おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

514_仏言葉ー048 ー 輪廻の卒業を目指そう

第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない

48.輪廻は苦しみ

今回も、サンユッタ・ニカーヤになる。同じく中村さんの訳を引用する(改変あり)(*1)。

妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り回る。
生存するものが、輪廻に堕している。
人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。

(サンユッタ・ニカーヤ より)

佐々木さんによると、この経文は、何が人を生まれさせ、何が人を右往左往させ、誰が輪廻に落ち、何が苦しみかという質問にお釈迦さんが答えたものだそうだ。

実際に引用してみよう。

第 Ⅰ 篇 第六章 老い
第五節 生まれさせるものを(一) より

神いわく、ー
「何が人を生まれさせるのか?
人の何のものが走り回るのか?
何ものが輪廻に堕しているのであるか?
人にとって大きな恐怖とは、何であるか?」

尊師(*2)いわく、ー
「妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り回る。
生存するものが、輪廻に堕している。
人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である。」

なお、妄執とは、雑阿含経では、愛欲なので、これは生殖につながる男女の性交、つまり、男女のセックスのことですね。佐々木さんは、渇愛と訳していますけど。

また、同じく、雑阿含経では、輪廻は生死、生存するものは衆生(*3)となっている。

佐々木さんによると、私達が心に間違ったものの見方をすることが苦しみを生み出し、心を右往左往させて、輪廻という苦海に沈み、恐怖は自らの煩悩が生み出す苦しみだとしていて、お釈迦さんの言う恐怖は、死そのものではなく、煩悩が生み出す輪廻の苦しみだとしているが、申し訳ありませんが、何だかごちゃごちゃしてよくわかりません。

前々回( 512_仏言葉ー046 ー 煩悩と想いと嘆き )と重なるけど、私流に整理します。

神様の分け命を頂いて、個々の肉体に分かれた私達肉体人間は、地球さんの開発をはじめとして、その生きていく都合上、自己保存の本能という、自分中心のエゴに結びつく生き方をするようになってしまった。

このような生き方では、本来の神様のみ心には適わない真善美に悖る想いと行い、すなわち、自分中心の自分勝手なエゴに結びつく、佐々木さんの言うところの間違ったものの見方、心のあり方を抱いたためにする行いのために、その清算が済むまで輪廻転生し続けるという羽目になってしまう。

だから、想いを乱す、間違ったものの見方をして心を乱すことによる行いは、すなわち、輪廻転生を通しての自らの人生に大きく反映されてくるのである。

肉体人間にとっては、死ぬことは何よりも恐怖です。お釈迦さんは解脱したから、あのように言えるのであって、悟れないほとんどの人にとって、死ほどの恐怖はありません。

だから、死ぬことはもちろん怖いのですが、これは肉体人間としては避けられないことです。誰しもが、いつかは寿命を迎えなければなりません。

それを踏まえた上で、輪廻転生を前提として、できる限り、苦しみを少なく、より恐怖も少なくするためには、より良い生き方をしていくしか方法がありません。

そのためには、肉体を持ちながら、エゴに引きずられながらも、真善美に悖らない、神様のみ心に適った愛に満ちた想いと行いをしていくしか、方法がありません。

愛に満ちた想いと行いをして、人のために尽くし、もちろん、こみ上げてくる自己保存の本能、エゴにもとづいた想いを何とか平らにして、なだめ、浄め、精神統一をすることがより望ましいことになります。

そうして、普段からの想いを乱さないことが、輪廻転生を通した自らの各人生への幸せにもつながるし、輪廻転生を卒業するためにも、必要になってくる訳です。

佐々木さんの言うことを、言い換えると、こんな感じになります。

~~~~~

(*1)中村元ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ Ⅰ (岩波文庫・青版)
P.83ーP.84

(*2)お釈迦さんのこと。

(*3)衆生~しゅじょう~一切の生き物。特に人間。