おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

662_ひしみー083

今回は、シッダールタ太子(お釈迦さん)の出家とは別に、生・老・病・死について、簡単にまとめたい。

いわば、生・老・病・死についての霊的な解釈を考えたいと思う。

一般的な仏教以外に関心のない方は、飛ばして下さい。

私達肉体人間の本体は、肉体ではない、命そのもの、神様のお命が分けられた命そのものであることを幾度となく書いてきた。

その命は、この肉体を有機的な生命体として、生かしている本体であり、本質であるとも書いてきた。

この神様の分けられた命である、分霊(わけみたま)は、本質は神様そのものである。

ならば、その分霊としての神体は、真善美に悖(もと)らず、完全円満で、その想い(良き想いしかない)において自由自在に、あらゆることをなしうるはずである。

一瞬で地球上のどこにでも行けて、美しく、健康体そのものであり、病気などはなく、年老いることもないはずである。

しかし、幽体という想いの体をまとって、肉体に入ってしまうと、とたんに自由が利(き)かなくなる。

あらゆる動きは肉体に縛られ緩慢となり、しかも、肉体は神体と違って、永遠不滅ではなく、必ず老化する。

つまり、体としては自由自在ではなくなり、動きはすべて肉体の制約を受け緩慢となり、しかもその肉体は時間とともに不変ではいられないものとなるのである。

生・老・病・死(四苦)の生。

まず、このような肉体人間として生まれること、すなわち、この世に生を受けること。

実はこれが簡単なことではなくて、様々な壁をかいくぐって、この世に生を受けることはすでに書いた。

この世に生まれることは、あらゆる背景を考えると、実は稀少なことなのだ。

この世に生まれて、魂の汚れを落とす修行をしたくても、幽界で迷って苦しんでいる状態から抜け出したくても、肉体人間として生まれることができない魂がある。

この世に生まれたら、神体のままのような完全な体で、環境も神界のように完全なものならば、何の不足もないはずだが、そうはならないようになっている。

選ばれて生まれたこともわからずに、何でこの世に何で生まれてきたのか、と本人に自覚がないことが大半なのである。

この世に生まれるということは、原則としていくつもの過去世において溜め込んだ真善美に悖る想いと行いの業想念を清算する、魂の汚れを落とすために生まれてくる。

しかも、幽界などと違って、想ったことがすぐに実現しないので、時間をかけて業想念を清算するには、何事にも時間のかかるこの世は、格好の環境。

この世に生まれるのは、修行だから苦労が多いことになるが、過去世で溜め込んだ業想念を考えると、その清算をさせてもらえるありがたい環境となる。

これが普通(悟りを開けない状態。以下、同様)はわからないから、この世に生まれることが、苦とされる。

生・老・病・死(四苦)の老。

神体のままなら、不変のはず。

肉体を持つから、20 才をピークに次第に衰えていくようになっている。

肉体が自分だ、この肉体を生かしている神体が自分だとは感得できていない、わからないから、肉体の変化を受け入れざるを得ない。

若い 20 才のまま、ピンピンしていたいと思っても、それはままならない。

だから、普通は老いが、苦とされる。

生・老・病・死(四苦)の病。

肉体が神体の映し身として、そのままあらわれていれば、完全円満な健康体で病気はない。

しかし、この世に生まれる大抵の人は、過去世の業想念を清算する、過去世の因縁を果たすために、病気その他の苦労をする。

だから、誰しもが普通に経験する病気が、苦とされる。

生・老・病・死(四苦)の死。

分霊の神体としては永遠でも、肉体人間として生きていく命は有限。

だから、(肉体人間の)誰しもが普通に(必ず)経験する死が、苦とされる。

つまり、悟りを開いて、この肉体を生かしている命そのものが人間と考えるのではなく、肉体そのものが人間であるという肉体人間観を脱却することができなければ、肉体にまつわる固有の生・老・病・死は免れない、ということになります。

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追記: 2022/01/24 00:03
〜訂正内容〜

本文を訂正しました。