おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

373_法悟28-2-2

第 1 週 心の法則を知る

2 正しいことを言われると嫌になる

下劣な生き方をしてはならない。
怠け者になってはならない。
邪見(じゃけん)に近づいてはならない。
俗世間(の価値)を肥(こ)やす者になってはならない。

(一六七) (第13章 世の中 より)

以下は、前回( 372_法悟28-2-1 )、S さんの書かれた内容をまとめた(改変などありの)文章の抜粋です。

・人間の心を自然に放っておくと、卑(いや)しい、汚い、悪いことをしたくなるものだ。

・人間の心は実に恐ろしい衝動に満ちている。

・人間の心は元から、卑しい、汚い、悪いことが好きだ。

どうだろうか?

いくら後になって、下記のように、人間は悟りを開けるとして、その仏性(神性)を肯定するようなことを、あたかも免罪符であるかのように書いていても、人間の本質は自分のあらゆる立場や欲望ばかりを最優先し、そのためには悪いことを厭(いと)わない、いや、むしろ好んでいる生物こそが人間なのだ、と読めはしないだろうか。

・自分の心に完成に打ち克った人は悟りを開いてしまうが・・・・・。

独断と偏見かもしれないが、私にはそう読める。

肉体人間の仏性(神性)を否定し、明らかに動物かそれ以下の存在として見ているように、読み取れてしまうのです。

まるで、人間の本質は悪なる動物であり、その悪さに対する希求は猛獣のようであり、これを厳しく飼い慣らすには、大変な覚悟が必要だと言っているように読めるのですよ。

そして、一般的に悟るのは無理だから、ブッダ(以下、お釈迦さんとする)の言葉を参考にせよ、としている。

あそこで、人格的なプライドを持て、としているが、それは、一言でいって、気位を高く保ち、気高く生きよ、としているように見える。

そうすれば、しつけをされることが嫌ではなくなり、怠けなくなれば叱られることもなくなり、マルチ商法やカルト宗教に操られることもなくなり、世の中の平均水準にうずもれることなく気高く(?)生きられるかのように言っている。

しかし、気位を高く持つことは、もちろんそれなりには、意味があるのだろう。

しかし、世の中には因縁因果というものがある。

しかも、これはこの世の中では完結しない、隔世をまたいだ過去世を起因とするものが、圧倒的に多いのだ。

これには、残念なことに、抗えない、逆らえないものがあると、思わざるを得ないのですよ。

だから、いくら規範や基準を掲げて、これを遵守しようとしても、どうにもならない、挫折してしまうものが出てくる、と。

なぜ、人間は皆運命が異なり、容姿も異なり、性格も異なっているのか。

ただの無作為で、カオスのように無秩序で混沌としているだけなのか、それとも何らかの規則性があり、原因結果の因果関係を元にしてあらわれているものなのか。

これは、もう、個人個人の因縁因果次第で、信じるか信じないか、の問題だとは思います。

そこで、因果関係を信じて、その存在を肯定するならば、規範や気構えだけでは太刀打ちできない、どうにもならないものが存在するということになる。

あるべき形を保とうとしても、規範を遵守しようとしても、どうにもならないものが、出てくるということです。

あと、他人から正しい生き方や安全な生き方を教えられると嫌になる、としていたが、これは私達の本質が神様であることに起因している。

本来なら、神様として、自由無碍(じゆうむげ)、自由自在に振る舞える(もちろん、肉体人間が欲望に突き動かされるように自由にするのではない。あくまでも、神様のみ心に適(かな)った行いのみ)から、自由を縛られる、拘束されることには反発するところがある。

だから、他人から説教のようにあれやこれや指図されること、ましてや、いいこと=神様のみ心に適った行いをするのに、うるさく言われるのは余計なお世話になるのです。

従って、肉体人間の心が卑しいから、正しきことを言われるのは、嫌な気持ちがする、というのは当たっていない、と個人的には考えます。

やはり、因縁因果の元になるのは、肉体人間の想いと行いなので、これを整えることが大切になってくる。

すなわち、各自がおかれた様々な環境の下で、出来る限りの誠意を尽くしながら、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行で、その過去世からの想いを浄めて、行いを整えるようにしていくのが望ましいと思います(現代では、お釈迦さんの時代のような自力修行はまず不可能だと思うので)。

それと、これは蛇足ですけれども。

私は小学校時代、悪魔のようなどうしようもない人間にいじめられた経験がある。

そんな私には、この男が他の生徒をいじめているのを見た時には、ものすごい嫌悪感しかわきませんでしたよ。

情けないことに、自分ではいじめられている他の生徒を、助けてあげることができなくて、義侠心的な何とかしたい(実行には移せなかった。情けない限り)気持ちを抱くことはあっても、こんな悪い(端から見てむごい、醜悪な)行為(=悪質ないじめやイビり)は、間違っても好きになんかなれませんでしたよ。

今から考えれば、その男に対する憎悪を抱くことは、本来なら業想念だからよくなかったんですが、本当に憎くなりましたし、とにかくあらゆる面で嫌な男でしたよ(いまだに、自分の過去世の因縁だとは割り切れない、納得できない気持ちがある。たくさんの男子生徒に悪影響を及ぼし、小学生ながらもあんな凶悪なヤツのすることだ。ただ単にアイツが悪いだけだったに決まっている、と)。

私は、自分がやられた経験があるから、ああいうむごく、醜悪ないじめを嫌ったという側面がある程度はあったのかもしれません。

自分が運動神経なり、腕力なりでクラスで絶対的な優位性を持ち、悪行為を平気で実行に移すような悪質な度胸があれば、思い上がってどうなっていたかは、わかりません(幼少時に、やや、おばあちゃん子的な面もあったので、信仰深い祖母の影響もあったから多分大丈夫だろうとは勝手に想像してますけど)。

とにかく。

別に、こうしたいじめにあわない人であっても、世の中には、元々、神性そのままに、卑しいこと、汚いこと、悪いことを嫌う人も、たくさんいるんじゃないですか?

私はそう信じています。

なぜならば、これだけのたくさんの人々が地球上にいるのだから、因縁因果も千差万別以上、あまたの過去世も含めれば数限りなく無尽蔵にあり、業想念の多い人ばかりではなく、過去世を通して悪い因縁を浄めて、人格を向上させてきた人もたくさんいると思うから(特別な使命を帯びてあえてこの世に降りてきた人をも含めて)。

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①追記: 2021/05/16 12:50
②追記: 2021/05/29 16:29
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。