おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

392_法悟28-13-1

第 2 週 人生苦と向き合う

6 少数派になることを恐れない

世間の人々は盲目である。
少数の者が真理を理解する。
とり網から逃れ出て、
空に生還する鳥が少ないように。

(一七四) (第13章 世の中 より)

時代が古いから仕方がないのかもしれないが、あまり好ましいとは言い難いたとえですね、特に現代では。

とはいうものの、ちょっと前までは、法律にこれに関する規定があった。時間の経過とともに、言葉狩りのようにどんどん表現がなくされていった。

こうした現代の状況から鑑(かんが)みると(もしもこれが時代の必然的な流れ、もっと言ってしまうと、神様のみ心ならば)、やはりこれは時代を反映してなされていたたとえだと理解すべきでしょうね。

また、適当にいきます。

世の人々が盲目としているのは、「真理を知らない人々ばかり」という意味である。真理を知らなければ、誰も正しく生きることはできない(?)。大体、皆が大衆の考え方に従おうと努力している(??)。皆が思い、することに合わせなければならない、と考えているのだ。

人間は、正しい生き方にはまったく気づかず、ただ感情に従い判断をして生きようとするものなのだ(?)。自分が被害を受けたら、加害者を裁くべきだ、仕返しすべきだ、と簡単に考える。「目には目を」という恐ろしい諺(ことわざ)まであるぐらいである。

しかし、これは正しい生き方ではない。世の中では、正しい生き方、考え方、行動の仕方、問題対応がまったくと言っていいほどに知られていないのだ(???)。

そこで、ブッダ(お釈迦さんのこと)は、はっきりと「智慧のある人、物事の真理を発見して理解した人の話を聞きなさい」としている。やはり、賢者が説く生き方が正しいのだ(?)。一般大衆の話を聞くのではなく、きちんと真理を知っている人の話を聞くべきなのだ。

その真理を知っている人は、少数派だ。だからといって(???)、その他大勢の意見を聞くべきではない。

その他大勢の人々が、真理を知っている賢者に従う。仏教的にみると、それが正しい道なのだ。

別に民主主義にケチをつけている訳ではない。ブッダも政治制度と社会システムについては民主主義を認めている。

同じ知的能力、同じ目的をもつ人々が組織をつくる場合、皆が平等だから、多数決や満場一致といったルールを使ってもよい。

しかし、生き方の場合はそうはいかないのだ。道徳も同じだ。何が善で、何が悪かと、大衆が決められるものではないのである(?)。

大衆は、生き方については、その時々で、何を言い出すかわからないからだ(??)。

私達は、普通に民主主義とか、大衆の意見とか言っている。しかし、実際には、財力のある強情な権力者がリーダーになり、自分の意見を押し通しがちだ。皆がその影響力に圧倒されて、応援するのである。そうして選挙にも勝つ。そこで「これが大衆の意見だ」ということにするのだ。

今でも実際には、大衆の意見は通じない。権力者、財力のある者、影響力のある者の意見が通るのだ。

賢者に従うのは、民主主義とは正反対ではないか、と思うかもしれない。しかし、今の社会をよくみれば、建前だけの民主主義なのだ。

民主主義の社会で独裁が嫌なのはわかる。国民は皆が平等な主権者のはずが、誰かが独裁的な権力を握っていればとんでもない悪行為だからだ。

ここで言うのは、多数の人間が、何かにつけて少数の人間に従えということではないのだ。

「正しい生き方について、理性のある人、物事の道理を知っている人に従いなさい」という当然の教えなのである(?)。

事実を深く観察すれば、世の中は物事の本質が見えない人々ばかりで、ありのままに事実をみることができる人々、真理を知っている人の数は少ないのだ。

同様に、正しい道を歩む人々も少ない。

どちらかといえば、理性のある人が、個々に、コソコソと(???)、正しい道を歩むことになる。

こうした事実を大衆が認めない可能性もある(?)。

それでも弱気にならず、お互いに智慧の世界を目指して(?)頑張っていかなければならないのだ。

かつてはヨーロッパでも、智慧の世界に挑んだ人々は、神の教えに反している非難され、裁かれた(ガリレオのことか?しかし今は地球は丸くないという人もいる。南回帰線の話もあるし。ただ、広い海岸線を肉眼でみると、確かになだらかに丸い。空にみえる太陽も月も星も丸いし。本当に何が真理だかわからない)。

彼らが圧力に屈して負けてしまい、諦めていたならば、科学も哲学も発展しなかっただろう。

たとえ裁かれようが、死刑にされようが、自らが発見した真理は間違いのないものだ、と断固として主張したのである。

そのお陰で、現代の科学や哲学がある訳だ。

人間には自由がそれなりに認められている。でなければ、私達は誤った神の教えに完全支配され、無知な世界に生きていたことだろう。科学者や哲学者が、命懸けで頑張ってくれていなかったら、私達はいまだに地球は平らで、太陽が地球を回っている、と信じていただろう。

真理を探し求める人は、今も少数派だ。抜群の能力を持ち、あらゆることを発見して、誰も知らないことを教えてくれる人は少ないのである。

その貴重な人々が、誰も仲間がいないから寂しいとか(寂しがらないのでは?)、真理の探求をやめて一般人と一緒に生きるぞ(?)、となったら、とんでもない損失だ(?)。

一般人に見放されても真理を求めているならば、その道を歩む方がいいのである。

なぜならば、真理を発見することができれば、自らを散々けなし、バカにした人々の役にも立つのだから。

仏教は、たとえ一人になっても、真理の道を選んで歩め、と勇気を与えてくれるのである。

この偈(げ。詩文。この経文のこと)には、実に興味深いブッダの言葉が記(しる)されている。

網にかかった鳥の話だ。鳥は網にかかると、条件反射で翼を羽ばたかせる。しかし、そうなると余計に翼が網に絡まって逃げられなくなる。

頭のいい鳥だったら(?)、翼をたたんで、くちばしで脱出するための道を探りながら、先へ先へと進み、網から逃げ出せるのだ(?)。普通の鳥たち(?)がやることは決してしない。

「鳥が翼を羽ばたかせるのは当たり前だ。みんなやっているではないか」と自分も同じことをしたら、確実に捕獲されてしまう。

これと同様に、人間が歩むべき真理の道も、みんながやっている常識的な枠を超えた方途で発見できるものなのだ。

とのこと。

~~~~~

・方途~ほうと~進むべき道。なすべき方法。
(用例)方途を探る。