おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

696_ひしみー117

09 梵天による懇請

・仏宝と法宝に帰依した二人の在家信者

前回( 695_ひしみー116 )の続きです。

続きではあるが、ちょっと個人的な感想になるので、一般的な仏教にしか、興味がない方は、以下の内容は飛ばして下さい。

前回、ひろさんが、三宝
・仏(お釈迦さん)
・法(お釈迦さんの教え)
・僧(お釈迦さんの弟子の出家修行者)
のうち、「僧」を外したがっているのではないか、と書いた。

そのために、僧が経文内に入っているから、三帰依文を唱えるのを拒否するお仲間のことを書いたり、お師匠さんの中村さんの分析を引用したりされていたように思う。

しかし。

ひろさんは、
「僧とは何か」
「出家とは何か」
とお書きになっているが、そもそも、
仏教徒とは何か」
「仏教者(時々不必要にひろさんはこう書かれているように思うから)とは何か」
もっと言えば、お釈迦さんの在世当時よりも、はるかに社会が発展して、複雑化されてしまった現代において、仏教を信じたい人は、どうしていけばいいかという問題ではないのか。

個人的な感想を言わせてもらえば、現代では普通に生きていこうとすれば、難行道は不可能だ。

社会から孤立して、現代人からすれば、信じられないようなたくさんの厳しい戒律を守らなければならないし、到底、現実的とは思えない。

しかも、出家修行をするためには、お釈迦さんほどまではいかないまでも、指導するに足る阿羅漢になっている人の指導が必要だ。

つまり、現代人にとって、お釈迦さん在世当時の修行生活はほぼ不可能としか思えないのである。

では、果たして、仏教を学びたい、修行しないまでも、途中まで志したい、などと考えた時に、私達にできることは何になるのか?

できることは、せいぜい、お釈迦さんの生き方や遺された言葉(これもどこまで正確無比なのかわからない)や後世に創作された経文などから、生き方の拠り所としたり、心の糧(かて)を得たり、などといったことしかできないのではないか。

現代の真面目に生きているお坊さんも、お釈迦さん在世当時の阿羅漢になったお弟子さんのようになることは、まずできないとしか思えない。

現代社会とかかわりを持たざるを得ない社会の一員として生きていくためには、ある程度の妥協はやむを得ないからだ。

親鸞さん以前にもあったと思われる妻帯や、般若湯、お稚児さん、などなどの過去の事例に見られたように、かつての厳しい戒律生活は、社会が発展していき、大規模化、複雑化していくには、無理があるとしか思えないのである。

何が言いたいのかというと。

仏・法・僧の僧を外せと言いたいのなら、そもそも、現代で、仏教をどのように社会生活に溶け込ませたらいいのか、を根本から考えるべきではないのか、と言いたいのである。

こうした問題は、大乗仏教の経典が作られる前から、おそらく問題になっていたのだろうが、宗派も分かれててんでんばらばら、なんか収集がつきにくく、曖昧模糊とした感じがする。

以上は、あくまでも個人的な勝手な感想なので、悪しからずご了承下さい。

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①追記: 2023/05/14 22:22
 〜訂正内容〜
表題を加筆・訂正しました。
①について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。
この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。