おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

679_ひしみー100

676_ひしみー097、677_ひしみー098 と、ちょっと脇道にそれたので、今回は、再び、675_ひしみー096 の続きからになります。

08 天魔よ、汝は破れたり

・経典はガウタマの迷いを語っている

前回( 675_ひしみー096 )の続きです。

また、繰り返しになってしまうが、お釈迦さんが苦行を「ためにならない」と決めつけた理由をもっとハッキリと書いて(あるいはお弟子さんに伝えて)遺しておいてほしかったと書いた。

なぜ、私があのように書いたのかが、わかりにくかったかもしれないので、念のために補足する。

私が言いたかったのは、あのように遺された言葉だけでは、普遍性がない、一般化ができないと思ったからです。

お釈迦さんの生きていた時代は 2500 年以上も前の大昔だから、人間の寿命は今よりもずっと短かかっただろう。

病気にしても現代医学ならほとんど助かる病気も、助からなかった場合も多かっただろう。

例えば、虫垂炎(盲腸)。

現代医学ならば、急性虫垂炎(盲腸)は、薬でちらすか、手術をして助かるが、これができなかったつい数十年前までは、汎発性腹膜炎を起こしてしまい、助からなかった方がたくさんおられたと考えられる。

繰り返すが、ましてや、お釈迦さん在世当時は、2500 年以上前の大昔なのだ。

言い換えれば、当時は現代よりもはるかに死が身近だったと考えられる。

断食がある程度で健康に効果があることを割り引いて考えても、苦行をすることは、それも、骨と皮になって身体の組織が崩れんばかりの、極度に厳しい苦行をしていたお釈迦さんは、きわめて落命の可能性が高かったのではないか、と考えられるのだ。

自ら「これでは死んでしまうかもしれないな、そろそろ、この辺で苦行をやめておこうか」と思っても、判断を誤って死んでしまう可能性がかなりあったのではないか、と考えられるのですよ。

このように考えてくると、お釈迦さんの場合は、たまたま、苦行をやめるタイミングを誤らずに済んで助かっただけ、という可能性が出てきてしまうんですよ。

死にそうに厳しい修行をして、やめてみて、たまたま助かったけれど、もし死んじゃってたらどうするの?っていう話です。

お釈迦さんは、苦行を限界まで試してみて、たまたま助かった。たまたま助かったからこそ、苦行は「ためにならない」とわかったという話ではないのですか、お釈迦さんのあのお話は。

もしも、お釈迦さんが落命していたら、今の仏教につながる系譜は、すべてなかったことになりますよね?

そこがねえ、何か、一か八かのような話に思えて、八正道のような不必要なまでの理詰めの話に比べて、あまりにもおおらかというか、大まかというか、アバウト過ぎるような気がしてねえ・・・。

こうした、理屈から考えていくやり方は唯物論そのものですよね。

そうではなくて。

お釈迦さんの苦行で身体を痛めつけた限界に近い絶妙のタイミングで、守護の神霊さんが、お釈迦さんを尼連禅河の湖畔を歌を歌いながら歩く1人の農夫さんに遭遇させた。

両者の過去世の因縁を絶妙に結ばせた。

しかも、わざわざ、農夫さんに中道のヒント(というよりも苦行のやり過ぎの無意味さを悟らせるための)歌まで歌わせる形で。

そうとらえるほうが、ずっとスッキリしている話に見えるんですよ、あのお話は。

以前取り上げた、中村元さんの時も、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)の時にもありましたけど、お釈迦さんは以下のようにお考えだったんですよね?

すなわち、

真理とは、
「普遍的でなければいけない。
矛盾があってはいけない。
例外があってはいけない。
誰もが実践できることでなくてはいけない。」
と。

これからすると、この中道という真理を導き出すために、普遍性のない導き形がなされている、という何とも不思議な形になっているように見えるんですよねえ・・・。(*)

だって、たまたま上手く行ったことから、導き出された真理って、果たして普遍性があると言えるんですか?

まあ、これも、あくまでも個人的な独断と偏見です。

何卒お許し頂きますよう平にお願い申し上げます。

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(*)唯物論の見方からすると、普遍性がない。多少は神様を考える人ならば、神様の思し召し、天(=神様ですね)の配剤と言うかもしれない程度。

しかし、肉体人間を、神様が遣わした守護の神霊さんが守り支えていくのが真理=普遍なものである、とすれば普遍性があるととらえることができる。

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①追記: 2022/07/02 21:33
②追記: 2022/07/31 10:16
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。