨日よりもよい人間になる」と励む。そうして、はじめて人格の向上が確かなものとなるのだ。
では、人はなぜ悪いことをするのか。なぜ、よいことを真心を込めてしないのか。
それは思考が乱れているからだ。心が汚れているからだ。自らの行為を改めることは素晴らしいが、心が汚れたままでは、それをやり遂げることはできない。しかし、悪を犯そうとする無知を心の中から抜き取ってしまえば、「悪を犯さない。善を行う」という努力さえもいらなくなる。
といった訳で、仏教では「心を清らかにすること」を究極的な目標にしているのである。
とのこと。