第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない
51.悪から身を守る
自己を護(まも)る人は他の自己をも守る。
それ故に自己を護れかし。
しからば彼は常に損ぜられることなく賢者である。
(アングッタラ・ニカーヤ 第三巻三七三ページ)
佐々木さんによると、これは決して自己中心的な考え方を言うのではなく、自己を大切にすることは、「他者の自己」を大切にすることでもあるから、自己を大切にせよ、という言葉だそうだ。
何だか訳がわからないが、要は、悪いことから自己を守れない者は、その悪さは自己から他者にまで及ぶ場合があり得るので、その意味では、自体一体感を持てる人間が一番強いから、自己をしっかり守ることのできる者は、すなわち、他者にまでその守りをおよぼせるがゆえに、偉い、賢者だ、ということらしい。
これは、私が前々回( 515_仏言葉ー049 ー 慎ましくいこう )にの後半に書いた理屈と同じことだ。
自らがいい行いをすれば、それがかかわりを持つ他者にも影響を及ぼし、結果的にはいい影響を及ぼし合うことになるという話。
この自己を守る、については、以前に中村さんのところで触れているのでそれを引用する(改変あり)。
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240_原仏14ー8
239_原仏14ー7 の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) 二 他とのかかわり からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。
ー 他人との関係 ー
(A)他人との関わりにおいて、自己を整えるという方向において、右の教えはさらに発展します。
(B)困ったよなあ。あれじゃ、不十分だと言っているのに・・・。
続きです。
自己を護(まも)る人は他の自己をも守る。
それ故に自己を護れかし。
しからば彼は常に損ぜられることなく賢者である。
(アングッタラ・ニカーヤ 第三巻三七三ページ)
(A)この自己を求めるという動きが、ここでも社会性をもってくる訳です。
自分を反省してみる。すると自分が自分にとって一番愛(いと)しいし、大切だ。すると他の人だって同じではないか。
だからわが身に引き比べてみて、他人を理解せよ、同情せよ、となる訳です。
自と他は明らかに違う訳ですが、しかしそれは融即するはずのものだというのです。目には見えなくても、因縁の連鎖の網によってお互いに繋がっている。だから自分を厳しく整えることは他人に対して理解をもつことになる訳です。
例えば「怒るな」という教えがありましたが、これは怒らせるような人がいた場合に、ああ、この人がこうした態度をとったのは、こういう条件により、こういう原因により怒ったことなんだから、と思って理解をもつ。すると自分の怒りも自ずから静まる訳です。
あるいは他の人が何かしてくれたことが、余計にありがたく自分も思うようになる。自他融即というのは、決して自分と他人をごっちゃにするという意味ではなく、他人は他人としてそこにある。その立場ははっきり認めて理解する、同情する気持ちをもって対するという訳です。
(B)あと、まだ、たくさん書いてあることがあるのですが、一旦、ここで区切ります。
私の通読の仕方がいい加減過ぎたこともあるかもしれないが、本当に勘弁してほしい。
融即て何ですか?
こんなの、中型の国語辞典にも、中型の漢和辞典にも、出てないよ。
融からも、即からも、たぐれない。
出ていない。
何ですか、これは?
ネットだって、融即律が出ているくらい。
本当にもう、いい加減にしてほしい。
たとえ、冗長になっても、もっとやさしく、誰にでもわかりやすい言葉を使うべきです。
失礼ながら、前後の文脈から類推する限り、そう大した意味があるとは思えない。
十分に言い換えが可能なはずです。
ちょっと、キレ気味なので、今回はここまでで、仕切り直しをさせて下さい。
申し訳ございません。
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241_原仏14ー9
239_原仏14ー7 の続きです。
前回(240_原仏14ー8)のお見苦しい文章は、大変失礼致しました。
この場をお借りしてお詫び致します。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) 二 他とのかかわり からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。
ー 他人との関係 ー
(A)他人との関わりにおいて、自己を整えるという方向において、右の教えはさらに発展します。
(B)困ったよなあ。あれじゃ、不十分だと言っているのに・・・。
自分がやられるのが嫌だから、保身を省みてじゃあ、本質に至らないんじゃないですか。
まったく、至らない、効き目がない、とは言いません。
しかし、因縁の深い因業人間はどうするんですか。
こうした人は、そう簡単に他人様に思いを馳(は)せたりなんかしませんよ。
相手の立場になるどころか、自分の思うまま、どんどん勝手にやりたい放題、ことを進めていってしまいます。
良心の呵責(かしゃく)に訴えても、効き目はむなしいほどにないでしょう。
なぜか。
果たす悪い因縁があるからですよ。
しかも、その悪い因縁が深ければ深いほど、新たな悪い因縁までつくってしまう可能性がきわめて高い。
私は説教にはほとんど効果がないとしばしば書いてきました。
あるべき規範や道徳を指し示しても、どうにもならないような人がいるんですよ。
過去の歴史にも、侵せない絶対権力を背景に、暴虐なことをした権力者がいたのではありませんか。
別に権力者に限りません。
うっとうしい説教だなと思うことは世の中にいくらでもあるでしょう。
どんな人だってそう感じることはあったはずです。
世の中は、業想念に満ち満ちて、不平等、不均衡が、まだまだ、たくさんはびこっているじゃないですか。
この業想念に満ち満ちた世の中を見る限り、お世辞にも霊性の高い人がたくさんいるとは言えないんじゃないですか。
自分(私)の傲慢な経験も踏まえて言うと。
魂の経験、もうどうにもならないほどの、抗えない不可抗力の経験を積むと、謙虚になるんですよ。
苦しんでいる人様に思いを馳せることができるようになるんです。
自然の恵みや、美しさ、はかなさにも、気づけるようになるんです。
今まで当たり前のように享受できていた環境が、いかにありがたいものであったかも、わかるようになるんです。
つまり。
私達の本体、霊魂魄についた汚れを落とさないと、浄めないと、きれいな本質があらわれないんですよ。
私達肉体人間が、あまたの過去世で積んでしまった五感にもとづく欲望で重ねてしまった、真善美に悖る業想念を払わないと、浄めないと。
それをしていくのが、現代まで含めると、自力の修行(聖道門)か他力の修行(浄土門)になるんじゃないですか。
古の釈迦の時代なら、自力修行しかなかった訳ですが、彼らのような厳しい修行生活をすることによって、業想念を浄める。
そうすることによって、神様の光を、仏性の光を出していく。
自然な態度で示すことによって、一般の人々にまで、光を及ぼしていく、因縁の波を浄めていく。
こうすることで、みんなの神性を、仏性を引き出すことで、はじめて、みんな神様の分け命を頂いている兄弟姉妹だと、人様の身になることができるのではありませんか。
悟りを得ていない肉体人間である以上、地球さん開発のために便宜上追加付与された自己保存の本能により、自分の保身は必定です。
しかし、これは、神性そのものでもない、仏性そのものでもない、違うのではありませんか。
保身から、慈悲や愛が出る。
じゃあ、保身はいらない、保身を放棄した人はどうするんですか。
どうなろうと構わないと言うのですか。
違うでしょう。
愛や慈悲は神性をもつ以上、仏性をもつ以上、元からあるんですよ。
ただ、あまたの過去世で積んでしまった業想念で曇(くも)らされて、わからなくなっているんですよ。
私達の本質が神性でなかったら、仏性でなかったら、修行をしても意味がないのではありませんか。
どんなに修行しても、悪人(?)のままで、変わらない人がいることになってしまう。
修行をする、あるべき姿を求める、ということは、肉体人間の本質が神性である、仏性である、と無意識に思っているからではありませんか。
つまり。
私達は知らず知らずのうちにわかっているんですよ。
だから、窮地に追い込まれた時には、無意識に、神様!と叫びたくなるのではありませんか。
従って。
話を肉体人間の自己保存だけに帰着させるやり方は、不十分だと思えるんですよ。
続きです。
自己を護(まも)る人は他の自己をも守る。
それ故に自己を護れかし。
しからば彼は常に損ぜられることなく賢者である。
(アングッタラ・ニカーヤ 第三巻三七三ページ)
(A)この自己を求めるという動きが、ここでも社会性をもってくる訳です。
自分を反省してみる。すると自分が自分にとって一番愛(いと)しいし、大切だ。すると他の人だって同じではないか。
だからわが身に引き比べてみて、他人を理解せよ、同情せよ、となる訳です。
自と他は明らかに違う訳ですが、しかしそれは融即するはずのものだというのです。目には見えなくても、因縁の連鎖の網によってお互いに繋がっている。だから自分を厳しく整えることは他人に対して理解をもつことになる訳です。
例えば「怒るな」という教えがありましたが、これは怒らせるような人がいた場合に、ああ、この人がこうした態度をとったのは、こういう条件により、こういう原因により怒ったことなんだから、と思って理解をもつ。すると自分の怒りも自ずから静まる訳です。
あるいは他の人が何かしてくれたことが、余計にありがたく自分も思うようになる。自他融即というのは、決して自分と他人をごっちゃにするという意味ではなく、他人は他人としてそこにある。その立場ははっきり認めて理解する、同情する気持ちをもって対するという訳です。
すなわち自己を探求することの中から人に対する理解が出て、自分に対する反省から他人に対する同情が出て、それが宗教的な意味では慈悲の理想となって具現化するのではないでしょうか。
考えると、自分は、他から色々及んできた力の一つの結び目のようなものです。他人から離れた自分というのはあり得ません。多くの人々が我々に影響を及ぼし、その力、そのお陰によって個々の人が育ってきた訳です。
だから個人は他人から切り離しては考えられません。一応、個が個として成立するために、因縁の結び目のようなものがなければならないのですが、それは他から離れたものではありません。
ですから他人の立場に立って行動するということ、これが世の中が円満に進んでゆくための実践上の原理なのです。
これは二千五百年前の昔だけのことではなく、実は今日のような世の中になってみると、人々、各個人の生存は密接に結びついています。だからこそ他人の立場を考えなければいけないのです。その点では貴重な教えだと思います。
(B)これは私のきわめて勝手な推測ですが。
中村さんは、縁起にからめて、自分と他人の関係づけを説明しようとお考えになったのではないでしょうか。
しかし。
いくら自己をきわめても、反省しても、悟りを得られない限り、因縁の壁は破れませんよ。
果たさなければならない、厳しい、深刻な因縁が、同情や理解で消失するとは、到底、考えることができないからです。
この地球さんの上に、生まれ合わせた以上、私達にはかすかなりにも、誰にも、誰しも因縁があるのは確かですね。
しかし、その因縁にも程度の著しい差があって、生涯を通しても、袖振り合わない人は、まったく、袖振り合いません。
ただ、私達のすべてが、神様の分け命により生きている、生かされていることは、まったく変わりがありません。
神様の分け命を頂く、同胞として、本質は同じである。
元は同じ神様の分霊(わけみたま)である。
だからこそ、人様の身になることに、意味があるのではありませんか。
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242_原仏14ー10
241_原仏14ー9 の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) 二 他とのかかわり からになります。
ー 他人との関係 ー
前回 241_原仏14ー9 で、自分の身の保身をかんがみて、他人様に嫌なことをしない、そして、ここから愛や慈悲が出てくる、とするのは違うのではないか、やかましく、うるさく書いてきました。
それだけではない、と。
釈迦ではありませんが、この内容を遺(のこ)した、釈迦と同世代の人物がいます。
中村さんは仏教徒だから、あえて触れなかったのかもしれませんが、孔子(こうし)です。
ある記録を見ると、この二人のいた時代は、活動したところはインドと中国の違いはあるものの、ほぼかぶっています。
釈迦 インド 紀元前565年~465年
孔子 中 国 紀元前551年~479年
釈迦の方がやや先輩といったところでしょうか。
この孔子の言葉(問答で弟子に答えた言葉)で、以下のようなものがあります。
己の欲せざる所は人に施す勿れ
おのれのほっせざるところはひとにほどこすことなかれ
まさに、前回中村さんが書いていた内容そのものです。
孔子は、これを他者にしないことが、思いやりだとしていて、大事なことだと説いていました。
しかし、これも発想の元は同じなのではありませんか。
自分も人様も、同じ肉体人間。
だから、自分の身をいとおしむように人様をいとおしみましょう。
自らの保身とそこから生じるいとおしみを他者に及ぼしていきましょう。
そこには、肉体人間の元が、本体が、本質が、神様の分け命の神様の子供である兄弟姉妹だから、慈しみ合い、愛し合い、傷つけたりし合わなないのは当然である、との視点は、見ることができません。
だから、私は、打算的なのではないか、利害得失計算なのではないか、と書いたんです。
さらに、もう一つ欠点をあければ、脆(もろ)いんですよ。
自分の身の保身の安全確保が保てないと、すべてが始まらないから。
もしも、この安全が何らかの事情で脅(おびや)かされたら、愛も慈悲も出ないことになってしまう。
もしくは、そうなりがちである。
この不安定で厳しい唯物論全盛の押しつまった資本主義社会では、身の回りのことで精一杯、そんなに余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の人は、多くはないのではありませんか。
それでなくても、ただでさえ、この世は、過去世からの因縁を果たすための、それはそれは厳しい火宅の世です。
そんなに簡単な心がけだけで、人様の身になり、わが身に引き比べて、同情や理解を示す余裕が果たしてあるものでしょうか?
釈迦ならば、こうしたことのすべてを十分にわかっていたはずです。
弟子の阿難(アーナンダ)に問われた時に、人は誰でも、もちろん、女性でもちゃんと悟りを得ることができる、と答えているからです。
肉体人間は誰でも、どんな人でも、神様の分霊を本体とする神様の子供である、仏教的に言えば、誰でも、もちろん、性別を問わず、悟りを得ることができる、いわば、仏性をそなえると言ったのですから。
仏性~ぶっしょう~①一切衆生(いっさいしゅじょう)が本来持っている、仏になれる性質。仏心。
②仏の本性。
衆生~一切の生き物。特に人間。
だからです。
従って、釈迦が実際にどこまで言及していたのかはわかりませんが、肉体人間の本体が神様の分霊であること、彼が仏性のことをわかっていたことは間違いありません。
なので、あのように書いてあるのは、経典作者さんの意図なのか、中村さんの意図なのかはわかりませんが、まだ、足りないような気がするのです。
現に、中村さんも、無意識だとは思いますが、自己探求から人に対する理解ができ、自分への反省から他人への同情が出て、それが宗教の意味での慈悲の具現ではないか、とあまり強い口調で言い切ってはいません。
世の中が円滑に進んでいくための実践上の原理という、いわば、処世術みたいな書き方もしていますからね。
処世術とするのは、極端に言えば、ハウツーもの、小手先の対処に近いと認めている訳ですよね?
本来、神性をそなえた、仏性をそなえた、肉体人間のあるべき姿から、直接導いている訳ではありませんよね?
まあ、霊魂を無記としながらも、仏教では、仏性を認めているのですから、この点に触れてもよかったのではないか、と思うのですよ。
ぐちゃぐちゃと何度もうるさくてすみませんけど。
なお、やっぱり老子様はすごいですね。
以前、書いたことがあるんですけど、老子様はスケールが大きいというか、本当に深い。
恨みに報いるに徳を以てす(老子様の報怨以徳)と、これに対となる(?)孔子様の以徳報怨=雪辱しろ、義に則って復讐せよ、とは全く違うように。
無為にして為(な)せ、神様の光が流れてくるのだから、肉体人間の五感にまつわる想いで、ああでもない、こうでもない、と光をさえぎるな。
すべて神様のみ心のままに流れるように為されれば、いちいちこまごまうるさいことを言わなくても、すべてが整っている。
まあ、そうなるためには、悟りを得て、空にならなければいけないので、まずは、普通の私達にはできないことなんですが。
だから、段階を踏んで少しずつ精進していく、他力の信仰、中でも、世界平和の祈り一念の生活と守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願いしている訳でもあります。
やはり、少しでも、より好ましい形にもっていくためには、できるだけ無理の少ない信仰の後押しが、必要なんじゃないのかなあ、と。
人様に対する理解や同情や慈悲や愛が、その時々の状態で左右され、出たり出なかったりするような不安定なものではなく、今すぐには無理でも、いずれは果たせるように、目指すべき境地として位置付ける信仰をもつことが、好ましいし、あるべき姿だと思えますので。
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・火宅~かたく~仏教語~煩悩・苦しみ・不安に満ちたこの世を火炎で燃えつつある家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。