03 伝説が語る「真実」
・誕生偈の意味
ひろさんは、話を先にすすめたいが、もう 1 つコメントを加えておくべきことがあるとする(以下、すべて意訳・改変・省略あり)。
ひろさんは、伝記は伝記だが、文献学者のようにこれを無視して(=つまり、創作として扱い、事実扱いをしないという意味合いだろう)は、お釈迦さんの存在が無味乾燥になるとして、この誕生偈の意味を(それなりに有意に)解明すべきだ、としている。
ひろさんによると。
天上天下唯我独尊(あめがうえ、あめがした、われにまされる聖者なし)。
いわゆる、誕生偈(お釈迦さんの生誕を描写した経文のこと)である。
この天上天下唯我独尊は、「お山の大将、俺一人」とするのは大間違いで、そんな安っぽいものではない、という。
そして、お釈迦さんは、人間であって人間ではなく、宇宙から、真理から来るところの聖者であり、如来であることを宣言したものである、とする。
やがて、彼は悟りを開いて仏陀となり、人々に真理としての「法」を説いたのだが、これを予言しているのが、この天上天下唯我独尊の誕生偈に他ならない、としている。
さらに、ひろさんは、真理にも様々な次元があるとして、いろいろと書いているが、乱暴にまとめる。
要は、今まで数々の宗教家や哲学者などが、それぞれに唱えてきた真理などというものは、
所詮は、人間の理性を超えることのできない真理や善や正義なのであり、
そのような真理や善や正義は哲学者などの数ほどに存在する、あくまでも、相対的なレベルのものにしか過ぎない。
ここで、ひろさんは、形而上学的に(あえてこう呼ぶ)、人間の理性を超えた宇宙的な真理や善や正義があると、突然のように天から降って来たように持ち出してくる。
すなわち、人間の理性を超えたものは、人間には明らかにすることは不可能だとする。
しかし、これに対して、お釈迦さんの説く宇宙的な真理や善や正義は、あくまでも宇宙的な真理にもとづいて啓示されたものだとする。
だから、あまたの宗教家や哲学者とは、絶対の一線を画する、別格の宇宙の真理=如から来た如来なのだ、と勝手に決めつけている。
従って。
お釈迦さんの教える真理は、小乗仏教のお釈迦さんが教える真理、すなわち、ソクラテスや孔子や孟子によって説かれたものと同レベルにしか過ぎない、教える者の数だけ真理がある、ワン・オブ・ゼム(多数の中の一つ)ではなく、特別な真理だとする。
我々は、あの誕生偈をそのような宣言だと理解しよう、お釈迦さんは宇宙から真理を伝道するためにこの地球に来て人間となった如来であり、その説く教えは宇宙の真理を啓示する、従来の、あるいは、これからの宗教や哲学とは、まったく違ったものだ、と。
といったように、ひろさんは強引に結論づけている。
要するに、ひろさんは、以下のように言いたいのだろう。
お釈迦さんの誕生偈は、「俺様だけが地球上で最も偉大なる、たった一人の聖者だ」と尊大になっている(*)といった、
大宇宙の中でのたった一つの地球というちっぽけな惑星の中での、
俺様こそが一番偉い人間だ、
というような、
矮小なスケールの話ではない。
そんなチマチマした(?)ことを宣言しているものとは違うのだ。
そもそも、
その大宇宙という、
とてつもなく大きなスケールの真理から派遣された、
お釈迦さんという人間となった仏陀を通して教える、
高邁な理想と真理をあらわしているものなのだ。
だから、
そうしたお釈迦さんという仏陀の教えは、
地球という一惑星における教えにとどまらず、
大宇宙の真理に通じる教えであり、
これこそが仏教に他ならないのだ。
従って、
その他の思想家や哲学者、
すなわち、
ソクラテスや孔子や孟子などが、
この地球という一惑星の上で説いた、
スケールの小さいちっぽけな哲学などの教えとは、
根本的に異なるのだ。
質が違うのだ
格が違うのだ。
よって、お釈迦さんを、大乗仏教を、他の哲学や宗教とは別格の特別なものと看做(みな)せ、
いや、
世界中のあらゆる人々がそのように看做さなければならないのだ、
と。
~~~~~
(*)私は、この誕生偈を素直に読むと、いまだにあまりいい感じはしない。
どうしてもこれを是とするであろう人(つまり、仏教の熱心な信奉者や、仮にこれが創作であるとすれば創作者)の思い上がりや傲慢さが感じられてしまう。
それに、仮にこれが事実であったとしたら、むしろ、お釈迦さんはそのことを伏せて、お弟子さん達にも口外しないように箝口令(かんこうれい)を敷くのではないか?
お釈迦さんが奇跡のこれ見よがしの乱用を是(ぜ)としなかったところから考えるならば。
人間の人格の向上、霊性の向上に何一つかかわりのない、しかも、逆に他宗などの周りから反感を買うようなこのような誕生秘話(?)をことさらに見せつける。
誇示する。
お釈迦さんは、そんなことを是とする人なのだろうか?
私にはそうは思えないのだが。
青年になって悟りを開いてある程度実績を積んだ、信用をそれなりに得ている宗教家が言うのならまだしも、実績がない、いや、それどころか、生まれたての乳幼児が、しっかりと歩み、しかも天地をそれぞれに指さして、こんなことを宣言するなど、荒唐無稽も甚だしいとしか思えないのだ。
私は日本人なので、インドの人達の感覚やセンスはまったくわからないが、インドの人達は、こうした類いの話に感動する思考回路を持ち合わせているんですかね?
お釈迦さんという人は、悟りを開いてからその生涯を閉じるまでの 45 年間もの長きにわたり、人々のためにその人生を捧げ尽くした。
これこそが、何物にも代えがたい、偉大さだと思う。
悟りを開けない、私達一般的な肉体人間は、自分の肉体にまつわる利益ばかりを主に考えて生きている。
なかなか、他人のために尽くして生ききることはできないのだ。
以前、テレビで瀬戸内寂聴さんが、彼女を慕う人が次へと押し掛けて来て、相談に乗っているのを見たことがあるが、ほんのわずかではあるが、瀬戸内さんがかなり辛そうに疲れたように見えた場面があった。
悩みを抱えた人達は、自分の悩みを何とか解決したい、話を聞いてもらいたいと、次から次へと、限りなく押し寄せてくるらしいのだ。
五井先生も一時期は、確か 1 日 300 人以上の人の面談に応じていたらしい。
このように、信頼される人は、助けてくれ、救ってくれ、となるので、頼られる人は、大変みたいなんですよ。
人のために、自分を空(むな)しくして、誠意を持って尽くす。
自分のことばかりを考え、他人を何かにつけて裁いてばかりいがちな一般的な私達にとって、
わが身とその近しい者の唯物論的な利益の最大化をはかることばかりを考える一般的な私達にとって、
人のために生ききる、人のために尽くすことは、いかに得難いことであるか、大変なことであるか。
それを考えた時に、お釈迦さんのように、悟りを開いた後の人生を、人のために捧げ尽くしたり、
玄奘三蔵さんのように命がけで国を脱出して、経典の獲得と翻訳に、やはり、30 年以上も自らの人生を捧げ尽くすことは、
絶対に近いほどにできることじゃない。
私は、大宇宙の権威だ何だ、という無理筋な話を持ち出すよりも、このような行いの方が、霊性の開発がまだまだな私達にとっては、はるかに身近で説得力を持つと思うのですよ。
だから、いつも浄土門の妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんのことを持ち出すんです。
この世を生きる肉体人間としては、その想いと行いこそが、大事なことだと思われるから。
しかも、その想いと行いこそが、輪廻転生を通して私達肉体人間の人生に重要な意味を持つものだから。
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・尊大~そんだい~傲慢で横柄なこと。また、そのさま。
(用例)尊大な態度。尊大にかまえる。
・矮小~わいしょう~①たけが低くて小さいこと。また、そのさま。
(用例)矮小な体躯(たいく)。
②こぢんまりとして規模の小さいこと。また、そのさま。
(用例)問題を矮小化する。
ここでは、②の意。
・高邁~こうまい~心がすぐれて気高いこと。また、そのさま。
(用例)高邁な精神。
・箝口~かんこう~口をふさいでものを言わないこと。また、人にものを言わせないこと。発言を封じること。
・箝口令~かんこうれい~ある事柄について他人に話すことを禁じる命令。
(用例)箝口令を敷く。
・是~ぜ~道理に合ったこと。一般に良いと認められること。
(用法)「ぜひ」と同じ意味であるが、それをさらに強く言い表す語。あとに、願望・命令・決意の表現を伴う。
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①追記: 2021/11/29 04:35
②追記: 2021/11/29 12:55
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。