03 伝説が語る「真実」
以下は、ちょっと雑談のようになってしまうのだが、この章( 03 伝説が語る「真実」 )の全般、すなわち、 はじめの稿( 603_ひしみー025 )から、前回( 608_ひしみー030 )までについて気になったことをいくつか書きたい(ひろさんのお考えの勝手な意訳あり)。
1.お釈迦さんの特別扱いについて
これまで再三触れてきたように、ひろさんはお釈迦さんを、目に見えるものもの、目に見えないものをも含めて、ありとあらゆる人間の頭脳で想像できる宇宙という絶対真理から、この地球に派遣された命の結晶がお釈迦さんの元の魂として、輪廻転生を繰り返して、最終的にあらゆる五感で認識できる肉体にまつわる真善美に悖る想いと行いの業想念を滅却して涅槃の境地に至り、阿羅漢、それも並みいる普通のお釈迦さんのお弟子さんや他宗の仏陀とは異なる、唯一無二の特別な仏陀として、地球上にだけしか通用しないようなちっぽけな、誤りを必ず含むような哲学や宗教とは隔絶した、教え=大乗仏教の教えを説く仏陀(以下、仮に特別仏陀とする)として扱う。
しかし、私には何のためにこのような差別化をしなければならないのかが、どうしても理解できない。
ひろさんは、お釈迦さんをこのように特別仏陀としなければ、お釈迦さんの教えは、ソクラテスや孔子のような、地球限定の一般的な教えに堕(だ)すると言い、これまで地球上で説かれた宗教や哲学の思想の数ある中での平凡なものに堕すると言い、誤りさえも含む可能性すらあると言う。
つまり、数ある思想の中から頭一つ(もっと?)抜け出すことはできないだけでなく、誤謬(誤り)も含み、信じることができなくなってしまうかのように、決めつけている。
私には、ひろさんの本の理解力や読解力が足りていないのかもしれないが、これを裏読みしてしまう。
ひろさんの、このような理屈の展開の仕方がどうにもこうにもわからないだけに、この決めつけの姿勢がやけに頑(かたく)なに見えるせいで、言葉が悪くて申し訳ないが、何の不安感のようなものに駆られて、ひろさんはこのような形而上学的な決めつけを盛んに持ってこようとしているのではないか、と。
これは、やはり、大乗仏教が唯物論で考えれば、奇妙奇天烈で荒唐無稽な内容を含むことに合わせて、お釈迦さんを特別仏陀にして辻褄を合わせるというよりも、何か別の事情があるように思えてならないのだ。
簡単に言ってしまえば、大乗仏教への確信が持てていないのではないか、ということ。
なぜならば、これまでのひろさんのお話を読んでいる限り、ひろさんのお考えはほぼ唯物論だ。端的に言うと、唯物論の思考で大乗仏教を考えている。
だから、大乗仏教の経典の内容を部分的に奇妙奇天烈と言い、荒唐無稽とも言っている。
少なくとも、五井先生のように、霊性を肯定する独自の立場から、普通の唯物論では到底理解できない法華経の内容を、きちんと解釈するような説明の仕方はされていない。
だから、法華経は、いや大乗仏教一般は、唯物論では理解できない部分が多々あるけれども、大宇宙から派遣された地球人とは隔絶された高位の宇宙人のお釈迦さんが説く教えならば、ぶっ飛んだ内容だろうと、構わないのかもしれない(?)。
いや、内容にぶっ飛んんだ部分があるのは、むしろ、当然だ。
しかし、こんな理屈の展開ではあまりに説得力が足りないとしか思えない。
例えば。
急に高貴な(?)宇宙人が、
私は、迷いに迷い、争いばかりして、周りの地球環境を壊しまくっている人類の皆さんを見るに見かねて救いに来ました。
今から、教えを示しますから、漏らさず習得して、地球の平和と安穏を確立して、環境も復元して保護して、あとは皆さんで人類として立派にやって行きなさい。
と、何らかの教えを授けたとする。
地球人として、こうして突如としてあらわれた宇宙人を簡単に信用できますかね?
そんな信用保証が一体どこにあるの?
どうやってその証明するの?
こうした宇宙人ならば、地球人を驚愕させるような奇跡の一つや二つ、お手のもとして、すぐにでもあらわすことができるでしょう。
全長数百メートルの UFO の大編隊だって、簡単に地球上空にあらわせるかもしれない。
だからといって、簡単にこの宇宙人を信用できますか?
万が一、神様になり損ねている堕天使(?)のような中途半端な存在だったら大変なことになりますよ。
地球人も、地球も弄ばれて、それこそ、めちゃくちゃ(?)にされてしまうかもしれない(?)。
大乗仏教の教えもお釈迦さんも、何となく偉そうに見える(?)から、まあいいや、と簡単に信じる、しかも、絶対仏陀なら、信じきり任せることにまでなるのですよ。
これは、ちょっと軽い態度なのではありませんか。
何が言いたいのかと言うと。
特別な権威を与えた教条主義の教えは、頭がひっくり返ったら、前提が壊れたら、すべてひっくり返る、無に帰する危険があるということです。
大乗仏教を、信用しきらないからこそ、唯物論で解釈して、奇妙奇天烈だの、荒唐無稽だの、言っているのではありませんか。
五井先生のように解釈して、霊的にそれなりの意味合いを見いだしているのならばともかく、そうではない、奇妙奇天烈だの、荒唐無稽だの、言っているそばから、こんなに無条件に宇宙の真理やこれから派遣されたお釈迦さんに絶対の権威を与えるのは、矛盾しているし、危険なのではありませんか。
こうした矛盾や危惧(ひろさんはまったく書いていないけど)があるはずなのに、これを無視をしてでも、強引にお釈迦さんを宇宙仏として、その教えに絶対の権威を与える。
大乗仏教に対する全幅の信頼を置いていないから、とにかく、これで他のすべての地球上で出た哲学や宗教の思想をなぎ倒して(?)、これで決めてしまいたい。
そんな気持ちがなきにしもあらずではないか、と勝手に考えています。
2.信用はどうして勝ち取るか
大乗仏教が興されてから、もう2000年近くの歴史がある訳ですよね。
それなのに、お釈迦さんの故郷のインドでは、仏教は他宗に掃討され、今はほとんどないし、相変わらず宗派は別れたままで、収斂(しゅうれん)してまとまった世界的な流れになる兆候もまったく見られないように思います。
むしろ、様々な戦争に利用されたような他宗などの方が多数なのではありませんか。
ひろさんが、今、お釈迦さんを絶対仏陀のようにとらえて、その教えも絶対宇宙直々の特別な教えだ、としていますが、少なくとも、大乗仏教の経典の作者さん達は、ひろさんとは違って唯物論者ではなかったですよね。
だからこそ、ああした唯物論では理解が及ばない経典をたくさん作った。
そうした宇宙直々の真理を説くお釈迦さんの教えがありながら、どうして仏教はこのようにまとまらずに、広まらないままでいるのですか。
仏教徒の努力が足りないから?
大乗仏教を宇宙直々の特別な教えだ、もう少し、実効があってもよさそうに思うんですけどね。
小乗仏教は、ごく少数の超難関に耐えることのできるエリートに向けた教えであり、誰しもが必死に修行すれば悟れる可能性はある(実質はそれまでの過去世の因縁因果次第)ものの、もはや、現代人にはほぼ実行不可能で、その生活にもそぐわないものとなっている。
従って、仏教を信奉したければ、どうしても大乗仏教にならざるを得ない(上座部仏教も現代人には実践がほぼ不可能)が、これも様々な戒律や制約があり、一筋縄にはいかない。
そんな大乗仏教を広める、あるいは信じるために、大事なことは果たして何になるんでしょうか。
大乗仏教の経典を奇妙奇天烈だ、荒唐無稽だとしながら、その霊的な理解をおざなりにしたままで、どうせ史実もほとんど伝説だからと、唯物論的に都合のいい部分だけをかいつまんで、真理として見ていく。
これで、本当に仏教を、大乗仏教を、宇宙の真理を元にした教え、宇宙仏のお釈迦さんが説いた教えとしても、果たしていいものなのでしょうか。
仏教経典の内容も非科学的で唯物論では理解できない、伝記はほとんど伝説で信用が置けないとなった時に、では、一体、どうやって信用を獲得していったらいいのか。
やはり、どんなに地味でも、少しずつコツコツと信用を勝ち得ていくようなやり方、地道なやり方で実績をあげて、人々を感化していくしかやりようがないと思いますよ。
因縁因果を好転させていくには、地道な祈りと因縁の解消を待つしかない、と思いますよ。
キツイことを言うが、仏教を信奉している人々は考えが甘いところがあると思うよ。
例えば、何か悩みごとや苦しみがある時に、仏教徒なら、お釈迦さんの智慧(以下、知恵とする)を授かれば、教えを知れば救われる、あるいは、縁起という輪廻転生を通した因縁因果の関係性を理解すれば、救われるというのたまうことが、多いでしょう。
しかし、それはその教えや考え方を知って、その苦しみという因縁が解消する人だけに当てはまる現象にしか過ぎません。
少なくとも、私に言わせれば、大乗仏教は万能ではない。
私は病気その他で、ごく一般的にはあまり経験しないであろう苦しみにあえいできた。
今は五井先生の本でその教えに出会い、輪廻転生を通した因縁因果のことなどを、形式的にしろ何とか理解しはいるものの、根本的には苦しみがなくならないと辛くて苦しくて仕方がないのですよ。
その苦しみは、現世(今生)では身に覚えのない過去世に起因する訳ですが、これがわからないから、教えてもらえないから、苦しくて仕方がない。
お前さんは、過去世でかくかくしかじかのことがあったから、今はこうなっているんだよ、と教えてもらえればまだ救われるかもしれないのに、ただただ、耐えるしかないんですよ。
死ねば救われるかもしれないが、もちろん、悟りを開けないごく普通の肉体人間だから死にたくありません。
生きたまま、できれば今すぐにでも、この苦しみから解放されたい、そして苦しみで失われてきた年月をさかのぼって、やり直したいとさえ思っているのですよ。
そんなことは、できっこないことはわかっていても。
せめて、今の苦しみの原因、つまり、過去世の因縁がどのようなものであるかわからないと、苦しくて仕方がない。辛くて仕方がない。
そんな私にとって、お釈迦さんの知恵に触れたから、縁起だからと聞かされても、まるで説得力などないんですよ。
全然、説得力がない。
ふざけるなとさえ言いたい。
むしろ、そんな知恵や縁起を説得力があるものと思い込んで振りかざす、仏教徒がいるとしたら、なんて傲慢な態度だ、とすら思う。
甘いな。
苦しんでいる、理屈や理論で納得できないでいる人間にとって、こんなことで、苦しみから逃れることができる、対処できると思ったら、大間違いだよ。
上記のようにそれなりの因縁がない限り、教えという理屈や理論なんかでは簡単には救われないんだ。
果たすべき因縁で苦しんでいる者にとって、こんなことでは救いにはならない。
あとは、せいぜい苦しみを理解して寄り添って話を聞いてくれる人がいたりすれば、ほんの少しの苦しみのお裾分け(?)をして、他人に苦しみを引き受けてもらって、気持ちを楽にするくらいしかない。
しかし、他人に重荷を背負わせたくない、自分だけで落とし前をつけなければならないのが、この世の、そして、あの世の、おそらく、あらゆる世界の基本だ。
だから、耐えなければならないんだよ。
そんな時に、少なくとも私には、お釈迦さんの知恵や縁起だけでは、到底、救いにはならない。苦しみや辛さはまったく変わらない。心はまったく晴れない。
どころか、こんなものを振りかざす人がいれば、なんて傲慢なんだ、と思ってしまうのだよ。
従って。
私は、ひろさんの言うように、お釈迦さんを宇宙仏として、絶対の権威を与えても、何の意味も感じないし、美辞麗句で飾られた伝説にも、今のところ、まったく心動かされない。
むしろ、白々しくさえ感じる。
私には、地道で派手さはまったくなくても、ひたすら素直に信仰して、自らの悪い因縁でさえも、感謝を持って受け入れている妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんの方が、はるかに親しみやすいし、偉いとさえ思う。
自分は、おそらく、いくら輪廻転生を繰り返したところで、あんな境地には達することはできないとさえ思うよ。
ひたすら祈りで、神様(仏様)におすがりしながら、それだけではなくて、自分にとって都合の良いことも悪いことも、すべては神様(仏様)のおはからいとして感謝できる。
感謝一念の生活を送っている。
これはなかなか、というか、滅多にできることではないんですよ。
だから、私には、あのような教条主義的なやり方は、どうしても共感を持つことはできません。
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①追記: 2021/12/01 12:03
②追記: 2021/12/01 21:51
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。