おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

389_法悟28-11-2

第 2 週 人生苦と向き合う

4 人の話に振り回されない

アトゥラよ、これは昔からのことだ。
今日だけのことではない。
人は黙っている者を非難し、
多くを語る者も非難する。
節度をもって語る者さえ非難する。
この世において、
非難されずにいた者は、
どこにもいない。

(二二七) (第17章 怒り より)

また、独断と偏見を書きます。

仏教の一般的な見解や、スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老(これは長いので、すみませんが、今まで通り、S さんと略します)の見解だけがわかればよい、という方は以下は読まずに飛ばして頂ければよろしいかと思います。

S さんの本を購入して(書店で目についた法句経の本(法句経の本自体は仏教の中でも一般的ではなく、あまり多くはない))参照しているので、あまり文句めいたことは言いたくないのだが、やはり、中村さんの原始仏典の本の時と同じように、ケチつけ道中みたいになってきた。

でも、本を読んで率直に感じることが出てくるので、読まれる方には、お見苦しいかとは思いますが、仕方のないものとして、我慢して頂くしかありません。

ご了承をお願い致します。

前回の S さんの書かれていることを、きわめておおざっぱに、しかも乱暴にまとめると・・・。

ブッダ(お釈迦さんのこと)以外の人は、どうせ大したことがないのだから、何を言われても気にするな。

これが、他人の言葉の攻撃から心を守る鎧となるのだ、自分を非難などの矢で攻撃してくることに対する防御になるのだ、としているように見える。

大したことがない・・・しかし、これ見下しじゃないですか?

親、そして、人や人間と書いてある一般的な人を見下している。

真善美に悖る、想いと行いの業想念ではないですか。

だからこれ、あまり、好ましいとは思えないんですよ。

だって、ブッダだけを超特別扱いして、あとはみんなダメだと一刀両断、そして、話す内容も好き勝手なものだとか、無責任なものだとか、果ては、妄想だとか・・・。

結構、ボロボロに言っているじゃないですか。

よって。

あまり、一般的とは言えないですが、まったく違う見方を提示したいと思います。

ただし、これには前置きとしていくつかのことを前提として、ご理解して頂かなければなりません。

五井先生の教えから、さらに、私独自に類推解釈や援用をして考えた部分があるので、あくまでも単なる個人的な仮説にしか過ぎませんけど。

ただ、業想念を生じないようにするためには、このようにとらえる方が、一般の人々(親や普通の人々)を見下すような形にはならないので、納得できるか否かは別にして、まだ、いいような気がするので。

あと、今一つは、ここまで考えないと、従来の説明がちょっと大まかというか、前提抜かしというか、わかりにくい、と個人的には感じていましたので。

とにかく、かなり冗長になりますが、ご容赦下さい。

まずは、神様は真善美に悖らない完全円満で、愛そのものの存在であることが第一。

そして、神様はあらゆる世界を、(細かく言えばさらに細分されるが)大別して、神界、霊界、幽界、現界(以下は、現界=この世とする)とおつくりになった。

神界は、神様そのものの世界で、精妙きわまる波動の細かい世界であり、その動きもきわめて速い世界。

そこから、この世の現界のこの世にかけて、次第に波動が粗(あら)くて重く、動きもきわめて遅いものになっている。

しかし、すべての各世界は神様の世界の中にある、神様の部分を構成していると考えることができる。

この世に関して言えば、本来ならば神様の世界の一部分を構成するのだから、真善美に悖るようなものは、一切、その存在自体が許されないはずだ、と考えることができる。

しかし、現実のこの世には、真善美に悖る想いや行いだらけの乱れたものになってしまっている。

それは、なぜか。

2 つの要因がかかわっていると考えられる。

1 つめは、神様がこの世に神様の世界を映し出す、作り出すことを目指していること。

2 つめは、現在(といっても、この世がつくられてから、長い長い悠久の時が流れていると思うけど)のこの世の状態は、神様の世界がこの世に映し出される、つくりだされるまでの、いまだに、中途の過程だ、ということ。

まずは、 1 つめ。

神様がその命を、神界から霊界、そして、幽界からこの世と、波動を粗くしておろしてくるには、霊体をまとい、幽体をまとい、そして肉体をまとう、入るという形で、肉体を神様の器として使うことにされた。

そして、その肉体はまずは、わが身の生存の確保という、自己保存の本能を追加付与されることになった。

この世で、肉体として生きていくために、元々はなかったものを追加された訳です。

そして、その肉体の寿命は、数十年という有限なので、輪廻転生という形で何回も何回も、肉体としての生まれ変わりを経て、人類として生きていき、協力をして神様の世界をこの地球上につくりあげていくことになった。

ただ、元々は神様の命が、それぞれにわかれたもので、肉体が目に見えて分かれ、しかも、自己保存の本能を持ちながら、何回も何回も輪廻転生を繰り返すことにより、命が、元が一つ神様そのものであったという意識が薄れてしまった。

ここで、今現在の一般的な、人間=肉体人間であるとの、肉体人間観ができあがってくる訳です。

その結果、この世の肉体人間は、わが身の保身とその近しい者だけを大事にすること、すなわち、その利害得失だけを考えるようになり、自らの利益の最大化を主な目的とした生き方をするようになってしまった。

こうした肉体人間は、その想いと行いにおいては、神様のみ心に沿う、真善美に悖らないものではなく、その逆の真善美に悖るもの、業想念をたくさん積むようになってしまった。

しかし、こうした業想念は、神様の世界の一部である以上は、その存在はないものとされることになる。

従って、業想念は、生じるそのつど、そのつどで、過去世から、現世(この世)、そして、現世から来世以降へと隔世を経て、持ち越した上で、消してゆく、という形で、消滅させられるようになった。

業想念は、いつまでも、想いっぱなし、行いっぱなし、の状態では済まなくて、必ず(原則として)世をまたいで、清算して消し去られる定めにある訳です。

なぜならば、神様の世界には、業想念はあってはいけないものだから。元々、なかったものだから。

業想念を生じては消し去り、生じては消し去り、と輪廻転生を含めて、繰り返していくことになります。

そうした、紆余曲折を経ながら、地球さんを開発して、神様の世界を映し出すようにしていく。

ただ、それが完成にたどり着くまでには、業想念の生成と隔世をまたいだ業想念の消失させるための過程が、様々な形であらわれてくる。

それを、この世的に、唯物論で見ると、この世は何て乱れて、神様の世界からほど遠いんだ、と感じることになる。

従って、この世にあらわれてくるものは、基本的に現在のこの世から見て、過去世(前世、前々世、前々々世・・・の総称)の業想念としての因縁が、様々な好ましくない形での因果としてあらわれて、消えてゆく姿だ(もちろん、神様のみ心に沿う良いものもある)、ととらえることができる。

最終的な神様の世界があらわれるまでに、過去世の因縁が清算されていく過程が、この世にいろいろとあらわれている。

まあ、細かいことを言うとこの世の中での因縁因果の完結もないわけではないのですが、とりあえず、一切合切を上記のように考える。

すると、S さんの言う言葉の矢は、何を意味することになるか。

他人から、罵(ののし)られようが、非難されようが、悪口を言われようが、どんな言葉の矢を放たれ、攻撃されようが、今、この世の現在のものではない、実は、過去世の中にあった、自らの業想念が消えるために返ってきているだけなんだ。

罵詈雑言も、あれも、これも、今、決してこの世の因縁因果の完結ではない、過去世の因縁の現世(この世)での時を経て消えてゆく姿なんだ、だから、取り合わずに、消え去るのを待つのが一番なんだ、ということになる。

ただし、ほとんどの人が、過去世の記憶が消し去られてしまっているために、なかなか、納得できない、承服できないものとしてあらわれてきますから、受け流すのは、容易ではないですけどね。

その消えてゆく姿をできるだけ穏便にやり過ごせるようにするためにも、世界平和の祈りをして、過去世からの悪因縁をその裁量の範囲内で、浄めて消して肉体人間を守って下さっている守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることが、より助けとなるので、望ましいことになります。

かなり長くなりましたが、

ブッダ以外の人の言葉はみんなダメだ、大したことなんかないんだ、だから気にするな、

とするよりは、

ああ、みんな過去世の因縁の消えてゆく姿なんだな、神様ありがとうございます、守護霊さんありがとうございます、守護神さんありがとうございます、とした方が、ずっといい、

と個人的には考えます。

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・因縁因果について

例えば、A という人間が、 B という人間から、この世の今現在で、何の落ち度もない、何のいわれもないのに、非難されたとする。

A としては、到底、納得などできないし、許せないという感情を抱くことだろう。

なぜなら、今までこの世に生きてきた人生の中で、何ら B から、非難される理由が思い当たらない、見つからないからだ。

それにもかかわらず、突然のように、しかもいわれもなく、非難される。

今までの人生で、身に覚えがないのに、B は何で俺をこんな目に遭(あ)わせるんだ、と不愉快になるのが、普通であり、霊性や輪廻転生による因縁因果を知らない、あるいは、絶対に信じない人ならば、当然の成り行きと言える。

このような場合、この B の A に対する非難は、神様の世界の一部としてのこの世では、真善美に悖る想いと行いの業想念なので、そもそもは、存在してはならないものと言える。

存在してはならないものが、あえて、わざわざこの世にあらわれてきたということは、それなりの理由がある、と逆に見ることができるのだ。

つまり、A には、今現在何の思い当たる節(ふし)がなくても、A がその過去世において、その過去世の時点での B に対して、いわれもない非難をしたことがある、と読めるのだ。

つまり、A が過去世において、何のいわれもなく、B に対して身勝手に行った、非難という業想念が、輪廻転生を通した上で、そっくりそのまま返ってきたことになるのである。

自分の行いが、輪廻転生を通して、返ってくるのである。

神様のみ心に沿った良き想いと行いなら、良いものとして、逆に、神様のみ心に沿わない、悪い想いと行いなら、悪いものとして。

ただ、A も B も、普通の人(宿命通のない人)なら、お互いに過去世の記憶がないので、特に A は納得できない、承服できない思いを抱くことになる。

これが、因縁因果が巡る、ということ。

よって。

こうした仕組みを知らない(あるいは、絶対に信じない)場合には、さらに、やいのやいのと、いさかいや、争いを重ねて、因縁因果を悪化させてしまう可能性があることになる。

こうした仕組みの概要を素直に信じて、謙虚な心で、深い信仰を生きた人達が、浄土門妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人達なのだ。

・過去世の因縁について

これについては、ここで書こうかどうか迷っていた(前に何回かチラリとは書いてある)のだが、とりあえず、書いておく。

五井先生(の本)によると、この世にあらわれてくることの大半、8 割方は過去世の因縁を原因とする、端を発するものらしい。

宿命通(過去世を読み取る能力)がないために、本当に納得しづらいことばかりなのだが、こういうことらしい。

つまるところは、神様を信じるか否か、それに尽きることになると言えると思う。

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①追記: 2021/05/26 05:21
②追記: 2021/05/27 12:15
③追記: 2021/05/27 19:23
④追記: 2021/05/29 23:26
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。