第 5 章 やりたいことが見つからない
73.何事にも左右されない
貪ることなく、
詐(いつわ)ることなく、
渇望することなく、
(見せかけで)覆うことなく、
濁りと迷妄とを除き去り、
全世界において妄執のないものとなって、
犀(サイ)の角のようにただ独り歩め。
(スッタニパータ) (五六)
佐々木さんによると、これは自己中心的な間違った思いや欲望を捨てて、世の中を正しく見る洞察力を備えて、他のものに左右されることなく、サイの角のようにまっすぐ歩めという内容らしい。
サイの角は、アフリカのサイは角が 2 本だが、インドのサイの角は 1 本であるとのこと。
そのサイが林の中を角をぶらさずまっすぐに一人(一頭?)歩む時には、堂々としていることからくるたとえのようだ。
実は、スッタニパータの
第一 蛇の章 の
三、犀の角 には、
(三五) から (七五) までの経文があって、これらは末尾が、(四四) と (四五) 以外は、すべて、末尾が「~犀の角のようにただ独り歩め」という形になっている(改変あり)。
例えば、
あらゆる生き物に対して
暴力を加えることなく、
あらゆる生き物のいずれをも
悩ますことなく、
また子を欲するなかれ。(*1)
況(いわ)んや朋友をや。
犀の角のようにただ独り歩め。
(三五) (*1)子息と女子を含める。
交わりをしたならば愛情が生ずる。(*2)
愛情に従ってこの苦しみが起こる。
愛情から禍(わざわい)の生ずることを観察して、
犀の角のようにただ独り歩め。
(三六) (*2)交わりとは、
会うこと、
声を聞くこと、
身体で触れること、
おしゃべり、
享楽、
の 5 種類。
この解釈では握手もダメということになり、南アジアの比丘(びく。男性の出家修行僧)は決して握手をしない。
ただし、外人さんには握手をすることもあるそうだ。
朋友・親友に憐れみをかけ、
心がほだされると、
おのが利を失う。(*3)
親しみには、
この恐れのあることを観察して、
犀の角のようにただ独り歩め。
(三七) (*3)利とは、大切なこと。目的。
こんな感じです。
ちなみに、この形の締めくくりではない、 (四四)と (四五) も、ご参考までにあげておきます。
葉の落ちたコーヴィーラ樹のように、
在家者のしるしを棄(す)て去って、(*4)
在家の束縛を断ち切って、
健(たけ)き人はただ独り歩め。
(四四) (*4)在家者のしるしとは、
髪や髭(ひげ)を伸ばし、
白い衣服をまとい、
装飾品、花輪、芳香、塗料を用い、
妻子、奴婢(ぬひ)のあること。
なお、奴婢は、(古代の賤民。男性を奴(やつこ),女性を婢(めやつこ)と称する。
中村さんによると、この経文は、大体、仲間から離れて独りで暮らすことをたたえているものだそうだ。
これはインド人の伝統的な考えとも関係があり、インド人は、内向的性格があり、独りを楽しむ傾向があるとのこと。
もしも汝(なんじ)が、
賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を
得たならば、(*5)
あらゆる危難に打ち勝ち、
心喜び、
気を落ち着かせて、
彼とともに歩め。
(四五) (*5)同伴者は、ダンマパダ (三二九) 参照とある。
思慮深く、聡明な人を
道連れにできないならば
国を捨てた国王のように
林の中の象のように、独り歩め。
(ダンマパダ)
(三二九) (第23章 象にちなんで より)
なお、協同し、とは高い目的のために協力すること。
高い目的とは、おそらく修行かこれに近い修養のことでしょうね。