おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

405_法悟28-19-1

第 3 週 賢者の道を歩む

5 「好き・嫌い」という重荷を捨てる

自分の道を外れることに親しみ、
自分の道を歩むことに親しまない。
人生の目的を捨てて楽しみにしがみつく人は、
自分の道を歩む人を羨(うらや)むようになる。

(二〇九) (第16章 愛しきもの より)

適当にやります。

人間は面白いものだ。何かをしようとすると決まってしてはいけないことをする。話してはいけないことを話し、考えてはならないことを考える。これはどうにもならない人間の特性になっている(???)。

失敗から学べという人もいるが、一つの失敗からは大したことは学べない。だから、それで人生が成功する訳ではない。結局、人生は失敗ばかりになるのだ(??)。

私達の心は変なもので(?)、「悪いことが大好きで、悪いことしか好まない」という特性がある(また、こんなこと言ってる)。親は子供に勉強してほしくても、子供は遊ぶことしか考えていない。これこそが、彼らのやりたいことであり、最高の幸せなのだ。しかし、親としては自らの人生を省みる時、子供には勉強してほしいのだ。

しかし、小さな子供ほど勉強は嫌がる。では二十歳の人はどうか。二十歳の時にやりたいことは、三十歳の人から見ればとんでもなく愚かだ(?)。では四十歳の人はどうか。五十歳の人から見れば・・・と、同じことの繰り返しだ。賢者から見れば、私達はとんでもないバカなことをしているのだ(随分論理が飛躍してますね)。

七十歳、八十歳になってくると、ほとんどの人々は、もう何もできない状態に衰えてしまう(?)。今までの経験も、全部関係なくなる。結局、人生の最後まで失敗を積み重ね、やってはいけないことをやっているのだ(?)。

では、どうすれば失敗を繰り返さずに、やるべきことをやるようになるのか。それは、周りからガミガミ叱られ、脅されて、やっとのことでそうなるのだ。だから、子供に勉強させるにも、親はすごく苦労する。わが子に嫌な思いをさせるのである。これは、大人でも同じだ。新入社員は上司からかなり厳しく指導されないと仕事を覚えない。彼らは仕事の厳しさをこぼし、文句を言う。

しかし、もしも上司が優しくて親切なら、新入社員はつけあがって、とんでもないことをしでかすだろう(?)。彼らは皆、親切に育ててもらいたいと期待するが、それで育つ器ではない。優しくすると何をしでかすかわからないのが人間なのだ(?)。人間の心は苦労して育つようにできているのだ(?)。勉強も、仕事も、家事も何もかも、嫌々するようにできているのである(??)。自分が嫌々やっていること、それこそが本当にやらなければならないことなのである。

面白いことに(?)、人間というのは、やらなければならないことは嫌々こなし、決して楽しくやってはいけないことを楽しくやってしまうものなのだ。

例えば、日々、家事と育児に追われている主婦が、息抜きにパチンコに行ったとする。彼女はパチンコが大好きで没頭し、日頃のストレスを発散させる。つまり(?)、家事や育児によって、相当なストレスを溜め込んでいた訳だ。やるべきことを嫌々やっていたのだから、ストレスが溜まるのは当然だ。だから彼女はストレスを発散するために、お金と時間を無駄にしてでもパチンコに行くのだ。

しかし、やるべきことではないことを、いくら楽しんで実行しても、人生が成功することなどあり得ないのである。

私達が日々やっていることは、本来、やってはいけないことばかりだ(?)。だから、経験から学べと言われても一生涯、何も学ぶことはできないのだ(??)。

四十歳になってから、二十代の頃にもっと勉強しておけばよかったと後悔しても意味はない。その人は二十代で何をすべきだったのかを知っている。経験からよくわかるのだ。しかし、その経験はもう何の役にもたたない(?)。もう遅い。それが人生なのである(?)。

そんな人々の中にあっても、勉強も仕事もやるべき時にやる立派な人達がいる。楽しいか苦しいかには関係なく、とにかくやらなくてはいけないからやるのだ、と。育児が楽しいとか苦しいとか、そんなことを言っていられる場合ではないのだ、と。

そうして、楽しみを追わず冷静になって、「やるべきことをとことんやる」と心に決めて実践するのだから何事も成功するのだ。その人は、二十歳でも成功するし、三十歳でも成功する。八十歳でも成功するだろう。八十歳なら八十歳でやるべきことをやればいいのだ。

人生の成功者に一貫して言えることは、自分がやるべきことを楽しんだり(?)、苦しくて嫌だと投げ出したりしないことだ。つまり(?)、苦楽を乗り越えているのである。そのレベルになれば自ずと人生は成功してしまうものなのだ。

私達が気をつけるべき点は、楽しいことや好きなことの誘惑に負けないことだ。あるいは、智慧をもって冷静さを保ち、「今は楽しいとか苦しいとか価値判断さている場合ではないのだ、その場でやるべきことをやるんだ」と決めることだ。

例えば、家が火事になって、子供が家の中に取り残されているとする。そんな時に、「火が怖い」だの「熱いのは嫌だ」と言っていられるだろうか。火が怖いのも、炎が熱いのも当然だ。有毒ガスを吸い込めば死ぬかもしれない。しかし、そんなことを考えていたら子供を助け出すことはできないのだ。

私達は智慧を完成していない無知な人間にすぎないから(?)、物事を決めるには、楽しいか苦しいか、好きか嫌いか、という判断基準にしたがっていたら絶対にダメなのだ。そんな感情の誘惑に負けてしまったら、苦しくなっていくだけだ。人生に失敗して、ものすごく不幸になるだけなのである。

だから、私達はしっかりと覚悟を決めなければならない(?)。生きている間は、「楽しいことをやろう」とか、「やりたい仕事をして生きていこう」とかの選択肢はあり得ないのである。やりたい仕事など見つかるはずがない。そんな幻を追い求めるヒマがあったら、今できる仕事をすることだ。「やりたい仕事」ではなく「できる仕事」をするのだ、と腹を決めたらどうか。もし、今の自分の実力でできる仕事がなければ、努力をして仕事ができるようになればいいのだ。

人間は常に変わることができる。頭の中のプログラム(?)から、「好き嫌い」の基準を取り除いてしまえば、人生は成功する(?)。私達が楽しい苦しいと言っている間もなく、世の中は時々刻々と変化していく。自分自身を、その変化に合わせて、好き嫌いという基準を捨てて、常に行動していかなければならないのである。

とのこと。

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追記: 2021/06/07 23:16 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。