おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

546_仏言葉ー079 ー 清らかな心身を求める

第 5 章 やりたいことが見つからない

79.人生の目的

私(わたくし)には信念があり、
努力があり、
また智慧がある。
このように専心している私に、
汝はどうして生命を保つことを
尋ねるのか?

私はこのように安住し、
最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心は諸々の欲望に
ひかれることがない。
見よ、心身の清らかなことを。

(スッタニパータ) (四三二・四三五)

佐々木さんによると、これらは、悪魔が、厳しい修行に努めていると命を縮めるから、もっと楽にして長生きしなさい、と言ったことに対する、お釈迦さんの答えなのだそうだ。

つまり、

自分は長生きを目的としておらず、心身の最高の安らぎを目指している。
そのための信念や知恵を身につけ最大の努力をしているので、長生きをしたいという欲望にはひかれない。
このような清らかな私の心身こそが、私の生きる意義・目的なのだ。

ということ。

以上の経文 2 つは、一つのまとまりからの部分的な抜粋なので、以下に全容を示そう。

スッタニパータ
第三 大いなる章
二、つとめはげむこと より(改変あり)

なお、中村さんの注釈によると、この「つとめはげむこと」は、主として精神的な努力精励(せいれい。学問や仕事などに熱心に励み努めること)を指す。
ここに描かれているのは、諸伝説と対照すると成道(じょうどう。成仏得道(じょうぶつとくどう)の略)悟りを開き仏陀(ブッダ)(覚者)になること。悟道。)以前のブッダが悪魔と戦ったことをいうのだそうだ。

ネーランジャラー河のほとりにあって、
安穏を得るために、
努め励み専心し、
努力して瞑想していた私(わたくし)に、
(四二五)

(悪魔)ナムチは
労(いたわ)りの言葉を
発しつつ近づいてきて、
言った、
「あなたは痩せていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。
(四二六) (*1)

あなたが死なないで
生きられる見込みは、
千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きた方がよい。
命があってこそ
諸々の善行を
なすこともできるのだ。
(四二七) (*2)

あなたが、
ヴェーダ学生としての
清らかな行いをなし、
聖火に供物(そなえもの)を捧げてこそ、
多くの功徳を積むことができる。
(苦行に)努め励んだところで、
何になろうか。
(四二八) (*3)

努め励む道は、
行き難く、
行い難く、
達し難い。」
この詩を唱えて、
悪魔は目覚めた人(ブッダ)の側に立っていた。
(四二九)

かの悪魔がこのように語った時に、
尊師(ブッダ)は次のように告げた。ー
「怠け者の親族よ、
悪しき者よ。
汝は(世間の)善業を求めて
ここに来たのだが、
(四三〇)

私(わたくし)にはその(世間の)善業を
求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を
求める人々にこそ語るがよい。
(四三一)

私には信念があり、
努力があり、
また智慧がある。
このように専心している私に、
汝はどうして生命(いのち)を
保つことを尋ねるのか?
(四三二) (*4)

(励みから起こる)この嵐は、
河水の流れをも
涸(か)らすであろう。
ひたすら専心している
わが身の血が
どうして涸渇しないであろうか。
(四三三) (*5)

(身体の)血が涸れたならば、
胆汁も痰も涸れるであろう。
肉が落ちると、
心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧
統一した心とは
ますます安立するに至る。
(四三四) (*6)

私はこのように安住し、
最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心は諸々の欲望に
ひかれることがない。
見よ、心身の清らかなことを。
(四三五) (*7)

汝の
第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
(四三六)

汝の
第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の
第七の軍隊は疑惑であり、
第八の軍隊は見せかけと強情と、
(四三七) (*8)

誤って得られた
利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己を誉めたたえて
他人を軽蔑することである。
(四三八) (*9)

ナムチよ、
これらは汝の軍隊である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、
彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。
(四三九) (*10)

以下略。

以上で、最上段にある2つの経文、
(四三二) と (四三五) が、
二、つとめはげむこと
の中に含まれていることがおわかりになると思う。

(四三六) 以下は、内容の区別を示すために引用した。

~~~~~

(*1)ナムチは、ヴェーダ聖典並びに叙情詩マハーバーラタにおけるある悪魔の名で、インドラ神(仏教でいう帝釈天)と戦って征服されたものをいい、その名がここに取り入れられている。
原始仏教聖典では一般的には魔と呼ばれている。
労りの、とはあわれみの、という意味。
なお、悪魔がナムチの名で出ているのは、この一連の詩句がヴェーダの神話に結びついていて、他の多くの仏典よりも古いことを示している。

(*2)修行者にとっては善行とは、すなわち功徳を積むことなので、「諸々の善行をなすこともできるのだ」は「諸々の功徳を積むこともできるのだ」とも訳せるそうだ。

(*3)あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし・・・は、独身の学生として師匠の下でヴェーダ聖典を学ぶ第一の時期と、家に帰ってから結婚して家長となり祭祀を司る第二の時期に言及している。
いずれもバラモン教の律法書に規定されており、それを守ることを悪魔が勧めている場面。
供物は、火を燃やして、その中に牛乳、油、粥などを注いで火神を祭ること。

(*4)信念は、狂信的な信仰ではなく、道理を信じること。

(*5)この嵐は、苦行による激しい呼吸。
専心しているとは、努めて自己を専注(字引載っておらず)すること。

(*6)心はますます澄んで、の心が澄むというのは、仏教においては信仰の特質とされる。
(四三二)で信念(信仰)に言及したので、それを受けてのもの。

(*7)最大の苦痛は、苦行をしているのでこのように言っている。
諸々の欲望にひかれることがないは、諸々の欲望を顧みることがない、諸々の欲望に依存することがないという意味。
見よ、心身の清らかなことをは、ウパニシャッドの以下の思想を受けたもの。
「食物が清浄なる時に、本性(心身)の清浄かある。
本性の清浄なる時に、記憶(念(おも)い)が堅固である。
(堅固な)記憶を得た時に、一切の束縛から解放される」
そうして、苦行(食物を制することを含む)の結果として
「念(おも)いが確立する」
と説いている。
他のウパニシャッドでも同様。
このように、「心身の清らかなこと」の表現はバラモン教と共通。
なお、大罪を犯した人が、心を統一して托鉢の食物を摂するならば、悪から浄められるという思想は、マヌ法典にも出ている。
なお、ウパニシャッドとは、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物のこと。一般には奥義書と訳される。
また、マヌ法典は、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典。
世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。
バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の四種姓の維持に貢献した。

(*8)見せかけは、偽善に通じるものをいう。
強情は、頑迷のこと。
頑迷とは、頑固で物事の道理がわからないこと。また、そのさま。

(*9)「自己を誉めたたえて他人を軽蔑すること」が悪徳として挙げてあるが、それを受ける形で、後代の仏教では「不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)」が成立する。
自分自身を誉めたたえ、他人を謗(そし)り貶(けな)すことを禁じた戒。
これを誰かに教えて、させることも禁止。不自讃毀他戒ともいう。
十重禁戒の第七番目の戒であり、菩薩の波羅夷(はらい)罪。
ああ、難しい・・・。

(*10)黒き魔とは、悪魔ナムチのこと。