おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

522_仏言葉ー056 ー 廃れないもの

第 4 章 これから先がどうなるか不安

56.教えは受け継がれる

いとも麗(うるわ)しい国王の乗り物も(いずれは)朽(く)ち
身体もまた老いる
しかし徳ある人が説く道理は廃(すた)れることなく
徳ある人はその道理を人々に説く。

(ダンマパダ) (一五一) (第11章 老い より)

この世に存在するすべてのものはいつか必ず朽ち果てるという諸行無常は、仏教の基本的な考え方の一つだそうだ。

ただし、ただ一つ朽ち果てないものがあり、それは人々の間に引き継がれていく良き人々の教えで、それが私達の生きるための良き道標になる、とお釈迦さんが説いた経文なんでしょうね。

これについては、すでに S さんのところで書いているので、それを以下に引用する(改変あり)。

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425_法悟28-26-1

第 4 週 人格の完成をめざす

5 真理に逆らわずに生きよう

豪華絢爛(ごうかけんらん)な王の車も朽(く)ちていく。
そのように人間の肉体も老い枯(か)れていく。
しかし、聖者によって語られた真理が老いることはない。
平安に達した人々はその真理を語る。

(一五一) (第11章 老い より)

適当に。

まずは、その前に。

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )の訳した上記の経文の 3 つ目で、「真理が老いる」というのは、あまり当てはまるような感じがしないし、「老いる」ことを絶対真理のようにお書きになっている割には、何となく感じのよろしくない表現(よくなくなる、劣化することを老いるとしていると感じる。絶対真理ならば、老いる現象にもそれなりの敬意を払い、劣化という意味合いに使うのはふさわしくない気がした。あくまでも個人的な勝手な感想だけど)のような感じがしたので、別の訳もあげておきます。

いとも麗(うるわ)しい国王の乗り物も(いずれは)朽(く)ち
身体もまた老いる。
しかし徳ある人が説く道理はすたれることなく
徳ある人はその道理を人々に説く。

(一五一) (第11章 老い より)

はじめに、S さんの訳を見た時に、これは日本語では、すたれるではないか、と思って、法句経(ダンマパダ)を構成する章の内容を書く時に参考にした本(ダンマパダ ブッダの真理の言葉 今枝由郎訳 トランスビュー)を見たら、やはり「すたれる」となっていたのでこちらを参照してみました。

では。

その昔、北インドを二分する大国があった。その名をコーサラ国と言った。国王のパセーナディ王は、熱心なブッダ(お釈迦さんのこと)の在家信者として知られていた。彼の最愛の后(きさき)マッリカー夫人もまた、熱心な仏教徒であった。

マッリカー夫人は、パセーナディ王に先立って亡くなってしまい、王は悲しみにくれていた。一週間が過ぎ、彼はブッダを宮殿に招き、夫人の供養をすることにした。彼はブッダを王宮の中に招き入れようとしたが、ブッダは王車が保管してある駐車場に向かう。

王車は、当時の最高権力者の乗り物で、特注品、特別に豪華絢爛で頑丈な作りになっていた。その駐車場には、歴代の国王の王車がズラリと並んで置いてある。

王は、ブッダ一行の席を設けて、食事の準備をした。そして、最高の后を亡くした悲しみを切々と語った。

すると、ブッダは王車を指差し、「この車は誰のものですか」と尋ねた。これに対して国王は、「これは自分の父王の車です。こちらは祖父王の、あちらは曾祖父王の・・・」と答えていった。王車は、どれも傷(いた)みが激しく、とても使える状態ではなかった。しかし、これらは、歴代の国王の大切な持ち物。無下(むげ)には壊す訳にはいかないために、保管されていた。

ブッダが次々と尋ねて、最後に指差した王車の持ち主を「この車は誰のものですか」と尋ねると、王は「それは私の車ですよ」と答えた。

この冒頭の偈(げ。詩文。この経文のこと)は、ブッダがこれらのやり取りに続けて、パセーナディ王に対して、この世の真理を語ったもの、と注釈書には記(しる)されている。

王車は、最高の材料で作られ、金銀財宝で豪華な装飾が施されていた。しかし、持ち主の国王が亡くなってしまえば、その国王一代きりで、使えなくなる。

このように、私達は、家を建て、作品などを作ると、それが末永く持つように期待するものだ。一つの思考パターンとして、「壊れてしまわないように、ずうっと長持ちするように」という考えがあるからだ。

しかし、真理は人間の都合で変えることはできない。すべては壊れゆく。これは基本的な宇宙の法則である。

ブッダは他の経典の中で「この太陽さぇも壊れます、この地球もやがて壊れます、この宇宙もやがて壊れます」と宇宙の崩壊にまでも言及している。あらゆるものが、一切、とどまることなく壊れて変わっていくことこそが、宇宙の真理なのである。

私達はその真理に合わせて生きなければならないところを、逆の方向に努力する。偉大な宇宙の法則に逆らおうと挑んでいくのだ。しかし、その結果はうまくいかずに失敗してしまう。壁にぶつかり困難に見舞われる。そうして、確実に失望を味わう羽目になるのである。

人の心の中には「変わってほしくない」という論理、いや、論理でない、屁理屈や真理でない考え方、ウソの概念が住み着いている。生命にこの気持ちがある限り、幸福にはなれないし、否応なしに苦しみに出遭(あ)ってしまい、失望することになる。世の中がうつろい変化するに従って、ひどい悲しみを味わうことになってしまうのである。

人間には、悲しみ、苦しみ、悩み、失望が絶えないのは、当たり前の事実に逆らおうとしているからだ。

なぜに、そんな逆らおうと無謀なことをするのか。冷静になれば、無知だとわかる振る舞いであり、それは誰しもが頭ではわかっていると言う。

しかし、気持ちの面では、誰しも歳をとりたくないし、死にたくはないし、子供にも独立してほしくない、手元に置いておきたい・・・といったことを望むものなのである。

これらは、人生においてごく自然に起きてくることばかりだ。しかし、どんな変化も人に苦しみや悩みを与えずにはおかない。

しかし、真理の世界(?)には人間を苦しませてやろう、悩ませてやろう、とする気持ち(?)はまったく存在存在しないのだ。人間が勝手に苦しむだけなのである。

例えば、家が火事になったら、自然の法則に従って家屋は燃えていく。もちろん、炎には住人をとことん苦しませてやるぞ、という気持ちはない。単なる自然法則で燃えているだけで、悲しむのは人間の勝手である。

なぜ悲しむのか、と言えば、家が燃えてほしくない、壊れてほしくない、という思いがあるからだ。

しかし、何の力もない生命が、巨大な宇宙の法則に逆らおうとしても無駄だ(?)。これは成立しない。逆らおうとするその人自身が、法則の一部なのだから。

人間を一滴の海水に例えるなら、それが大海原に向かって反抗するようなものだ。こうした反抗は無意味そのものなのである。

私達はいい加減に目を覚ますべきだ。どんな人であれ、自らは特別な存在なのだ、と思わない方がいい。

自分だけは特別だという妄想は無知から生じてくるものだ。あらゆるものが、自分の希望通りにいくと思っている。この途方もない無知がすべての生命にとって大問題なのである。

そこで、ブッダは「すべては壊れていく。しかし壊れないものが一つある。真理だけは壊れない」と説いているのである。真理とは、ありのまま、そのままの事実だということだ。

ブッダの教えは、その法則を説明してあげることなのだ。

ブッダが発見した真理だけは事実だから、これは誰にも変えることはできないし、変わることもないし、古くなることもない。

しかし、真理以外のものはすべて古くなって老いて壊れていくのである。

ブッダといっても、かなり昔の人だ。現代から見れば、かなりの時間が経(た)っているし、教えさえも古いのではないか、と疑問に思う人がいるかもしれない。

しかし、ブッダは法則を発見したのだ。法則はどこかに存在する訳ではない。

例えば、地球が太陽の周りを回っているということは、一つの法則だ。地球がある限り、太陽の周りを回っているのである。この法則は古くならない。

これと同じように、ブッダの説いた教えは、いくら時代が変わっても揺るがない。人間の気持ちは毎日のように移り変わるが、真理はあくまでも真理であって、どんなに時代が変わろうとも絶対に変わらないのである。

なので、本当は真理に従って生きる方が楽なのである。逆らうことは無駄な努力だ。やってはならないことに精魂傾けているのは、極端な無知に支配されているのである。

ブッダは、これほどまでに無知ではない人々に向かって、「これが真理ですよ」と発見した法則を説いてきたのだ。そして、ブッダの教えに耳を傾け、その内容を理解した人々は、心の安穏(あんのん)と平和をたちまち手にすることができたのである。

こうした事実を客観的に見ていけば、私達は法則には逆らえないし、逆らおうとすること自体がバカらしくなる。

問題は法則に逆らおうとする気持ちだ。その気持ちが消えたなら、もう悟りの境地なのである。

しかし、頭では理解していても、気持ちは伴わない。消えない。「そうは言っても・・・」と、何とか言い訳をして法則に逆らおうとするのである。

真理に目覚めることは、すなわち、悟りだ。普通の人々は、わかってはいても、好きなものの変化を受け入れることができないのだ。

そこで、「渇愛」という問題が出てくる。わかりやすい言葉で言えば、愛着だ。なぜ、変化に逆らいたいのかといえば、愛着があるからだ。他のものは変わっても、これだけは変わってほしくないとすがるのだ。

例えば、他人の子供は病気などで亡くなっても、わが子だけは死んでほしくない、生きていてほしい、とする親心などがそうだ。

法則に逆らう人に対して、ただ、「愛着を捨てなさい」と言っても通じない。だから、ブッダは対話を通して、「すべてのものは変わるのだ。愛着に値しないのだ」と理解できるように、人々を教え導いたのである。

自ら事実を調べさせて、「どんなものも愛着に値しない」ことを納得させたのである。

パセーナディ王もまた、「歴代の王が永続を願って特注した王車も、今は何の役に立たない。人間の肉体もそうやって壊れていく。その事実は認めるしかない」と納得できたからこそ、深い悲しみから立ち直ることができたのだ。

とのこと。

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426_法悟28-26-2

第 4 週 人格の完成をめざす

5 真理に逆らわずに生きよう

(S さん訳)
豪華絢爛(ごうかけんらん)な王の車も朽(く)ちていく。
そのように人間の肉体も老い枯(か)れていく。
しかし、聖者によって語られた真理が老いることはない。
平安に達した人々はその真理を語る。

(一五一) (第11章 老い より)

(今枝さん訳)
いとも麗(うるわ)しい国王の乗り物も(いずれは)朽(く)ち
身体もまた老いる。
しかし徳ある人が説く道理はすたれることなく
徳ある人はその道理を人々に説く。

(一五一) (第11章 老い より)

気ままに書きます。

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )によると、この経文は、コーサラ国の国王、パセーナディ王が、亡くされた最愛の后マッリカー夫人を悼(いた)み、悲しみにくれている場面で、供養に訪れたブッダ(お釈迦さんのこと)が、移ろいゆくこの世の無常さを諭(さと)すかのように説いて聞かせた時の描写となっている。

これは、前に中村元さんの原始仏典のところに出てきた、尼僧(にそう)の告白のお話( 180_原仏11ー2 )とよく似ていますね。

お釈迦さんのお弟子さんの告白の女性版、キサー・ゴータミーさんのお話です。

再度、引用します。

彼女はサーヴァッティー市(舎衛城)の貧しい家に生まれ、痩(や)せていました。それで、名前が、キサーは痩せたという意味、ゴータミーはゴータマ姓の女性という意味、から、そのように呼ばれていたとされています。

彼女はわが子の遺体を抱いて、「ああ、私の子を失ってしまった。私の子を返して下さい。私の子に薬を下さい」と泣きながら町を歩き回っていた時に、釈迦に「いまだかつて死人を出したことのない家から芥子(けし)の粒をもらってきなさい」と言われます。

彼女は家々を回りましたが、どこに行っても、「死人を出したことのない家」などないことを知り、人生の無常に気づいて出家したとされています。

となっている。

やはり、ここでも、お釈迦さんは、頭ごなしに、概念的に諸行無常を説くのではなくて、キサー・ゴータミーさんの自身の身をもって、諸行無常を気づかせるように仕向け、自然に納得させるような形に導いています。

これらから感じられるのは、やはり、お釈迦さんの目からすると、普通の人は、まだまだ、人間=肉体人間であるとの肉体人間観が根強く抜けないことがよくわかっていて、他人様と自分とを同じように、何かコトが起こっても、わがコトのように感じることができない、自他一体感をなかなか抱くことができないことを踏まえた上で、できる限り自分自身の身をもってわからせるような形をとりながら、自他一体感を少しでも抱かせることによって、体感的にわからせていく。

納得するように仕向けていく。

そうしたやり方をしているように見えます。

中村さんや S さんは、世の中の理(ことわり)を悟るのは、お釈迦さんの説いた真理や智慧の賜物だ、とすることが多いように思いますが、どうなんでしょうかね?

これら2つ(パセーナディ王とキサー・ゴータミーさん)のケースでは、お釈迦さんが、ただ言葉を尽くすだけではなくて、この2人に対して、悲しいかな、この世では、こうした肉体人間の死は免れないものなのだよ、ということをできる限り身をもってわからせる、体感・体験させるように計らっているように感じるんですよ。

様々な艱難辛苦を乗り越え、魂が磨かれて、霊性が極度に開発されている人(悟りにかなり近いような人)なら、自他一体感も強く、概念的な話や理屈を聞いただけでも、パッとすぐに理解できるでしょうが、ある程度信仰深いものの、まだそこまでには至らない人の場合には、体感させることでわからせよう、としていると。

見聞だけの智慧だけではない、身をもってわからせること。

何故に、お釈迦さんがこのような諭(さと)す形をとったのか?

そう考えると、肉体人間観からくる、智慧の理解力の限界を踏まえた上で、身をもって体感・体験させることが必要だとご判断されたのではないですかね?

だから、しっかりと体感・体験させた。

そう思うんですけどね。

S さんは、渇愛や愛着を引き合いに出していましたが、一言で言えば、執着(仏教的に言えば、執著(しゅうじゃく))のことだと思います。

この世もかの世も、神様のみ心以外は、すべて諸行無常、万物流転。

変わらないものはない。

S さんによると、お釈迦さんは、真理だけは変わらないとしていたが、このことではないですかね。

個人的には、そんな気がします。

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追記: 2021/09/17 00:00 〜訂正内容〜

誤記を訂正しました。