おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

680_ひしみー101

08 天魔よ、汝は破れたり

・経典はガウタマの迷いを語っている

( 675_ひしみー096 )の続きです。

以下はちょっと感覚的な話になってしまい、一般的な仏教に興味がある方には、??? の話になってしまうかもしれないのだが、まあ、これも個人的な独断と偏見なのでご容赦頂きたい。

だいぶ前( 673_ひしみー094 )のことになるが。

お釈迦さんが、苦行も限界に達しようとする時に、尼連禅河の湖畔を歌を歌いながら歩く1人の農夫さんの歌う内容をヒントにして、苦行に見切りをつけた。

そして、スジャータさん(達。村の娘達が複数以上関わっていると思われる)が継続して供養してくれた乳粥で、それなりの長い時間をかけて体力を図った際に、ひっかかることは 2 つあると書いた。

苦行はダメだと決めつけた理由は何か( 652_ひしみー073、653_ひしみー074 )、ということと、悪魔という存在はいかなるものか、の 2 つだと。

苦行がダメだと決めつけた理由(というか中道が良いとする理由)については、前々回( 678_ひしみー099 )と前回( 679_ひしみー100 )に書いておいた通りとしておく。

つまり、一般的な仏教の見解であろう中道の選び取り方(?)があまりスッキリとしないのを良しとせず、守護の神霊さんによって導かれたから、苦行のやり過ぎにとりあえず見切りをつけることができた、と解釈する。

ここでは、悪魔のことをちょっと考えたい。

ひろさんは、お釈迦さんは苦行を放棄したことに、彼(お釈迦さん)自身が完全には納得がいかず、乳粥により栄養を補給して体力を回復させるのに要したであろう数ヶ月(?)の内面の葛藤を、悪魔との対話の形式をとり、振り返っているようにとらえているようだ。

この場に限らずそうなのだが、経典には、悪魔がお釈迦さんを、脅したり(?)、すかしたり(?)、持ち上げたり(?)しながら、何とかお釈迦さんを迷わせよう、挫折させようとして結局失敗して、私にはお釈迦には勝てぬと、ヘナヘナと萎(しお)れて消え去ったような表記が実に多い。

ひろさんは、仏教の経典がこのような形で、お釈迦さんの苦行をやめてしまったことに対する迷いをあらわしているとご理解されているようだ。

つまり、お釈迦さんの苦行を捨てた心の迷いを、特に苦行に引き込まれる誘因を、悪魔という形で擬人化した問答形式であらわしている、と。

ただねえ。

先に述べたように、これはあくまでも個人的な独断と偏見なのだが、擬人化の対話形式にしては、あまりにも凝った作りになってい過ぎやしませんか?

こうした問答形式は。

個人的には、擬人化した対話形式と理解するよりも、悪魔を霊的な存在なりとして認めてしまった方がはるかにすんなりと理解しやすい。

まあ、経典を暗唱しやすいように、詩句の形にするために、このようになったのかもしれないが・・・。

もしかしたら、お釈迦さんがお弟子さん達に、自らの葛藤の様子をよりわかりやすく擬人化して伝えたものなのかもしれないが、どうも個人的にはスッキリしないんですよねえ・・・。

まあ、いいか。

ひろさんは、この体力回復期間において、沙門ガウタマ(お釈迦さん)に迷いはなかったのか?彼は苦行を放棄して中道を歩む決意をしたが、その決意は正しかったのか、と時には迷い、時にはこれで良かったと言い聞かせていただろう、としている。

この部分について経典を、ひろさんは増谷さんの訳を引用しているが、ひろさんのお師匠さんの中村元さんの訳を引用する(なお、適宜、漢字化やひらがな化や句読点の省略などの細かな改変あり)。

なお、ひろさんによると、この該当箇所は、沙門ガウタマ(お釈迦さん)が悟りを開いた述懐として書かれていても、漢訳の増一阿含経第十巻に「道を得るに未だ久しからず(書き下し文)」とされているとして、このお釈迦さんと悪魔とのやり取りは、苦行をやめてからの体力の回復期間中のことだとしている。

「サンユッタ・ニカーヤ」(Ⅳ・1)

第Ⅳ篇 悪魔についての集成

第一章 第一節 苦行と祭祀の実行

一 私はこのように聞いた。
ある時尊師(=お釈迦さんのこと)は、ネーランジャラー川の岸辺で、ウルヴェーラー村において、アジャパーラという名のニグローダ樹(=バニヤンの樹)の下にとどまっておられた。
悟りを開かれたばかりの時であった。

二 さて尊師が静かに座して瞑想しておられた時に、次のように思われた。

「私はもはや苦行から解放された。
私があのためにならぬ苦行から解放されたのは良いことだ。
私が安住し、心を落ち着けて、悟りを達成したのは良いことだ」と。

三 その時悪魔・悪しき者は、尊師が心で思われたこと(=内容のことだろう)を知って、尊師の所におもむいた。
近づいてから、尊師に詩をもって語りかけた。

「人々は苦行によって浄(きよ)められるのに、
その苦行の実行から離れて、
清浄に達する道を逸脱して、
浄くない人(=お釈迦さんのことだろう)が自ら浄しと考えている」と。

四 そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に、次の詩をもって答えた。

「不死に達するための苦行なるものは、
すべてためにならぬものであると知って、(*)
乾いた陸地に乗り上げた船の舵や鱸(ろ)のように、
まったく役に立たぬものである。
悟りに至る道
ー 戒めと、精神統一と、智慧と ー
を修めて、
私は最高の清浄に達した。
破滅をもたらす者よ。
お前は打ち負かされたのだ」

五 そこで悪魔・悪しき者は、
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ」
と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失(う)せた。

~~~~~

(*)ひろさんのご本(ひろさちや著 釈迦 (春秋社))で、引用されている増谷さんの訳によると、この部分は下記のようになっている(細かな改変あり)。

「不死を願うに、いかなる苦行も利をもたらすこと無しと知った」

ひろさんは触れていない(というか、一般的な仏教の本では触れていない)が、不死とは何を意味するのかを、ここで触れておく。

不死は、国語辞典によると、下記の意味となっている。

不死~ふし~死なないこと。いつまでも生きること。
(用例)不老不死。

肉体人間は、大体が数十年の寿命を持ち、この世では必ず死ぬのに、なぜ、不死とするのか?

簡単に言ってしまうと、不死というのは悟りを開いた状態だからこそ、心底から感得して言えること。

逆に言うと、悟りを開けない、ごく一般的な私達には、感得できないこと。

肉体人間は、上記のようにこの世では必ず死ぬじゃないか、何を言っているんだ、と思われるでしょうね。

悟りを開いた状態、つまり、輪廻転生から解脱して、何回も何回も、この世に生まれ変わらなくてもよくなった状態。

この世に生きながらにして、この世の病争貧苦に満ちた世界から離れて、人間の本質が何であるか、がわかりきって安心立命した、安穏の状態。

もう、憎い、欲しい、妬(ねた)ましい、等々の肉体人間固有の真善美に悖る感情想念(=業想念)に、振り回されない状態。

これは、一体、何なのか?

自分は、肉体という人間そのものではない、肉体を生かしている命そのもの=神様の命(仏教なら仏の命そのもの)が、人間なんだとわかった、ということなんです。

神様の命ならば、神様のお命は永遠だから、不死ということになりますね。

その神様という大生命がいくつにも分かれて、この肉体に宿っている。

この肉体を私達は人間だと思っている。

しかし、そうではなくて、この分けられた命そのものを人間としてとらえると、自分は神そのもの(仏教なら仏そのもの)だったと感得できたことなんです。

肉体は、神様の分けられたお命の入れ物であり、容器である、ということになるんですね。

だから、永遠に生き続ける大生命としての神様を本質とするものだから、その永遠の命の死という終止符はないことになる。

だから不死となっているんですね。

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①追記: 2022/07/31 10:27
②追記: 2022/07/31 10:28
③追記: 2022/07/31 10:38
④追記: 2022/07/31 10:52
⑤追記: 2022/07/31 11:34
⑥追記: 2022/08/01 04:55
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。