04 シッダールタ太子の問題意識
・シッダールタ太子の問題意識
ひろさんは、また伝説と事実について何のかんのと、グチャグチャと書いているから、あまり気が進まないのだが、とりあえず、続ける(改変などあり)。
シッダールタ太子は、虫→小鳥→猛禽類の補食の自然界のあり方をおぞましいと見た。そのことは間違いない。
いや、これは伝説なのだから、本当にこの出来事があったのか、いや、多分、なかっただろう。
そうすると、私(←ひろさんのこと)が今、「そのことは間違いない」と書いたのはウソになってしまう。
しかし、そこまで話を戻すなら、私達は釈迦について何も語れなくなる。私達は伝記を材料に真実を読み取ろうとしているのだから、伝説の信憑性はここでは問わない。
実は、私(←ひろさんのこと)は、シッダールタ太子がこの農耕祭の日に見た補食により抱いた「問題意識」が彼の出家の動機になったと思っている。
12 才の少年がその日に感じた、この世界のうちにある「おぞましさ」。彼はそれを解決するために、やがて 29 才になって出家した。私(←ひろさんのこと)はそう考えたいのである。
しかし、これもその出家についての話で触れるが、彼の出家には本当にそうした問題意識を抱いてのものかどうか、多分、違うだろう。
シッダールタ太子の出家は、ひょっとしたら、女房が嫌でプイと家を出た蒸発亭主だったのかもしれない。
私達は、シッダールタ太子が仏陀になった結果から、仏陀となるために出家したと考えてしまうが、これは結果論だ。
そんなことを言えば、ある人は離婚するために結婚したことになり、ニュートンは万有引力の法則を発見するためにリンゴの果実が落ちるのを眺(なが)めたことになる。
しかし、それは後で考えよう。
私達は釈迦が人間であって人間ではない存在、つまり、宇宙仏のメッセージを伝えるために来現された仏陀・如来と考えているのだから、釈迦の出家の動機は人間的である必要はない。しっかりとした問題意識を持った上での出家だったと受け取るべきだ。
では、その問題意識とは何だったのか?
そんなこと私達にわかるはずがない。
いや、そう言ってはいけない。わかるはずがないのは、釈迦を人間扱いするからであって、釈迦が仏陀であったことを考えるなら、その出家の動機は一目瞭然である。
すなわち、釈迦が教えた真理 ー それが実は仏教であるのだ ー が、彼の抱いた問題意識への解答である。
だから、釈迦が教えた教理体系そのものが解答になるような形で、私達はシッダールタ太子が抱いた疑いを整理すればいいのである。
これはまさに一種の結果論ですよね(ひろさんの原文のまま)。
というより、答えを先に出しておいて問題をつくるのである。それは、学者や評論家がよく使う手法で、なかなかうまく、ズルいやり方である。
しかし、この場合は、そのやり方が最も有効である。
なぜなら、釈迦は私達に仏教を教えてくれた。その仏教は、いつの時代、いかなる国にあっても、人間が直面するあらゆる問題に究極的な解決を与えてくれるものである。そうであるはずだ。また、そうでなければならない。
私達が生きている現代の日本社会が、弱肉強食の原理によって激烈なる競争社会になっており、そのために大勢の庶民がヘトヘトになるまでの競争に駆り立てられて不幸な人生を送らされてしまっている。
ならば、この問題について、釈迦は何らかの答えを与えていてくれているはずである。私(←ひろさんのこと)は、このような角度から仏教にアプローチしたいのである。
だからこそ(?)、小鳥が虫を食い、その小鳥を猛禽類が食う、こうした弱肉強食の自然界のあり方に、シッダールタ太子は疑いを持ったのだ。
そして、この問題に、やがて彼は仏陀となり解答を与えた。その解答こそが、釈迦の仏教であった。
私(←ひろさんのこと)は、そのように見たいのである。
とすると、シッダールタ太子は、一体、どのような疑いを持ったか、私達はそれを仏教の立場から考えればいいことになる。
これで、少しは論点が明らかになった。
とのこと。