おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

650_ひしみー071

07 禅定と苦行、そして中道

・沙門ガウタマはなぜ苦行をしたのか

話に入る前に、苦行について。

字引(国語辞典)を引くと。

苦行~くぎょう~①(仏教語)苦しい修行。
(用例)断食の苦行。
②苦しくつらい行い。
(用例)難行苦行
ここでは、①の意。

になるのだが、ひろさんは、仏教における(というか宗教一般の)苦行を次のようにお考えのようだ。

そもそも、人間の精神というものは、肉体という牢獄(ろうごく)に閉じ込められているものなので、その殻(から)を破って精神を解放して自由にするのが、苦行の目的だ。

そのためには、人間の欲望を抑制することが必要となる。性欲なら禁欲、饒舌を抑えるなら沈黙行・無言の行、食欲なら断食だ。

要は、肉体を痛めつけることで、精神力が高まると信じてのことらしい。

その他の行には、灼熱の太陽の下、四方に火を置いて酷熱に耐える行、寒中に氷のような滝に打たれる行などといったものがあるらしい。

でも、悪いけどこの話は、ズブの素人の私には、ぼんやりしてわかりにくいんだよなあ・・・。

私の読解力、理解力をはじめ、様々な能力が不足しているだけの話なのかもしれないが・・・。

これらを読んでいて思うことを、勝手に書き連ねていく。

ご了承頂きたい。

ここには、
苦行により、
精神を解放して自由にするだの、
精神力を高めるだの、
と書いてあるが、
そもそも、何で、何の理由で、
精神を解放することや、
精神力を高めなければならないのか、
なぜ、人間がそうしたことを求めるのか、
を考えてみたい。

そのためには、
そもそも、宗教とはなんぞや、
がまずは問題となる。

宗教とは、
神様とこの世の肉体人間の関係を
明らかにするものだ。

私達肉体人間は、
その肉体を元にした五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)
にまつわる欲望を最大化するように、
満足化するように生きたがる。

一般的には、人間の 3 大欲求として、
睡眠欲、食欲、性欲があげられるが、
それらを元にしながら、
いろんな要素が複雑に絡み合って、
権力欲、名誉欲、金銭欲など様々なものがある訳だ。

しかし、私達は、肉体人間ではあるが、その本体は神様の分け命である。

肉体だけで生きているのではなくて、
この肉体を有機的な生命体として働かせている、
何らかの不思議な力があるのだ。

普通なら魂とされるのだろうが、
これが神様の分け命だと考えられるのである。

この肉体を有機体として機能させている神様の分け命がなければ、
私達肉体人間は生きていかれない、
と考えられるのだ。

寝ている時も、起きている時も、
つまり、
睡眠時も覚醒時も、
心臓をはじめとする五臓六腑は、
絶え間なくこの肉体を生かすために働き続けていてくれる。

この元が何か、と考えた時に、思い当たるのが、神様しかないんですよ。

神様の分けられたお命によって、
この肉体は、
私達肉体人間は生きている。

人間と一口に言うと、
肉体人間のこと、
つまり、
お猿さんやライオンのように、動物と一緒にとらえてしまいがちですが、
私達はこの魂が動物などとは違い特別で、
神様のお命を頂いて、分けられて生きている、
もっと言えば、
生かされていることになる訳ですよ。

神様というと、
よく簡単に、いわば無意識に思いつくのが、
真善美に悖(もと)らない完全円満な存在、
となりますね。

それが私達肉体人間を生かしている、大元であり、本質となるんですよ。

そうすると。

私達肉体人間は、
普通は、上記のように各種の欲にまみれて生きている、
生活を営んでいることになるのだが、
それだけでは、飽きたらない何かが、いずれ起きてくる訳ですよ。

他人と競争したり、争ったりして、様々な軋轢を生じたために苦しさを感じたり、
一人で欲望を満たしながら生きていても、
これだけではない、空しい、何かおかしい、
心が心底満たされないものを感じるようになってくるんですよ。

このように、様々な軋轢でつらい、苦しい、何かおかしい、等々と感じるようになるということは、
私達肉体人間は無意識にあるべき形がちゃんと思い描かれていて、
それから外れたために、
諸々のこうした、苦しみ、空しさ、疑問が感じられる、
と考えられるんですよ。

つまり、
神様の分け命に加えて、
肉体自体も与えられた、
そして、
この三次元のこの世を生きていくために便宜的に追加して与えられたと思われる自己保存の本能だけで生きているように思っていても、
元が神様の分け命=神様だから、
神様の体、神体だったから、
これから外れたものすべてに、
どうしても違和感を生じざるを得なくなってくる、
と考えられるんですよ。

はじめに戻ると。

苦行により、
精神を解放して自由にするだの、
精神力を高めるだの、
というのは、
普通に肉体人間として生きている状態、すなわち、
各種の欲望に振り回されて、
他人と衝突してゴタゴタしたり、争ったり、
自分の欲望を満たせずに呻吟(しんぎん)するということを、
離れたい、
欲望にとらわれて様々な苦しみを作り出している生き方、
これは本当の、
肉体人間としてのあるべき生き方ではない、
姿ではない、
だから、
本来の人間の形に戻りたい、
もっとあるべき高尚な生き方があるはずだ、
と無意識に求める、
求めないではいられない、
気持ちの発露だ、あらわれだ、
と考えられるんですよ。

つまり、肉体人間として生きながらも、この肉体という各種の欲望にとらわれやすいものをまといながらも、
本体の神様の命のように、
よりよく生きたい、気高く生きたい、
こんな欲望にまみれて生きているのは
自分の本来の姿ではないんだ、
というあるべき姿を求める、
本来の命から来るあるべき生き方、
正しい生き方への希求が、
魂(神様の分け命)からの突き上げが、
あらわれている、
と考えられるんですよ。

従って、このように考えてくると、
精神を解放して自由にすることや、
精神力を高めるという意味合いは、
この肉体をまといながらも、
この肉体人間としても、
本体の神様の分け命のように生きたい、
と読み替えることができるんです。

つまり、神様の分け命が、
そのままに肉体に反映された肉体人間として生きたい、
そうなりたい、
ということです。

肉体人間となっても、
神様の本質に戻りたい、
素直に神様の本質をあらわして生きたい、
ということです。

そのために、いろいろと、修行をしたりしていく訳ですよ。

だから、その一番の妨げとなる、
各種の欲望を生じさせる
根本的な原因を作る肉体を、
とらわれの元を生じる肉体を、
痛めつけたりして、
欲望を無理矢理(?)抑え込んで、
本来の神様の姿をあらわそう、
あるべき形をあらわそう、
と無意識に励んでいると
とらえることができるんです。

以上が、個人的ではありますが、
私達肉体人間が宗教を求める、
苦行をして、
精神を自由に(神様の分け命のように)解放する、
(神様の分け命のように)精神力を高める、
ことの意義だと考えます。

そうして、
私達肉体人間は、
肉体人間として本来のあるべき姿、
神様の分け命そのままに反映された肉体となりたい、
そのようにして生きていきたい、
と思う訳です。

一言で言うと、
私達は肉体人間ではありますが、
神様のように生きたい、
ということになります。

なぜ、苦行をするのか?

それは私達は無意識に思い描いている、
肉体人間としてのあるべき姿、
すなわち、
この肉体を生かしている命そのままに、
それが素直に反映された形で生きたい、
からですよ。

その肉体人間としてのあるべき姿は、
神様の分け命そのままに、
真善美に悖らず、
完全円満で、
思う(良いことしか思わない、良いことだけ)がままに、
自由自在に、
あらゆることができることです。

その理想を実現するためには、
肉体にまつわる、
五感にまつわる、
各種の欲望に振り回され、
こだわっている姿は、
なくさなければならない。

なぜならば、
こうした欲望に振り回された生き方は
本来のあるべき姿、
神様の分け命そのままに、
それが反映された形で
生きていることにならないからです。

何回も同じことを書いてすみませんが。

要するに、
悟りを開こうとか、
そのため(精神の解放、精神力を高める)に苦行をするのは、
肉体人間としてあるべき姿になりたい、
というのは、
この五感にまつわる欲望にとらわれて仕方のない、
自己保存の本能により利己的に振る舞いたくて仕方のない、
肉体人間としての、
ありきたりなありがちな姿を超越して、
元の神体のように
気高く、立派に生きたい、
元にかえりたい、
という気持ちの発露だ、
と考えられるんですよ。

ちまたにある宗教の話や、ひろさんの話は、こうしたことは、すっ飛ばして話をするから、私にはモヤモヤしてつかみにくくて仕方がない。

暗黙の前提を、すっ飛ばし過ぎです。

もう、こうした前提をすっ飛ばして、無意識に悟りを開くだの、苦行だの言うから、話がわかりにくくて仕方がない。

お釈迦さんは、そうした人間としてのあるべき本来の姿をあらわすためのテクニックの一つとして、禅定がまずは必要だと無意識にわかっていた、と考えられる。

あるいは、お釈迦さんの過去世の因縁から、アーラーダ仙とウドラカ仙に、師事して、禅定を学ぶことが決まっていたのかもしれない。

個人的には、この 2 つが、お釈迦さんが苦行の前に、禅定を学んだ理由の可能性として考えられます。(*)

以下に、ひろさんの書いたことをまとめてみたのだが、これだけでは、私にはどうもモヤモヤして、つかみどころがなく、理解できないんですよ。

ひろさんの説明の要約

この節の表題は、沙門ガウタマ(お釈迦さん)はなぜ苦行をしたのか、になっているが、本来ならば、沙門ガウタマはなぜ最初に苦行をしなかったのか?にならなければならないそうだ。

つまり、お釈迦さんは、なぜ、アーラーダ仙とウドラカ仙という 2 人の禅定家に師事する前に、苦行をしなかったのか?と問う問う方が正しいとのこと。

というのは、ほとんどの宗教では、修行と言えば苦行になるからなのだそうだ。

後に出てくる中道は、あくまでもお釈迦さんの独創で、仏教以外の宗教で修行というと苦行以外には考えられないからだそうだ。

このように考えた場合には、シッダールタ太子(お釈迦さん)が出家をして沙門ガウタマになって宗教の修行を始めるとすれば、まずは苦行から始めるのがお決まりのはずになるということ。

それなのに、お釈迦さんは、まず苦行をすることはしないで、アーラーダ仙とウドラカ仙という 2 人の禅定家に師事している。

つまり、通常の宗教の修行の始め方とは異なっている、と言えることになる。

ひろさんは、私達は、この理由をまずは考えなければならない、とされている。

通常の宗教の修行
修行→苦行

お釈迦さんの修行
修行→禅定→苦行→中道

ということらしい。

つまり、お釈迦さんは、苦行の前に、まずは禅定を修めて、それから苦行として主に、中部経典の第三六経マハーサッチャカ経にあるように断食をしたとのこと。

ちょっと、あまりにも長くなりすぎたので、今回はここまでとします。

~~~~~

(*)無意識にわかっていた可能性について、考えられることがある。

それは、お釈迦さんの守護の神霊さんがそのようにして、導いた側面がある、可能性がある、ということ。

精神の統一や修行法として、その当時にすでに禅定があったとしても、これを最高にきわめた形できちんと修めて(=マスターして)、悟りを得るための修行の必須項目として、お釈迦さんの教えの体系に組み込ませるように、お導きになった。

その可能性があるから、お釈迦さんは無意識にでも、まずは禅定の修得に向かった。

このように、考えられます。

~~~~~

・牢獄~ろうごく~罪人を閉じ込めておく所。牢屋(ろうや)。

・殻~から~①貝や草木の実などの外側をおおって内部を保護している固い部分。
(用例)卵の殻。
②(比喩的に)自分の世界を外界から隔て保護するもの。
(用例)殻に閉じ込もる。
③中身を取り去った後に残る外側の部分・容器。
(用例)弁当の殻。
④抜け殻。
(用例)セミの抜け殻。もぬけの殻。
⑤豆腐を作ったあとのかす。おから。
ここでは、②の意。

・殻を破る~古いしきたりや習慣、考え方などを打ち破る。

・灼熱~しゃくねつ~焼けて熱くなること。焼けつくように熱いこと。
(用例)灼熱の太陽。灼熱の恋。

・酷熱~こくねつ~非常な暑さ。
(用例)酷熱の夜。

・呻吟~しんぎん~苦しみうめくこと。苦しみうなること。うめき。
(用例)病気に呻吟する。

・発露~はつろ~心の中のことが自然に行動や態度・表情にあらわれ出ること。
(用例)愛情の発露。

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①追記: 2022/01/13 08:52
②追記: 2022/01/13 12:03
③追記: 2022/01/13 19:18
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。