おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

500_仏言葉ー034 ー 怒りに終止符を打て

第 2 章 人間関係に気疲れする

34.怒りには忍耐

佐々木さんの取り上げたのは、経文の部分抜粋と思われるので、中村さんの本からその前後をすべて抜粋して取り上げる。

その前に、佐々木さんの訳を大体のところを言い換えて書くと以下の通り。

怒った人間に対して
怒りをもって対すればより一層の悪をする
怒った人間に対して
怒りをもって対しないならば、
困難である闘いに勝利する。

言い回しはちょっと変えてあるがこうした内容が出ている。

以下に、中村さんの本から元と思われるものを前後を含めて引用する(改変あり)。

なお、これは、お釈迦さんとバラモンとの対話として出ていて、そのバラモンは、阿修羅王(*1)とあだ名されていた罵る者バーラドヴァージャ、雑阿含経で年少阿修羅と訳されていた者である。

尊師(*2)いわく、ー
「愚者は、荒々しい言葉を語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える。
しかし、(真理を)識知する人が(謗りを)堪え忍ぶならば、彼にこそ勝利が存する。
怒った人に対して怒り返す人は、それによって一層悪をなすことになるのである。
怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるのである。
他人が怒ったのを知って、気をつけて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人の両者のためになることを行っているのである。
理法に通じていない人々は、「彼は愚者だ!」と考える。」

佐々木さんによると、これは怒りに対して怒りを返さないという忍耐力を持てという話だそうだ。

怒りに怒りを返すと、どんどんエスカレートして、怒りは悪を増幅させる。

組織や国家からこれを実践するのは難しいから、まずは個人レベルから始めるのが重要とのこと。

霊性的には、次のように考えられる。

怒られた人(以下、甲とする)、そこで怒る相手(以下、乙とする)に生じた怒りが、甲の過去世で新たに作った因縁、つまり、甲が過去世において乙に対して新たに作りだした怒りが、今生に返ってきた場合。

過去世) 甲 → 乙 (甲が乙を怒る)

今 生) 乙 → 甲 (乙が甲を怒る)

要は、甲が乙を、過去世の時点で新たに怒っていたものが、そのまま、輪廻転生を経て、逆に今生に乙から怒られるという形で返ってきている場合である。

つまり、自分(甲)が過去世で新たに生じさせた真善美に悖る想いと行いの業想念としての怒りが、(乙という相手を通すことによって)輪廻転生を通して自分(甲)に返ってきている場合になる(*3)。

これは、業想念を消失させるため、償うために、今生で生じてきた自分(甲)に対する怒りを受け入れなければ、ましてや、さらに自分の過去世で生じさせた怒りであることに気づかず(ほとんどは気づかない。過去世の記憶が消されているから)怒りを返してしまえば、怒りの悪循環を生じて、怒りをおさめることの難易度は、とてつもなく上がってしまうことになる。

相手(この場合は乙)もあることだし、相手(乙)が同じような悪循環を繰り返せば、悪い因縁因果の循環のドツボにはまってしまうことになるからだ。

従って、少なくとも、気づいた片方側からでも(甲からでも、乙からでも)、この悪循環は、断ち切っておくことが必要と言える(片側が怒りの矛をおさめれば、怒りの連鎖を止めることができるから)。

このように見てくれば、上記の経文の、怒りを返すことがより一層の悪をなす意味は、因縁因果となる甲と乙の怒りの連鎖反応であり、
甲か乙のどちらかが怒りをおさめれば、自分(甲)と他人(乙)の両者のためになることを行っている意味も、
理解できるはずだ(甲が大元の因縁を作ったので、甲がおさめるべきだが。法則的に言えば、甲の果たす(受ける)べき悪い因縁は残り、甲が怒りを受け入れる、または、受け入れざるを得なくなるまで続くと考えられる)。

浄土門や世界平和の祈りの易行道で、仏様(神様)のおはからいで、自らの過去世の悪い因縁を解消させるために、このような不幸(今回の経文で言えば、他人から怒られること)などが起きてくるのだな、自らの過去世の悪い因縁の今生での因果としてのあらわれなのだな、ととらえるのは、こうした理由による。

そこで、浄土門なら、南無阿弥陀仏、と唱えて仏様に感謝し、世界平和の祈りならば、神様から肉体人間個々に遣わされた守護の神霊さん(守護霊さんと守護神さん)に感謝する、という形になっている(あたかもガマン教のようで、忍耐を強いられ厳しく難しい信仰と言えるかもしれない。仏様や神様のみ光で浄めて頂く分、ありがたいと感謝するしかない)。

まあ、そうはいっても、今生で生じた怒りが、過去世の因縁にもとづくものではない場合もたまにはあるかもしれない。

それでも、来世以降に悪循環を生じさせないこと、禍根を残さないためには、怒りには怒りを返さないのが、良策ということになる。

まあ、因縁因果の法則があるから、これを止めるのは、やり方が限られている、決まっている、ということです。

今生でやられたのが、過去世の因縁の今生でのあらわれだと到底納得できなくても、
あるいは、
今生で新たに被った損ないに納得できなくても、
とりあえず、
こちら側が怒りの矛をおさめれることができれば、
今生と来世以降には怒りの連鎖を持ち越さず、怒りに終止符を打てる。

ここが、こらえどころ、我慢のしどころと言えるのかもしれない。

あの経文を霊的に輪廻転生の側面から見た場合には、このように分析可能です。

~~~~~

(*1)阿修羅は古代インド神話における悪鬼であり、しばしば神々と戦う存在のこと。

(*2)お釈迦さんのこと。

(*3)甲も乙も神様の分霊を頂いている神の子である。

肉体人間として、この世の目に見える形としてはわかれていても、その本体は神様の子供、すなわち、広い意味ではみんな神様に含まれると考えることができる。

甲も乙も、親様の神様も、他の分霊を頂いているすべての人達も、広く一体としてとらえるならば、すべては自分=神様、ということになる。

ということは。

親様としての神様も、その分霊を頂いているたくさんの肉体人間も、このようにすべては一体として広くとらえれば、

甲のした行為(怒り)は、
乙という相手と輪廻転生という時間差を経ながら、
甲に返ってきている、

すなわち、
神様の一部としての自分(甲)のしたことが、
輪廻転生という時間をかけて、
相手(乙)を通すという形をとりながら、
自分(甲)に返ってきている
のである。

良いことは、良いものとして自分に返り、
悪いことは、悪いものとして自分に返る。

これが、法則ということになる。

蒔(ま)いた種は自分で刈り取らなければならない。

因縁因果。

種蒔き表現のキリスト教も、
因縁因果表現の仏教も、
いや、一般的にも、
原因としての因縁と結果としての因果を、この世での、今生内での対応する内容に考えがちなことが多い。

実は、今生の今、思っていることは、
過去世のいずれかにおいて思っていたことが、今生であらわれて、消え去るものだ、
ととらえれば、
ほとんどか過去世のどこか(何世目かを)起点とした思いだった、
ということになる。

そうすると、今生の今の思いのうちのかなりの部分が、輪廻転生を通してあらわれてきているものだ、と解釈可能になる。

このように考える時、輪廻転生を通すという時間差がある、ということを曖昧にして、明言しない場合が、世の中にはあまりにも多いように感じます。

そのことを枠外におくから、原因と結果を説きながら、この世のあまりにも矛盾した理不尽な現実を見て、神様なんかいないという言い方をする。

そんな場合が、ままあるような気がします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2021/09/09 12:05 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。