おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

663_ひしみー084

前回( 662_ひしみー083 )では、
霊性面から、
この世における、
肉体人間としての私達には
避けることのできない、
生・老・病・死の意味合いについて
考えてみた。

要は、
私達肉体人間の本質が
神様の分けられたお命である
分霊(わけみたま)であり、
これに肉体をまとったことで、
元々、神体としてあったはずの、
完全円満さと、
自由自在な力が、
著(いちじる)しく制限されてしまうために、
四苦八苦の四苦である、
生・老・病・死 を
いやが上にも味わわざるを得なくなっている、
という内容を書いたものだ。

だいぶ後になるが、
ひろさんは、
第 11 章( 011 釈迦は何を教えたか? )の
(・「四諦」とは何か?

・苦とは思うがままにならないこと )
において、
「苦」の意味合いを考察している。

そこでは、結論として、
「苦」は
「思うがままにならない」
こととされているが、
では、
その「思うがまま」は何を意味するのか、
については、曖昧(あいまい)なままで、
せいぜい、肉体人間観の
肉体人間が
何となく暗黙の前提としている程度
にしか読み取ることができない。

そこを読んでも、
相変わらず、
「思うがまま」
の本当の意味合いは何か、
その本当の意味がどこから来ているか、
の大元がはっきりしない。

私に言わせれば、
この話の進め方は、
また、例によって
「大前提のすっ飛ばし」である。

本来の
神様の分け命として、
いわば神様の子供としての、
完全円満な体や
自由自在な能力を
肉体をまとうことによって
著しく制限されているから、
「思うがままにならない」
と考えなければ、
話がスッキリと完結しないのである。

私にはそのように思えて仕方がない。

仏教関連の書物を
何冊か読んで来た限りでも
(私が今までに読んできた十数冊。
おそらくこれらが一般的なものと
思われる)、
言い方は悪くて申し訳ないが、
ただ「苦しい」とか、
ただ「思うがままにならない」とか、
書いてあるだけで、
苦しいと思う根本的な原因を
はっきり書いたものがないのである。

そうかと思えば、
仏教は一切皆苦で、
肉体人間の自分にとって
快いことや楽しいこと求めることが、
苦の始まりとされるような説明ばかりで、
肉体人間観や
肉体人間の本質が
神様の分け命であることから始める話は
まったく書かれていない。

私達肉体人間は、
この世に生を受ける場合、
ほぼすべての人が悟りを開いておらず(当たり前か)、
自らの本体が神体だと
表層意識(=顕在意識)ではわからなくても、
深層意識には神意識があるために、
無意識に肉体に不自由さを感じ、
無意識に肉体に生じる老・病・死に違和感を覚えるから、
「思うがままにならない」
ひいては、
「苦しむ」
という表現につながっている、
これらの表現が出てくる、
と考えられるのである。

従って、
真善美に悖らない良き想いの範囲内での
自由自在で万能な「神体」と、
様々な制約を課せられ、
過去世の因縁の清算により
さらに制約を課される「肉体」とは、
あまりにも差がありすぎる、
ということなのだ。

それが、
「生・老・病・死」の内の
「老・病・死」に、
「苦しみ」となってあらわれてくる、
ということ。

このように、
肉体人間の大元である
神体から考えて理解していかないと、
「苦」の意味が、
「思うがままにならない」の意味が、
曖昧なままでハッキリしないのである。

私には、
仏教関係の書物を著(あらわ)す皆さんが、
こうした大元の大前提を抜かして、
無意識に
「苦」と「思うがままにならない」
を取り上げて、書いているように
読み取れて仕方がないのである。

たとえて言うなら、
「人間」とは「肉体そのもの」ではなくて、
「肉体を生かす神体」という「命そのもの」のことであり、
肉体は神霊なる人間の「入れ物=容器」である。

しかも、
その肉体は神霊からしてみれば、
数百キロかそれ以上に(?)重いであろう、
激重の(?)トレーナーか鎧(よろい)を着たような状態であり、
神霊の体のように思うように俊敏(しゅんびん)に動けず、
しかも、
この肉体は生物(なまもの)で
神霊の命を吹き込んでいても、
時間の経過とともに変質していってしまう。
20 年間は成長を続けても、
後は徐々に衰退する形をとりながら。

つまり、
「本体」である「神霊」と、
「容器」である「肉体」とに、
きわめて著しい差異があるために、
生・老・病・死が、
その中でも特に
老・病・死が、
思うがままにならないものとして、
苦しみを伴うものとして、
感じられることになる
と考えられるのだ。

本来は神霊そのものが
自分自身であるのに、

肉体という器を
自分自身としてとらえる限り、

思うがままにならない、
苦しい、

と感じることになってしまう訳です。

生・老・病・死 という 四苦 を、
「思うがままにならない」、
「苦」、
と感じる根本的な理由は、
ここにあると考えることができます。

仏教の書物を著す皆さんが、
何気なく、
あるいは、
無意識に、
「思うがままにならない」
「苦」
という言葉を用いるのは、
皆さんの意識の深層には
厳然として神意識があり、
それが元になって、
「思うがままにならない」
「苦」
という言葉を無意識に使わせている、
と読み取ることができる訳です。

まあ、こうした内容を独断と偏見と思われる方も、多々おられるとは思いますが、私の分析は以上です。

以前、四苦について書いた( 575_四苦八苦と霊性の開発 )時は、概要は同じだが、これほどまでにはスッキリとは理解できていなかった。

今回、たまたま、このように頭の中でスッキリと整理できたので、とりあえず書いておくことにする。

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①追記: 2022/01/29 12:12
②追記: 2022/01/31 23:55
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。