おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

408_法悟28-20-1

第 3 週 賢者の道を歩む

6 人生で最も危険な煩悩

性欲に等しい火はない。
怒りに等しい損失はない。
五蘊(ごうん)に等しい苦しみはない。
心の平安に勝る楽はない。

(二〇二) (第15章 幸せ より)

適当にやります。

ブッダ(お釈迦さんのこと)は、世の中で最も恐ろしく危険な火は性欲(ラーガ)であると説く。

これに対しては、俗世間で様々な異論が出る。「性欲は自然な欲求だ、人間にとって不可欠なものだ」とする人もいるだろう。

「では、性欲が必要であるとの科学的、生物学的な根拠はあるのか」とブッダは問い返す。

生命には呼吸が必要だ、という主張なら根拠があると言える。それで酸素を吸わなければ、体の各細胞が死んでしまうからだ。栄養についても、同様だ(必ずしもそうは言えない可能性もあるんだけど。まあ、いいや)。

ならば、性欲はどうか?

私達は「とにかく性欲は必要だ」と言い張る(???)のだが、性欲は何か(人間に)良いことをしてくれるものなのだろうか。

性欲を満たせないからといって、病気になったり、死んだりするケースは一つもない(?)。

それどころか、性欲が病原菌のように体内に入ると(?)、どんなに危険で恐ろしいことでもやってしまうものなのだ。

動物は普段は平和で穏やかに暮らしているのに、繁殖期になるとお互いに憎しみ合い、ケンカをして、ケガをすることはもちろん、最悪の場合は殺し合いまでもする。

メスの奪い合いで、交尾にありつけたからと言って、そのオスには、何かいいことでもあるのだろうか(あるんじゃないの?)。

そんな彼らは、なぜに子孫を残すために、自分たちが必死になるのかをわかってはいないのだ(そんなに簡単に断定できるんですか?)。

ただただ、性欲の奴隷になり、子孫を残すためには、どんな苦しみも厭(いと)わないのである。

犬や猫に限らず、平和的な動物の象徴である象も、繁殖期になると危なくて近づくことができない。象は性欲に燃えて(?)、完全に頭がいかれてしまうのだ(?)。

象は、普段はとてもかわいく、人間のいうことは何でもやってくれる動物なのだが、繁殖期になると象使いでさえ殺しかねないのである。

生命に性欲が入ると(?)、思考も価値観もおかしくなってしまう。道徳はひとかけらもなくなって、燃えた状態になる。その変化があまりにも強烈なので、火にたとえられている訳だ。

その火が燃え盛る原因は心にある(?)。性欲は肉体的、生物学的な原因で起こるものではなく、人の心が生み出すものなのだ(?)。

性欲は煩悩の一つで、あらゆる精神的な病気は性欲に絡んで発症する(???何だかフロイトみたいですね)。

性欲は煩悩の中でも最もタチの悪いものなのである。

だから、生物学的に性欲が必要だという理屈を並べても話にはならない(?)。

腹が減ったら飯を食べ、喉がかわけば水を飲むのは、医学的に根拠がある。

しかし、性欲を満たすべき、という答えはどこにも見当たらないのだ(?)。

性欲を満たすために女性に近づくべきだとか、痴漢をすべきだ、などという理屈はまったく成り立たない話なのだ(何で話が急にソッチ(犯罪系)に行くの?)。

例えば、元気一杯の若い男女(おそらく性欲が旺盛な年代という意味合いで出したのでしょうね)にしても、何か別のことに夢中になると性欲を忘れてしまうものだ(生命の危機以外ならばそうでもないのではないですか?それとも逆か)。

性欲の盛んな若い男の子が、ある女の子を気に入ったとする。彼女をデートに誘い、たまたまホラー映画でも見たら、上映中はスクリーンに釘付けで、下心なんかはきれいに消えているだろう(そうですかね?)。

別なことに気持ちが移ったとたんに性欲などは忘れてしまうものなのである(本当ですか?人によって個人差はあるでしょうが、あの親鸞(しんらん)さんでさえ散々苦しんだ難攻不落な性欲をそんなに簡単に制御できるものですかね?)。

なぜなら、性欲が生物学的に説明できるホルモンの作用だとしたら、そう簡単にはいかないはずたからだ(だから簡単にはいかないんじゃないですか?)。

例えば、男女二人が人目につかない場所で隠れて何かいかがわしいこと(性行為かそれに準じるものでしょうね)をしていたとする。

そこに突然誰かが入ってきたらどうなるか。特に、自分の親や兄弟が目の前に現れたら、恥ずかしさで逃げたしたくなって、性欲などはたちまち消えてしまうだろう(そうとは限らない気がするんだけど)。

性欲が生物学的な原因によるものであるならば、こうはならないはすなのだ(だから、ならない場合もあるんじゃないですか?)

仏教では、若者が肉体的に異性と交わること(セックスのことですね)を怒っている訳ではない。ただ、「火は用(?)が済んだら消すものだ。ずっと燃やすものではない」と言っているのだ。

人間だけは、死ぬまで性欲を燃やし続けて生きてしまう(?)。性欲を燃やすために、あれこれと工夫する。

漫画、映画、小説にしろ、性欲を引き立てる場面がなければ、誰も見ようとしない(???)。

性欲にさほど興味がない人でも、見聞する内容によっては、突然、頭の中で性欲の炎が燃え上がる可能性はある。だから、火を扱うのと同じように、かなり気をつけた方が身のためなのだ。

火はほんの少しの扱いを間違えただけで、すべてを焼き尽くしてしまう。だから、特に若い人は、性欲は火と同じなんだ、と心しておけば、自己管理はできるであろう(???)。

性欲の次に危険なのは、既述のように、怒りである。何に対しても怒ることだ。

怒りは私達の人生に大変な損失を与える。私達は競争社会の中に生きているから、怒りがまるで自分の持ち物のようになっている。怒りと自分が一心同体になっているのだ。

大人達は、子供達が幼稚園に入った頃から、競争思考を植えつけて、怒りを叩き込む。怒りを管理させるどころか、競争を煽(あお)っているのである。

しかし、ブッダは、「怒りは負け」だと言っている。

怒りは競争によって生まれる。競争には誰しも勝ちたいだろう。負けて格好がいいはずはないからだ。

しかし、競争に勝つためには怒りが生じるので、仏教では負けたことになるのである。怒り以上の負けはないのだ。私達は怒りによって自己破壊をしてしまい、理性にもとづいて人生にチャレンジすることができなくなるからだ。

勝負は将棋のようなものだから、自分も対戦相手もそれぞれの駒を動かす。別に怒る必要はない。相手の出方を理解し、予測し、計算して、自らの駒を動かせばいいのである。そこに怒りが入り込んでしまうと必ず負けてしまう(?)。

私達人間は、競争主義に生きている。これは資本主義と同じだ。弱い者を負かして自分が勝ってやるぞ、という怒りから、銀行強盗、人殺し、戦争のように、あらゆる破壊的な現象が生まれているのである。

金持ちに対して腹を立て、「あそこにはいくらでも金があるから盗んでやる」と強盗に入ったとする。それで泥棒は金持ちになるのだろうか。泥棒は金持ちに対して何かいい教訓を与えたことにでもなるのだろうか。

どちらもあり得ない。罪を犯して自分が人生の敗残者になっただけなのである。

恐ろしい戦争も怒りによって起こる(?)。怒りによって、人間は生きることに失敗するのだ。だから、人生のいかなる場面でも、怒りだけは抑えた方がいい。怒らない方がいいのである。

「怒ったら負け」というのが仏教の考え方だ。もしも人生に負けたければ、思う存分に怒って下さい(???)。人生に勝ちたければ、いかなる条件の下でも、怒らないで生きることだ。

次に、五蘊(ごうん)ほどの苦しみはない、とはどういう意味か。

私達が普段から、勉強が大変だとか、仕事が大変だとか、何か苦しみが自分の外に思っているが、これは勘違いなのである。地震が起きたから、火事が起きたから、悩み苦しんでいる。そう見ると、苦しみが自分の外にあるように思うのであろう。

しかし、本当は、苦しみとは私達の体そのものなのだ。肉体が苦しみをつくるのである。

大切なミカン畑が台風で台無しになってしまったとしても、それは自分(?何を指しているんですかね。霊体のことですか?)に肉体があるから困っているからであって、台風でミカンの木が倒れたことと、自分(これも霊体を意味するようにしか読み取れないんだけど)には何の関係もないのである。自分(やはり霊体ですね。 S さんは無意識に使っているようだけど、そうとしか読み取れません)の体があるから、そこに苦しみが生まれるのである。

仏教では、体と心を 5 つの要素に分けて、五蘊と言っている。
1.肉体
2.感覚
3.考え方
4.感情
5.心
この 5 つが苦しみを作るのである。肉体が苦しみであって、感情が苦しみであって、思考が苦しみなのであって、どれも自分の外にあるものではない。

「蚊に刺されてかゆい」というのも、やはり、自分の感覚だ。その感覚があるから、苦しむのである。

よく「蚊は嫌いだ」とか「虫は苦手だ」という人がいる。こうした人は、虫が飛んできたりすると、驚いて飛び上がったり、悲鳴を上げたりする。

しかし、虫とは、そんなにも恐ろしい生き物だろうか。別にどうってことのない無害な生き物だろう。

虫が気にならない人なら、自分の体に止まろうがなんだろうが平気だからだ。

虫を恐れる人が悲鳴を上げて怯(おび)える原因は、虫がつくったものなのだろうか。もし、そうであるならば、虫を気にしない、虫をかわいいと思っている人達も、虫嫌いの人達と同じように苦しんで、恐怖するはずだ。

しかし、そうはなっていない。だから、この場合も、自分の感情が苦しみをつくっているのだ。

このように五蘊の一つ一つに引っ掛かって、自分(霊体としか読めないんだけど)が苦しんでいる。自分で自分の苦しみをつくっているということなのだ。

だから、逃げるところはない(肉体に入っているから?)。

トラが怖いのであれば、トラから逃げればいい。自分の外に苦しみがあれば、逃げてしまえばいいのである。しかし、自分(肉体に張り付いている霊体の自分ですね)が苦しみそのものだったら、どうすればよいのか。

この偈(げ。詩文。この経文のこと)の最後では、すべてに勝る楽とは何かということを教えている。それは「心の平安」なのである。

心が平安ならば、幸福だということだ。

人間は苦しみだけではなく、楽しみもまた、自分の外にあると思っている。外にあるはずの幸せを探し求めて、走り回っているのである。

しかし、苦しみで見てきたのと同じように、「外にある幸せ」などは幻に過ぎないのだから、自分のものにしようと走り回ったところで、何も得ることはできない(?)。

人間は幸福になりたくて、幸福とは反対の方向に走っているのである。

金儲けがしたい、ダイエットをして痩(や)せたい、もう少し背が高くなりたい、と自分の外側に幸福を追い求めて走っている。

しかし、苦しみが外側にはないのと同じように、楽しみも外側にはないのだ。

自分が苦しみであるのならば、楽しみも自分から生まなければならないのである。

幸福とは、心が平安であること、「欲しい、欲しい」という渇愛がないことだ。

欲しいという気持ちに燃えて、突き動かされて、外に向かって走り回る状態が消えた時に、心は平安になる。

これこそが、究極の楽なのである。

とのこと。

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五蘊~ごうん~仏教語~人間の心身、もしくは現象存在を構成する 5 つの要素。色(=肉体や物質)・
受(=感覚)・
想(=想像)・
行(=意志)・
識(=判断)。

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追記: 2021/06/19 10:15 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。