おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

711_ひしみー132

09 梵天による懇請

・苦行による悟りと中道による悟りの違い

前回( 710_ひしみー131 )の続きです。

その前に。

また、間を開けてしまいました。

失礼致しました。

すぐに続きを書けると思いながら、何となく、スランプというか書く気が起こらず、ズルズルときてしまいました。

すみません。

でも、書かせて頂くからには、精一杯書くつもりです。

ご容赦願います。

前回( 710_ひしみー131 )、いくつも疑問符の ? をつけたように、ひろさんのお釈迦さんの悟りを開いてからの、伝道への動機づけがどうもしっくりこないというか、スッキリしないと個人的には感じます。

お釈迦さんが悟りを開いたとして、ひろさんの、

苦行 → 利己的 → 伝道しない

中道 → 利他的 → 伝道する

の理由づけがどうもしっくりこないのです。

そこで、以下はまったくの独断と偏見になりますが、別の見方から考えます。

以下に分けます。

1.自己満足止まりの悟り

ひろさんによると、お釈迦さん在世当時のインドの常識では、悟りを開いたら、涅槃に入る、言い方を変えれば、肉体人間としては死ぬということになります。

悟りを開いたのに、なおもこの世にとどまっていたら、煩わしいことがある、とひろさんがお書きになっていたことは、今一つはっきりしませんが、おそらく、せっかくの悟りを乱される、下手をするとまた悟りを開けていない境涯に逆戻りをさせられることを指していると思われます(お釈迦さんのお弟子さんにそうした人がいたから。どうも、完全に悟りを開いたままにならないケースがあるみたい)。

でも、これねえ。

自己満足すれば、ただそれでいい、あとの人は知ったことか、という意味になりはしませんか?

人間とは何か、その究極をきわめてわかったら、他の人なんかどうでもいい。

何かと後ろ髪を引かれそうでも、放っておけ、ということですよね?

これは、ちょっと自分勝手なものの見方ではないですか?

2.特定の神様観から考えた悟り

神様と人間を以下のように想定します。

神様は、ありとあらゆるものの創造主であり、全知全能、完全円満な愛に満ちた、愛そのものの存在とします。

人間とは、神様のそのお命を分け与えられた霊なる人間であり、この世にあらわれる形としては、霊なる人間を本質とする肉体人間としてあらわれます。

肉体をまとっていても、その本質は、霊なる人間であり、神様のお命を分け与えられているから、その本質は神様ともなっています。

ただし、この世を神様の世界を映し出した世界として完成させるために、その便宜上、肉体人間となるにあたって、原則として肉体の寿命を有限に区切り、自己保存の本能を持たせるようにされた。

自己保存の本能を持たされたゆえに、自分の命を、生活を守ろうと、肉体が分かれて五感に感じられていることもあって、自分と他人(家族を含む)とは、別だ、と次第、次第に認識していくようになり、自らと近しい者の利害得失を最大化するような、利己主義に走るようにもなってしまった。

このために、私達は、当初はともかく、何回も何回も生まれ変わり、いわゆる、輪廻転生を繰り返すうちに、人間とは霊なる人間ではなく、五感に感じることができる肉体こそが人間だ、人間は肉体人間なんだ、と思い込むようになってしまった。

つまり、自己保存の本能を持たされ、輪廻転生を繰り返すうちに、人間=肉体人間だ、という想いのクセが染みついてしまった訳です。

元々の親様としての神様から分かれた、霊なる人間としては、すべて神様の子供であり、兄弟姉妹であるはずのことを忘れ果てて(?)、自らの利害得失計算を最大化させるべく、かなりの人が利己主義に狂奔する志儀に相成ってしまった訳です。

しかも、自己保存の本能を持たされ、肉体人間こそが人間だと思い込み、利己的なたくさんの輪廻転生を繰り返すうちに、真善美に悖る神様のみ心に適わない、愛に背いた人間としての想いと行い、いわゆる、業想念を積み重ねるようになってしまったのです。

しかし、私達肉体人間の本質、すなわち、神様に照らし合わせる時、こうした、業想念は、あってはならないものとなるのです。

だから、例えば、今生で他人を傷つけるなどの業想念を為してしまったら、輪廻転生を通して、来世以降に、生まれ変わり、同じく、来世以降に生まれ変わった相手と主客転倒する立場になり、傷つけられるという形で、業想念はなかったものとして、清算しなければならないようになっているのです。

しかも、お互いに、輪廻転生を通すと、過去世の記憶をなくした形で、この世で出会い、過去世の因縁の清算をしなければならないのです。

なぜならば、業想念は、神様には、本来あってはならないものだから。

つまり、肉体を与えられ、自己保存の本能を付与されても、輪廻転生という長い長い時間をかけて、本質の霊なる人間にふさわしい肉体人間となるように、矯正を繰り返すようになっているのです。

以上のように、神様と人間をとらえた場合に、悟りとは何かを考えます。

悟りとは、人間の本質とは何か、ですよね?

これは、肉体人間とは、どういうものか、その本質は何か、つまり、神様と人間との関係は何か、になってくる訳です。

そうすると。

人間とは、特にこの世の人間とは、神様の分けられたお命を頂いて生きている者に他ならないのであり、その本質は神様そのものだ、ということになります。

そうであるならば、悟りを開いたならば、人間の本質は神様になるのですから、本来は、自他共に同じ神様の子供の兄弟姉妹であるという、愛に満ちた存在をあらわさなければなりません。

自分さえ悟りを開けば、他人はどうなってもかまわない、他人が自らの輪廻転生を通して招いた業想念の清算、言ってみれば、この世の病争貧苦で苦しんでいようが、知ったことか、とはならない。

神様がありとあらゆるものをおつくりになり、それぞれにそれなりに愛を施すように、神様を本質とする私達も、愛を施すべきだ、ということになります。

ましてや、過去世の因縁により、敵対する形になってこの世にあらわれている相手でさえ、同じ神様の分けられたお命を宿していると解釈する以上は、苦しんでいれば、やはり、救うべきだ、となります。

結論として。

悟りを開いたら、この世でいまだ悟りを開くには、ほど遠く、苦しんでいる人がたくさんいれば、人間の本質、この世の有り様を知らせて、よい生き方をして、少しでも苦しみを取り除くように、教え導く、すなわち、伝道するのは当然という結論になります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2023/03/27 03:58
②追記: 2023/05/15 23:14
 〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。

②について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。

この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。