おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

442_投影

以下は、私の個人的な主観にもとづく勝手な仮説なのでお許し願います。

今まで幾度となく、私達は神様の分け命、分霊が人間そのもの、霊なる人間こそがその本体だ、と書いてきました。

しかし、実際には、ほとんどの人(悟りを開けない人のことだから、地球上の人口、ほとんどすべてでしょう)が、肉体人間こそが人間であると認識していると思います。

人間=肉体人間である以上、そのあらゆる能力には限界があり、神様のような自由自在な万能さはありません。(*)

しかも、数多くの輪廻転生を通して、真善美に戻る想いと行いである、業想念を積み重ねてしまったために、その償いのためもあり、様々な制約まで課されて、できることはかなり限られています。

自己保存の本能から、肉体の五感にまつわる各種の欲望も相まって、誰しもが、ヒーローになりたい、ヒロインになりたいと無意識に思っていると思います。

その根底には、元々の神様の自由自在な万能さを求めたい、という無意識な元返りの気持ちがある上で、さらに肉体的な五感にもとづく欲が加算されているためだと考えられます。

よく、巷(ちまた)には恋愛や婚活などでお相手への高望み云々という話がありますが、私はこれは当人の本音から発した言動ではないと考えています。

肉体人間は、よほど輪廻転生を通してかなりの悪い因縁を積み重ねた因業人間でない限りは、その思考能力や判断能力を制約されることはなく、まともな思考能力や判断能力を備えているはずです。

希望的評価と自ら下す客観的評価は完全に別です。

自分の容姿その他の水準くらい、誰しもがわかっていなきゃおかしいんですよ。

わからないはずがない。

人様(異性のこと。男性なら女性、女性なら男性)の評価ができるということは、とりもなおさず自分の評価ができることに他ならないのだから。

人間は誰しも自分に対しては、客観的(おおむね、人様からの評価)が甘くなる嫌いは確かにあります。しかし、極度に甘くなるのは、どう見ても不自然でおかしいのですよ。

それでも、あえて突っぱねて高望みをしている(あるいは演じている)のは、ある種の心理的な代償行為、補償行為だと考えています。

だから、外部の人間としては、ああした本人の言動を決して真に受けることなく、その心中を察して、ただ、黙って祈りを捧げて差し上げれば良い、と思っているのです。

それに、いくら批判をしても、非難をしても、残念ながら業想念を巻き起こすだけにしかならない、批判する側・される側の双方の総体としての因縁因果を悪くすることにしかならない、と思っているからです。

平たく、悪い言葉を使って言ってしまえば(すみません)、誰しもが、皆、バカじゃないんだから、本当のことはちゃんとわかっている、ということです。

という感じで、私達は神様の万能さにはほど遠く、ヒーローやヒロインになるのさえも難しいのが、一般的だと思います。

仮に、ヒーローやヒロイン的になって一世を風靡(ふうび)したとしても、肉体人間として生きる命は有限であり、しかも、その旬の期間も良くてもわずか数年といったところではないでしょうか。

しかも、残念なことに、この肉体世界のこの世で、こうしたヒーローやヒロインになれる確率はきわめて少なく、どうしても何らかの挫折(ざせつ)を余儀なくされてしまいます。

こうした状況で、肉体人間として次に考えられることは、誰しもが人並み(平均的な)能力を備えたい、暮らしがしたい、そして、できることならば、人様を少しでも出し抜いて、より良い位置につきたいということになると思われます。

そんな時に、実生活ではなかなか叶えられない願望や生きざまを、間接的になぞらえて体験できるもの・・・。

それが、小説や演劇や映画やアニメーションや各種の成功を含めた波乱万丈の物語や各種のスポーツ観戦になるものと思われます。

つまり、肉体人間は、こうした物語などを読んだり、聞いたり、応援する行為に自己を間接的に拡大させて乗り移らせ、感情移入をして、追体験をしている、と言える訳です。

すなわち、肉体人間としての自己を投影している、と。

逆に言うと、その人が、どういった投影物を好んでいるかを見れば、その心理状態がある程度読めるということになる訳です。

もしかしたら、神様は自らの分け命を与えた肉体人間に、ヒーローやヒロインだけでなく、ありとあらゆる階層の人々にたくさんの体験をさせて、肉体人間の経験をさせて、修行を同時にさせることで、その体験に多くの幅を持たせて、最終的には肉体身をもちながら、立派な魂を備えた人間に仕上げようとしている。

そのために、神様は、こうした投影の機会を設けて、肉体人間の社会を運営しているのかもしれない。

そんなことを感じることが、ままあります。

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(*)自由自在について

自由自在といっても、この世で、肉体人間こそがすべて、肉体人間の五感にもとづく自己保存の本能による、自らの利害得失計算だけを図ろうとするための自由自在ではありません。

肉体人間の五感にもとづく、自分勝手な欲望達成のための自由自在ではないのです。

そうではなくて、神様の分け与えられた命が、この肉体をまとって、肉体人間として生きていても、この世の、この肉体世界の利害得失計算を超えた、何のとらわれもない、という意味の自由自在です。

つまり、神様のみ心を、そのお働きを、そのままにあらわすための自由自在のことです。

従って。

神様から分け与えられた命を、自由自在に働かせている時には、真善美に悖らない、すなわち、悪いことはしていない、自分のためにもなり、皆のためにもなる、良いことをしていることになります。

逆に言うと、この世で、この肉体世界で、他の人を押し退けて、排斥して自分のためだけに生きていたり、その他の悪いことをしている時は、神様から分け与えられた命を、汚していることになります。

これが、いわゆる、真善美に悖る肉体人間の想いと行いである業想念となる訳です。

だから、この輪廻転生を通して積み重ねられた業想念は、同じく、輪廻転生を通して、浄めてなくしていかなければならない、となってくる訳です。

これが、たびたび書いてきた、業想念の輪廻転生を通したあがない、償いの病気・争い・貧乏・苦労となってあらわれてきている、となる訳です。

もちろん、足りない分がたくさんあるので、私達の預かり知らないところで、守護霊さんと守護神さんが、たくさんの業想念を浄めて、私達肉体人間を守って下さってきている訳です。

で、これを、ただ、規定値のままに送る(?)よりは、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることで、より、自由自在の世界にほんの少しでも近づくことで、世界の運命の光明化にほんの少しでも貢献することにもなるし、自らの運命を輪廻転生を通してほんの少しでも好転させる道にもなる訳です。

だから、推奨してきた、ということになります。

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①追記: 2021/07/22 20:15
②追記: 2021/07/23 01:07
③追記: 2021/07/23 01:23
④追記: 2021/07/25 05:39
⑤追記: 2021/07/25 08:48
⑥追記: 2021/07/26 21:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正し、注釈を追加しました。