前回( 659_ひしみー080 )の続きです。
この地球上の動植物を含めた大自然の全体のバランスは、摩訶不思議(?)な仕組みによって保たれている。
その大自然を感謝の対象として自らをも生かしてくれている偉大な環境として崇(あが)めるのではなくて、あくまでも肉体人間の勝手な都合により、利用して、制服するのが、西欧に代表される唯物論の考え方だ。
前に、第 5 章( 05 人間の内側にある老・病・死 )の (・「死」と闘って生きるヘブライズム )の話も基本的にはそうなる( 626_ひしみー048 参照)。
だから、そこに手を突っ込み過ぎて、なおかつ、掻(か)き回し過ぎて、過度に自然を破壊して来たのは人間しかいない。
自然を破壊して来たのは、ほとんどが肉体人間観の唯物論による、ご都合主義のためである。
肉体人間だけが、自分達の生活に便利なように、あるいは、ゆとりを得るように、さらには、甘い汁を吸いたいがために、このような密林が砂漠化される現象に代表されるような環境破壊を行ってきた。
おそらく、食物連鎖をはじめ、ああした摩訶不思議なバランスに任せるような形をとっていれば、こうはならなかっただろう。
この食物連鎖のむごさをも含んだ摩訶不思議なバランス。
これは、地球上に生物をそれぞれに共存させようとする、絶対者、すべての創造主である神様がつくったとしか思えないのですよ。
縁起、縁起と言っていたら、いつまで経(た)っても何にもわからないままですよ。
もしも、弱い者がその命を奪われるむごさを伴う食物連鎖の理由を、神様にお伺いすることが許されるならば、今のような状態では、到底、ダメでしょうね。
今のような状態とは、今のような霊性の水準のままの状態という意味です。
私達よりも比べようもないほどに霊性の高いお釈迦さんでさえもわからない、教えて頂けていないことを、私達が教えて頂けるはずもありませんからね。
そんなおこがましいことが許されるはずがない。
地上天国化が成った暁(あかつき)か、私達の霊性が開発され尽くされて、はじめてお伺いすることが、許されるかどうか、といったところではありませんか?
食物連鎖が、唯物論的に生態系が維持されていること以外に、霊的な側面も含めて、私達には到底思いはかることのできない、深い深い、意味合いとおはからいがあるはずですよ。(*)
私達の霊性が開発し尽くされれば、今の食物連鎖とはまた違った形で、弱いものの命が、むごく奪われることのない形で、大自然を調和させるための考え方がまた別の形で出てくるかもしれない。
これは、おそらく私達肉体人間に託された責務です。
地球さんを与えられ、大地を与えられ、海を与えられ、植物、そして動物を与えられた。
これらを、よりよく調和させていくことが、おそらく、私達に期待されている。
肉体人間としてその本質に、神様の分けられたお命を頂いている私達のつとめとして。
だから、いつまでも地球人類の一極集中支配を目論むことや、自らの肉体の五感にまつわる欲望の最大化ばかりにかまけているのは、きわめてよろしくない、ということになります。
とにかく。
シッダールタ太子(お釈迦さん)が、悟りを得るために出家したとしても、そうでなかったとしても、食物連鎖のことは、あまり意味合いが深くないと言えます。
なぜならば。
悟りを得た後のお釈迦さんの教えに、虫を踏み潰して殺してはならないことが含まれていたと解釈できるからです。
命あるものは、生きとし生けるものは、とりあえず尊重すべし、ととらえることができるし、限定条件下での虫の殺傷についても事細かな言及はない。
だから、この樹下観耕の話がお釈迦さんの出家にかかわるとすれば、(喚声(かんせい)をあげた周囲の人々をも含めた)世の中のあり方に、疑問を抱くきっかけというか、誘因の一つといったところではないですかね。
長くなってすみません。
とりあえず、樹下観耕についての話はここまでとします。
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(*)なぜこのようなことを言うのかというと。
私達によくある難題や不幸は後になって見返すと、人間的に成長させる糧(かて)となっていたり、最終的に進むべき道への道筋だったりと、唯物論的な目の前の利害得失関係ではわからないことがあるからです。
実は、あの試練は、後々のために必要なことだったのだと。
これは、おそらく守護の神霊様のお導きと思われますが、同じように考えると、神様には何か私達の唯物論でははかりしれない、何か深い意味合いがあって様々なことを配されている、と考えられるからです。
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・喚声~かんせい~驚いたり、興奮したりして出す叫び声。
(追伸)
一応、ご参考までに、お釈迦さんの少年時代のその話の一部を引用しておきます(かなりの改変・省略などあり)。
釈迦国は農業国で農耕祭りがあった。
シッダールタ太子は、目を輝かせて式典を眺めていた。
その時、農夫が掘り起こした土の中から、1 匹の小さな虫けら(以下、虫と略す)が出てきた。
そして、どこからか小鳥がやって来て、その虫をくちばしの間にはさむ。
雛(ひな)へのエサなのだろう。
小鳥は虫をくわえたまま空を飛ぶ。
その小鳥は遠くに飛べなかった。
大空から猛禽類が舞い降りて来て、鋭い鉤爪(かぎづめ)でその小鳥を捕まえる。
そして猛禽類は大空の彼方(かなた)へと飛び去った。
短い間の出来事であった。
「わあーっ」
人々は喚声を上(あ)げる。
群衆にとっては、それは面白い光景であった。
だが、シッダールタ太子は、
「むごい。おぞましいことだ」
と呟(つぶや)き、静かにその席を退場した。
そして、少し離れた林に行き、大樹の下で座禅をした。
これが、仏典ではシッダールタ太子の初めての禅定とされている。
ひろさんによると、禅定はメディテーションのことだそうだ。
数刻の後、浄飯王(お釈迦さんの父親)をはじめ、人々は太子の不在に気づいて、あちこちと探し回った。
林に太子がいると知らされた浄飯王は、自ら林におもむき、太子を見つけた。
そこには奇跡が起きていた。
禅定の時には通常大樹の影に座るのだが、大樹の影は太陽の動くに従って移動する。
当たり前だ。
しかし、太子が禅定をはじめてからしばらく経っているにもかかわらず、大樹の影は太子を覆ったままだ。
他の樹木の影は太陽の移動にあわせて、移動しているというのに。
まさに、奇跡。
それを見た浄飯王は、思わずわが子を合掌して拝んだとされる。
なので、樹下観耕は、お釈迦さんの生涯における、はじめての座禅につながった出来事としての意味合いが強いのでしょう。
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・摩訶不思議~まかふしぎ~(摩訶は大きい意)きわめて不思議なこと。また、そのさま。
(用例)摩訶不思議な現象。
・暁~あかつき~①夜明け。明け方。
②将来、ある事柄が実現・成就した、そのとき。
(用例)成功の暁には。
③夜明け前のまだ暗いころ。
ここでは、②の意。
・暁闇~あかつきやみ~夜明け前、月が出ていなくて暗いこと。また、このころ。陰暦で、十四日頃までの現象。
・喚声~かんせい~驚いたり、興奮したりして出す叫び声。
・仏典~ぶってん~仏教に関する書物。仏書。経典。
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①追記: 2022/01/22 00:02
②追記: 2022/01/22 01:25
③追記: 2022/01/22 06:03
④追記: 2022/01/22 06:05
⑤追記: 2022/01/22 16:41
⑥追記: 2022/01/23 15:35
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。