おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

682_ひしみー103

08 天魔よ、汝は破れたり

・天魔の正体を見抜いた沙門ガウタマ

前回( 681_ひしみー102 )の続きです。

まず、天魔について。

本来ならば、この第 8 章( 08 天魔よ、汝は破れたり )の冒頭( 672_ひしみー093 )で触れておけばよかったのかもしれないが、ひろさんはここ( ・天魔の正体を見抜いた沙門ガウタマ )で扱っているので、それに従う。

ご了承願います。

前々回( 680_ひしみー101 )の復習になるが、ひろさんの天魔(引用した中村さんの訳では悪魔。以下、とりあえず悪魔と天魔は同義としてご理解頂きたい)の意味合いは以下の通り。

ひろさんは、お釈迦さんは苦行を放棄したことに、彼(お釈迦さん)自身が完全には納得がいかず、乳粥により栄養を補給して体力を回復させるのに要したであろう数ヶ月の内面の葛藤を、悪魔との対話の形式をとり、振り返っているようにとらえている。

仏教の経典には、悪魔が、お釈迦さんを、脅したり、すかしたり、持ち上げたりしながら、何とかお釈迦さんを迷わせよう、挫折させようとして結局失敗して、私にはお釈迦には勝てぬと、ヘナヘナと萎(しお)れて消え去ったような経文が多々ある。

ひろさんは、仏教の経典がこのような形で、お釈迦さんの苦行をやめてしまったことに対する迷いをあらわしているとご理解されている。

つまり、お釈迦さんの苦行を捨てた心の迷いを、特に苦行に引き込まれる誘因を、悪魔という形で擬人化した問答形式であらわしている、とされる。

ひろさんの表現を直接お借りすると、以下の通り(改変あり)。

苦行を放棄した後、沙門ガウタマ(お釈迦さん)は迷いに迷った。
「これでよかったのだろうか?」
「これでよかったのだ!」
と何度も何度も自分に言い聞かせている。
その内面の葛藤が、仏典においては悪魔との問答の形をとる。

で、天魔について。

ひろさんは、増谷文雄さんが、悪しき者魔羅(マーラ)と訳していて、これが悪魔と訳すよりはいいとしている。

そして、増谷さんの訳の悪しき者天魔の「悪しき者」という形容詞もいらないという(中村さんの訳は、悪魔・悪しき者となっている)。(*1)

ただし、魔羅には、隠語(スラング)で陰茎の意味があるので使いたくない人がいれば、天魔としてもよい云々とお書きになっている。(*2)

ひろさんは、なぜに悪魔を避けるのか?
これは私の邪推だが、悪魔を霊的な存在のように見たくなかったからではないか?

しかし、そのために、隠語云々まで持ち出して、話がごちゃごちゃしている。

どうせ、一般的な仏教の方々は、霊的なものをハッキリとお認めにならない方が多いのだから、悪魔の方が通りがいいし、面倒くさくないと思うのだが。

ちなみに、ひろさんのお師匠さんの中村さんは、悪魔と訳している。

天魔は、国語辞典では以下の通り。

天魔~てんま~仏教語~人が善事をしようとする時や、仏法(=仏教。仏(お釈迦さん)の教え)の修行をしている時にこれを妨げる魔王。

悪魔は、以下の通り。

悪魔~あくま~①人の心を惑わし、神・仏の導きを遮(さえぎ)って悪に誘う魔物。
(用例)悪魔ばらい。
②凶悪な人。極悪人。
ここでは、①の意。

さらに、魔物は、以下の通り。

魔物~まもの~不思議な力で、人に害を与えるもの。化け物。

やはり、悪魔が霊的な生物、あるいは未確認生物(?)のような意味合いがあるから、ひろさんは、悪魔という語句をお避けになったような感じがしますね。

以下、ひろさんのご本の引用で、天魔とされているもの以外は、すべて悪魔という表記に統一することとする。(*3)

ひろさんによると、天魔は、お釈迦さんの内面に潜んでいる誘惑者で、これは私達の誰の心の中にも潜んでいるという。

おい、ちょっと法律違反をしてみろ、そうすりゃ金が儲かるぞ、などといった誘惑が、天魔の囁(ささや)きだと言う。

私達凡人は、この誘惑に負けるが、お釈迦さんは負けなかったそうだ。

しかも、その差は、私達は天使の誘惑だと聞く、とする(天使?意味わかんない。誤植かもしれないけれど真偽は不明)。
お釈迦さんはそれを天魔の誘惑だと知っていた、たったそれだけの差だとしている。

ひろさんは、天魔はその正体を知られると困るとして、私達も誘惑を受けた時は、その誘惑が天魔の誘惑だとわかれば、私達は誘惑には負けない、とする。

そうかなあ。

そんなに意志の力で、なんでもかんでも克服できるはずないんだけどなあ。

過去世の因縁は、ちょっとした意志の力=思い込みでは克服できない、生易しいものではない、と思うのだが・・・。

まあ、いいや。

「私はもはや苦行から解放された。
私があのためにならぬ苦行から解放されたのは良いことだ。
私が安住し、心を落ち着けて、悟りを達成したのは良いことだ」

として苦行を否定したお釈迦さん( 680_ひしみー101 )。

ひろさんは、苦行を否定したお釈迦さんは、中道をなしたという。

「不死に達するための苦行なるものは、
すべてためにならぬものであると知って、
乾いた陸地に乗り上げた船の舵や鱸(ろ)のように、
まったく役に立たぬものである。
悟りに至る道
ー 戒めと、精神統一と、智慧と ー
を修めて、
私は最高の清浄に達した。
破滅をもたらす者よ。
お前は打ち負かされたのだ」

とされているように、中道は、戒学と定学と慧学の三学とされる。

お釈迦さんは、アーラーダ仙とウドラカ仙に師事した時に、テクニックだけの禅定ではダメだ(=悟りを開けない)と気づいて、苦行を始めた。

しかし、お釈迦さんは、その苦行もナンセンスであるとして、戒学と慧学が、禅定を補完すべきだと悟った、としている。

さらに、ひろさんによると。

戒学は羅針盤だそうだ。中道には目的地があってはならないが、それではどの方向に進めばよいかがわからなくなる。その方向を教えてくれるのが、戒学だそうだ。

そして、その羅針盤に従ってゆったりと禅定をする。すると、智慧を得ることができる。

さらに、その智慧に支えられて、戒律を守りつつ、禅定を修める。

そうすれば、智慧が深まる。

ひろさんは、以上のような中道を、お釈迦さんは歩んだ、としている。

そうして、お釈迦さんは、仏陀となった、とのこと。

この仏陀となったお釈迦さんが説いた教えが、仏教となるそうだ。

そして、この節をひろさんは、こう結んでいる。

従って、仏教とは中道である。苦行ではない。くどいようだが、私は繰り返しそのことを強調しておく。

なんだか、くねくねして、よくわからないなあ。

要するに、仏教は、07 禅定と苦行、そして中道 の テクニックだけの禅定ではダメ( 648_ひしみー069 )の、禅定は戒律と智慧によって補完されなければならない、とあったように、戒律と禅定と智慧の三位一体ではじめて、意味を持つ教えである、ということだろう。

そして、このような形で、修める仏教は、決して苦行にこだわり過ぎるものではない、と。

個人的には、このように考えます。

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(*1)中村さんの訳の悪魔・悪しき者について

悪魔について~ブッダゴーサ(ブッダではない。後世の初期仏教の研究者)によると、悪魔は種々の名を持っているとされるが、ここでの悪魔は単数で、ただ一人とみなされている。多数の悪魔があらわれて誘惑したという仏伝は、後代になって成立したもので、最初期のものではないそうだ。

悪魔の語義は、「自分の領域を超えようと実行した人々を殺す」というものらしい。

悪しき者は、「他人を悪になずませる、あるいは自ら悪になずむ」という意味らしい。

「なずむ」は、「泥む」と書き、おおよそ、こだわる、執着するという意味。

(*2)・スラング~特定の社会や仲間の間だけで通用する特殊な言葉。俗語。卑語。

・隠語~いんご~特定の社会や仲間内だけに通用する、特別の意味を持った語。隠(かく)し言葉。
(参考)やくざ仲間で使う、どや(宿屋)・ぱくり(かっぱらい)、寺院の人が用いる般若湯(はんにゃとう。酒)、やみ屋仲間が使う、だふ(切符・入場券)など。

(*3)私がひろさんが引用している増谷さんの訳をあまり用いず、ひろさんのお師匠さんの中村さんの訳を用いるのは、中村さんの本には細かな注釈がついている(かなり学術的・専門的になってしまうが)ことが多いので、ひろさんのご本の増谷さんの引用文だけではわからないことが生じた時に調べる手がかりが少ない、と考えたからです。

こうしたやり方が、必ずしも保険となるかどうかはわかりませんが、主としてこのような理由で中村さんの訳を用いています。

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①追記: 2022/08/02 21:33
②追記: 2022/08/02 21:40
③追記: 2022/08/03 01:08
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。