おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

735_ひしみー156

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 734_ひしみー155 ) の続きです。

前々回 ( 733_ひしみー154 ) と前回 ( 734_ひしみー155 ) で書いた内容から、昆虫や動物や肉体人間の命を奪う、または、奪われることはあってはならないことの基本については、ご理解頂けたと思います。

すなわち、昆虫も、動物も、肉体人間も、造物主・創造主としての神様にその命の息吹きを吹き込まれることで、この世に生きていくことができている生物としての存在に他ならないのであり、従って、その生殺与奪の権限は、本来的にそうした命の息吹きを吹き込んで、与えている神様にしかないものであろう、と。

というのは。

少なくとも、私達肉体人間には、昆虫も動物も肉体人間も、まっさらの一から造り出すことはできない。

昆虫や動物や肉体人間の身体を生成する物質も、これを有機的な生命体として生かしていく命も、何から何まで、絶対的な力を持つ何者か=神様によって、あらかじめ与えられている、としか考えられないからです。

従って、(ちょっと語弊があるかもしれないけれど)昆虫も動物も肉体人間も、一から造り出して、命を与えて、生かしている神様ならば、その昆虫も動物も肉体人間も、制作をして、生物としての命を与えて、しかも、生かしているのだから、当然の権利として、使用・収益・処分する権利がある、と理屈では考えることができる訳です(実際は、神様はありとあらゆるものを愛情を持って与えているだけなのでしょうけど)。

つまり、昆虫も動物も肉体人間も、その終焉に当たっては、みんな神様によって生かされている存在なのだから、神様が何らかのご意思で、その命を終わらせるとなったら、文句を言える筋合いではないだろう、ということです。

以上は、とりあえず、昆虫や動物や肉体人間に話を限定して考えてきた訳ですが、ならば、植物その他はどのように考えたら良いのか?

結論を簡単に言えば、植物その他についても、まったく同じことが言えます。

つまり、植物その他にも、やはり、神様の何らかの命の息吹きが与えられたからこそ、この世に生まれ、成長し、衰退し、その生をまっとうするものである、と。

従って、いわば、神様の一種の化身とも取れる訳で、当然にそれなり(植物などなり)の意思を持っている、生きている、と考えることができます。

つまり、肉体人間も、動物も、昆虫も、植物その他ありとあらゆるものも、さらには、こうした生物ではなく、まったく動かない、個体としての物質も、この世にあらわれたものである以上は、神様の何らかの化身であり、それなりの意思を持っている、と。

ここまでくれば、もうおわかりですよね?

そう、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、あるいは、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)とほぼ同じことを言っているんです。

しかし、こうした言葉ではなく、やはり、大元の考え方は神道の考え方が元ですね、これは。

神様がお造りになったのだから、それなりの神性がある(肉体人間だけは神様の分けられたお命を、霊魂魄の霊として特別に与えられた神様の子供に相当する訳だから、他の動物などとは明確に異なり、本来ならば気高く生きて、ありとあらゆる生物を取りまとめて最終的に調和をさせていく役割があると思われる)のなんて当たり前。

何も突然のように、とってつけたような、これらの概念を作り出すことも、持ち出すまでもない。

まあ、とにかく。

(西欧的ではない)造物主・創造主としての神様を認めて、演繹的に素直に考えていけば、自ずとわかる話だからですよ。

だから、肉体人間も、動物も、昆虫も、植物その他も、個体や液体や気体でも、
ありとあらゆるものは、いわば神様の化身であり、
粗末にしてはならない、
ましてや、生き物を殺してはならない、物質を破壊してはならない、液体や気体を消滅させてはならない、
ということです(理屈だけで考えるとこのようにきりがなくなるのですが、ひとまずここまでにします)。

このように考えてくると、さらに、何かお気づきになることはありませんか?

そう、食物連鎖のことと、肉体人間の摂取する食事はどのように理解したらよいのか?という話です。

続きは、次回以降とします。

ご了承願います。

なお・・・。

お気づきかとは思いますが、私は、造物主も、創造主も、神様もすべて同じ意味合いで用いています。

すべてのありとあらゆるものを造り出す、万物の根元という存在として。

造物主・創造主・神様に西欧も、東洋も何もありません。

強いて、特定の言い方をすれば、地球を統括する、さらにもっとずっと広げて、宇宙全体を統括する神様の意味合いで、造物主・創造主・神様を書いています。

この地球上には、たくさんの民族があるのだから、自分だけがただ一人ご宣託を受け、われこそは・・・、と自らにかかわる神様だけに固執して、他の一切の信仰を排斥する形での独善的かつ排他的な神様や信仰は、地球の調和を乱し、争い事を起こす原因を作る以外の何物でもありません。

宗教のズブの素人としての独断と偏見として、勝手にそのように考えています。

お気づきの方もいるかもしれませんが・・・。

私がこうしたことを言っているのは、結果としての現状から遡って考えているのです。

これまで何回か触れたように、この世に肉体人間として生まれてくること自体が、貴重なことなんです。

私の考え方とは、違う形ですが、仏教で触れられているからです。

それに触れてきました。

話を戻すと。

神様の命の働きかけがなければ、この世には生まれ出てこないし、成長してはいかれないし、生きてはいかれない。

この世に生を受けること、成長していくこと、有機的生命体としての肉体人間として生きていることは、すべて神様の命の働きかけによっている。

そうした、神様のお力という、摩訶不思議な力の働きかけでしか、この世に誕生しない、生きてはいけない肉体人間が、この地球上に様々な人種に分かれ、たくさん、たくさん生きている。

ということは、この地球上にたくさんの肉体人間があらわされたということは、神様のご意志と解釈することができます。

肉体人間の意志だけで、肉体人間の構成要素から、それを生かす命から何から何まで、一から造り出すことができないものを、
万物の創造力をはじめとした絶対的な力をもつ何者か
サムシング・グレート
=神様が、
この地球上にあらわしているからです。

だから、自分達だけが選ばれし民族だからと勝手に決めつけて、他の民族を好き勝手し放題に、使用・収益・処分していいはずがありません。

仮に特定の民族を使用・収益・処分するというのなら、その権利、すなわち、生殺与奪の権限は、あくまでも創造主・造物主の神様にしかないはずです。

神様は、黙って私達肉体人間をこの地球上にたくさん、たくさんあらわしている。

ならば、世界平和の祈りのようにして、各人がかなりの人格の向上、もっと言えば、かなりの霊性の開発に努めて、それでも、不幸や災難、戦争や天変地異が、避けられなければ、そこで初めて、それは神様のご意志であり、神様のおつくりになられた法則(因縁因果の法則)を違(たが)えて、仕方がない現象ということになる。

それを、形而上学的に、頭ごなしに自分だけが神様のご託宣を受けたんだ、自分達だけが選ばれし民族なんだ云々、というようななされ方を、果たして神様がなされるのでしょうか?

単純思考で、単細胞な私には、どうしてもそのようには、考えられないのですよ。

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①追記: 2023/12/09 00:10
②追記: 2023/12/09 14:27
③追記: 2023/12/09 22:39
④追記: 2023/12/10 00:25
⑤追記: 2023/12/18 15:35
⑥追記: 2023/12/19 04:01
⑦追記: 2023/12/20 06:05
⑧追記: 2023/12/21 07:38
⑨追記: 2023/12/21 18:50
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

734_ひしみー155

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 733_ひしみー154 ) の続きです。

五戒の「1.不殺生戒」の続きです。

では、前回書いたことを踏まえた上で、生き物を殺すこと、中でも、「なぜ人を殺してはならないのか」を考えてみたいと思います。

前回述べたことは、あらゆる世界は、神様によって造られたものである、神様が造物主である、創造主である、と考える立場から、あらゆる生物(植物その他も含まれるが、ここでは、昆虫や動物や、肉体人間に限って話をする)は、神様あってのものである、神様の命の息吹きを吹き込まれていて、生かされているからこそ、生きていける、ということを前提にした話な訳です。

そこで、肉体人間、いわゆる、世間一般的に万物の霊長とされる肉体人間が、なぜ、同種の他の肉体人間を殺してはならないのか、を考えます。

まず、動物以下の生物と肉体人間には決定的な違いがあります。

これをまず、踏まえておく必要があります。

それは、私達この世にあらわれている、肉体人間の本質(本体)は、神様の分けられたお命である、霊魂魄(れいこんぱく)、すなわち、神様の分霊(わけみたま)である、ということです。

動物のラインやお猿さんの本質(本体)が、魂魄(こんぱく)であるのに対して、私達肉体人間の本質は、この動物の魂魄に加えて神様の分けられたお命という霊を直接に与えられ、霊魂魄(れいこんぱく)となっているのが、決定的な違いとなります。

神様が造物主・創造主である以上、あらゆる生物は、神様に生かされている、その生殺与奪の権限は、突き詰めて考えるとすべての命の大元となっている、大霊である宇宙神のような大神様にしかない、動物と人間でも殺し合ってはならない(食物連鎖などの動物の殺し合いについては後述する)のは当然となるし、ましてや、動物の上に立つ万物の霊長であり、神様の分けられたお命を直接頂いている肉体人間同士は、殺し合ってはならないのは当然だ、と考えられます。

肉体人間と動物間のような、異種生物間でも殺し合ってはならないのに、ましてや、肉体人間が他の肉体人間を殺す、ましてや、肉体人間同士が殺し合いをすることなど許されないことになるであろう、重い理由は、果たしてどこにあるのか?

これは、神様それ自体が、真善美に悖らない、愛そのものの存在であるからだと考えられます。

ゆえに、神体に、想いである幽体をまとい、さらには肉体をまとい、この物質世界のこの世を生きていく都合上、わが身(とその近しい者を守る)自己保存の本能が与えられていても、本来の肉体人間のあるべき姿というのは、真善美と愛に悖らない、神様のお姿を映したものでなければならない訳です。

そんなあるべき姿を、この世にあらわしていかなければならないはずの肉体人間が、他の肉体人間を殺す、さらには、肉体人間同士で殺し合うことなど、あってはならないことになるからです。

真善美と愛に悖らない神様が殺し合う、あるいは、他の神様の分けられたお命を宿す同胞に当たる者を殺す。

そんなことが許されるはずもないし、あってはならない、とするのが順当な論理的な帰結として考えられます。

このように考えてくると、殺人は、そもそもその行為それ自体が、絶対にしてはならないことになるんですね。

しかし、私達が、想いをまとって、さらには、肉体をまとって、この世に天下ってしまうと、自己保存の本能(神体という細かく微妙な波動の存在から肉体という粗い波動の存在になったこともあり)、本来の神様にはなかった、真善美に悖る、様々な想い(と行い)を抱いてしまうために、この世で清算すべき真善美に悖る、過去世で積み重ねた悪い因縁を持った、たくさんの肉体人間がこの世に生まれて、この世で逃れることのできない病争貧苦などが、たくさん、たくさん、あらわれてくる訳です。

話がそれました。

私達肉体人間の本質(本体)は、神様の分霊である。

であるならば、主体として、神様の分霊を頂く他人を絶対に殺してはならないし、客体として、神様の分霊を頂いている人間として、同じく神様の分霊を頂いている他の肉体人間に殺されることなどは絶対にあってはならない。

これが、人を殺してはならない根本的な理由と考えられます。

過去世の悪い因縁により、この世にどんなに争いが起き、殺人事件が起きたりしても、こうして、本来的には殺人そのものが、絶対悪としてあってはならないものとなる。

つまり、本来は、宇宙神か、その生殺与奪の権限を任された上位の神様(肉体人間の場合は守護神様)にしか生殺与奪の権限はない、さらには、たとえ、神様の子供として肉体を持ち、業の深い肉体人間としてこの世に天下っていたとしても、神様の子供同士の間で、殺しや殺し合いがあってはならないのが、殺人が認められない根元的な理由となります。

本質だけを見てごく簡単に言うと、真善美と愛を体現する神様が、相争い、ましてや、殺し合うなんて、あるはずがないでしょうが、ということです。

だから私は、古来からある神話でもなんでも、これは神様の話などではなく、業想念にまみれた肉体人間同士の話に過ぎないのではないかな、と思えるような話が好きになれないんですよ。

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①追記: 2023/12/08 06:10
②追記: 2023/12/08 06:20
③追記: 2023/12/08 07:05
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

733_ひしみー154

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 732_ひしみー153 ) の続きです。

今回は、仏教の五戒について、宗教の素人、仏教の素人のごく普通の感覚を交えて、勝手に書いていきます。

手元にある、仏教について書かれた 20 冊弱の仏教に関して一般的に書かれた書物(大蔵経の第 1 巻は除く)には、五戒について詳細に解説してあるものはないので、あくまでも素人の視点から、見ていくということで・・・。

なので、言ってみれば、以下に書く五戒についての解説(?)は、素人の雑談としか思われないでしょうから、仏教について厳密に知りたい人は、時間の無駄になると申し訳ありませんので、このページを閉じて下さい。

ということで、仏教の五戒について書いていきます。

1.不殺生戒~ふせっしょうかい~殺すなかれ。要するに、生き物を殺してはならない、ということ。人間はもちろんのこと、動物や昆虫にまで至る。

既に、 ( 622_ひしみ-044 ) その他で触れたように、お釈迦さんは、最後の旅路で、道端(当時は自然の荒れ野そのままのかなりの荒れたデコボコ道を歩いていたと思われる)の虫を踏み潰して、殺してしまわないように地面を見ながら、しかも虫を踏んでしまっても、衝撃を少しでも緩和させるためか、裸足で歩いていたとされている。

生きている動物などを死なせてしまったら、もう二度と甦らせることはできない。

これはおそらく、動物の魂魄(肉体人間だけは神様の分けられたお命を霊として特別に頂いているので霊魂魄)にある霊線が切断されてしまい、二度と神様の命の息吹きが通わないようになってしまったからだ、と思われる。

肉体人間が、死んだと思っても生き返ることがあるのは、霊魂魄と肉体を結んでいる霊線が切断されていないから、甦ることができるものと考えられる。

とにかく、虫も殺してしまったら、甦らせることはできないのだから、その命を大切にしよう、ということですね、これは。

これはどういうことかを、私なりに再解釈させてもらうと。

世の中のありとあらゆるもの、中でも、昆虫や動物や肉体人間は、神様の命の息吹きを吹き込まれているからこそ、生物として生きていると考えられる。

これがなくなってしまったら、昆虫の身体、動物の身体、肉体人間の身体は、あたかも脱け殻のようになってしまい、次第に干からびていき、物質に帰してしまい、二度と生命体としての昆虫や動物や肉体人間として生きていくことはできなくなってしまう。

つまり、昆虫や動物や肉体人間を殺してしまうことは、神様の命の息吹きを吹き込まれて、神様に生かされている生物の命を、こちら側の都合で、何らの恣意があるなしにかかわらず、勝手に遮断してしまうことに他ならない訳です。

神様だからこそ造り出した昆虫や動物や肉体人間を、
神様によって生物として生かされている昆虫や動物や肉体人間を、
言い換えれば、神様の命の息吹きを吹き込まれてしか生きることのできない昆虫や動物や肉体人間を、
神様の何の許可も取らずに、勝手にその命を断ってしまってもいいものなのか、
この世に、お互い神様に造り出された生物同士としての存在なのに、私達肉体人間(神様の分けられたお命を頂いてこの世に天下り、輪廻転生を通して数々の業を積んでしまった悟りを開けない、神性をあらわすにはほど遠い、ごく普通の私達肉体人間)の都合だけで、神様に造り出された他の生物を身勝手に殺してしまってもいいものなのか、
という話になるんですね、これは。

突き詰めて考えると。

だから、生物としての昆虫や動物や肉体人間を、無意識的にでも、もちろん、恣意的にでも殺してはいけない、という話になるんです。

神様によってしか生きていけないものを、
神様にしか、生殺与奪の権限がないはずのものを、
私達にその権限があると思うのは、おこがましいし、傲慢でもあるし、不遜でもあるし、越権行為もはなはだしい、ということになるからなんですね、これは。

普通、一般的な仏教の書物や仏教の先達のお話などではまったく出てこない、ましてや、唯物論的にしか仏教をとらえず、神様を否定する人達の話が、どんなに「殺すなかれ」と、説いていても、わりきれずモヤモヤした感じを残してしまうのは、ここまで話を掘り下げていないからなんですよ。

私達各人の深層にある神意識にまで届いていないから。

だから、神様の存在を否定したまま、いくら「殺すなかれ」と説いても、本当の説得力がない、中途半端なものにしかなっていないように思えて仕方がないんですよ、悪いけど。

ちょっと長くなったので、今回はここまでとします。

ご了承願います。

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①追記: 2023/12/07 23:46
②追記: 2023/12/07 23:50
③追記: 2023/12/08 00:00
④追記: 2023/12/09 19:10
⑤追記: 2023/12/11 02:43
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

732_ひしみー153

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 731_ひしみー152 ) の続きです。

今回は、お釈迦さんが、大資産家の息子で家を飛び出してきて遭遇したヤシャに対して説いた、仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、第二の戒論(戒めの訓話)について、考えてみたい。

ひろさんは、戒(シーラ)は、それを自発的に守ろうとすることが大事だと言う。

また、戒は良い習慣性を身につけ、悪い習慣性をやめることを目指すことでもあると言う。

じゃあ、そもそも、その習慣性の善し悪しを見分ける基準はどこにあるの?

何となくですか?

これは、(人によって(=その人その人の過去世の因縁によって)感覚的な幅のバラつきはあるにせよ)人間としてごく自然に感じる、感覚的なものを、基準=よりどころとしているのではありませんか?

八正道もそうだけど、そもそも、良い、正しい、という判断は、どこから来ているのですか?

仏教の教学は、この三論に限らず、四諦・八正道・十二縁起もそうだけど、こうした肝心要のことに対する説明がまったくなくて、暗黙の前提としてこれを(恣意的に省いているのか、無意識に飛ばしているのかはわからないが)すべて抜かした上で、いかにも精緻に見える、割り切りのいい数字で飾られた抽象的な概念を説いているように感じられてならないのですよ。

そうした実質的な背景を抜かした上で、見た目の形式的な美しさを伴う教理・教学に陶酔しているきらいがある、と。

私には、抽象的過ぎて、難し過ぎてわからない。

そもそも。

私達の物事に対する良い、悪い、の善悪の判断はどこから来るの?

私達の物事に対する正邪の判断はどこから来るの?

私達のこれらを判断する、感覚的な要因は何で、これは一体どこから来ているの?

これは、やはり、私達肉体人間の本質=本体が、真善美と愛に悖らない神様の分けられたお命という霊魂魄=分霊(わけみたま)にあるからではないですか?

こうした、神性(仏教で言えば仏性)が、私達の本質にあり、それによって、この肉体が生かされ、有機的生命体として機能しているからこそ、善悪、正邪を判断する能力が、自然にそなわっているのではありませんか?

もちろん、個々の肉体人間によっては、過去世の因縁が悪い、業の深い因業人間やサイコパスのような人がいても、判断能力の基本は変わらないはずです。

肉体人間は、動物的な側面を持っていても、神様の分けられたお命を、霊魂魄の霊として直接に頂いていて、この神性によって、この肉体は有機的生命体として機能しているし、神様としての判断能力も当然のようにそなわっているのだから。

ただ、その感覚や判断能力が、過去世の因縁によっては、著しく制限されたり、曇らされてこの世に生まれてくる場合があるだけのことで。

だからこそ、仏教の(今まで読んできた仏教の十数冊の本には出ていなかったけれど)戒は、良い=真善美と愛に悖らない、すなわち、神様のみ心に適う、肉体人間としてのあり方を身につけるようにする、これを目指す、と。

だからこそ、悪い=真善美と愛に悖り、神様のみ心に適わない悪い習慣性をやめるようにする、これを目指す、と。

つまり、私達肉体人間の本質が神性(仏性)にあるとする限り、肉体人間として、真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適う肉体人間としてのあり方を、目指して、求めていくことは当然になるから、
他人も同じ神様の分けられたお命をその本質に頂く同胞に他ならないのだから、互いに慈しみ、尽くし合うことも当然となるし、
様々な施しもできることなら自ずとやるべき(施論)だし、
良い習慣性を身につけ、悪い習慣性をやめることも目指すべき(戒論)なのも当然、
という結論になる。

ということで、三論の 2 つ目の戒論までは終わりにして、次回は、五戒について同じようにして、神性を基準にして考えてみたいと思います。

731_ひしみー152

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 730_ひしみー151 ) の続きです。

今回は、お釈迦さんが、ヤシャに仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、第二の戒論(戒めの訓話)について、ひろさんのお考えを批判的に検討していきたい。

まずは、ひろさんのお話の概要から。

ひろさんによると、日本語とは異なり、サンスクリット語には「戒律」という言葉はないそうだ。

サンスクリット語にあるのは、「戒(シーラ)」と「律(ヴィナヤ)」になるそうだ。

その「戒」は、日本語なら習慣性に相当するもので、良い習慣を身につけ、悪い習慣をやめることが、「戒」に当たるらしい。

これに対して、「律」は、罰則規定なのだそうだ。

ひろさんは、ここでは、この「戒」と「律」を、在家信者と出家者(出家修行僧・出家信者)とに分けて、お書きになっている。

おおざっぱに言うと、在家信者は、戒を守り、出家者は、出家した集団としての仏教教団への責任も生じることになるので、戒だけでなく、罰則規定の律が設けられているとのこと。

だから、在家信者にあるのは、戒のみになるらしい。

で。

普通、仏教で戒と言えば、連想されるのは、五戒、すなわち、
1.不殺生戒
2.不妄語戒
3.不偸盗戒
4.不邪淫戒
5.不飲酒戒
の 5 つのものがあるが、ひろさんは、お釈迦さんがヤシャに戒を教えたとはいえ、この五戒すべてを教えたかどうかは、不明だとしている。

というのは、仏教教団のはじめっから戒が、この 5 つにまとまっていない可能性もあるからだそうだ。

だから、ひろさんは、お釈迦さんがヤシャに教えた戒は、これらの戒の項目すべてではなくて、戒の精神といったものであるかもしれない、としている(五戒の具体的内容は下段に記す)。

ざっと言って、この五戒は、出家者でさえ、厳密に守ろうとすれば、難しい項目だ。

ましてや、在家信者には、(言っては悪いが)ほとんど守れないような項目ばかりだ。

在家の立派な人格者として生きている人でも、この 5 項目全部を厳密に守ることは、おそらく不可能だろう。

それほどに厳しい 5 項目だ。

ひろさんは、(こうした五戒が破られ易いことを踏まえたからだと思われるが)戒は、いわば、生きる上での姿勢といった羅針盤ではないか、としている。

そして、
「戒が破られるからといって、羅針盤としての戒が不要なのではない。
私達はいつもしっかりと人生を歩む方角を定めていなければならない。
釈迦はそのように考えて、ヤシャに戒を教えられたのであった」
としている。

~~~~~

・五戒について

1.不殺生戒~ふせっしょうかい~殺すなかれ。要するに、生き物を殺してはならない、ということ。人間はもちろんのこと、動物や昆虫にまで至る。

2.不妄語戒~ふもうごかい~嘘をつくなかれ。嘘をついてはいけないということ。

3.不偸盗戒~ふちゅうとうかい~盗むなかれ。何物をも盗んではいけないということ。

4.不邪淫戒~ふじゃいんかい~淫らなセックスをするなかれ。在家信者には淫らでなければ、セックスは禁じられていない。ただし、出家者は一切のセックスは NG。

5.不飲酒戒~ふおんじゅかい~酒を飲むなかれ。これは、他の項目に比べると多少重要性が落ちる(?)と思われる方がおられるかもしれない。
これは、お釈迦さんがダンマパダに酒のもたらす良くない副作用(?)をたくさん列挙しているので、そうした意味合いもあるのかな?
ひろさんは、それ以外にも、インドは日本よりも暑いので酒(多分、水分という意味合いだろう)を飲むと働きたくなくなる側面も考慮に入れるべきだとしている。

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追記: 2023/12/05 21:38
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

730_ひしみー151

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 729_ひしみー150 ) の続きです。

今回は、お釈迦さんが、ヤシャに仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、施論(施しの訓話)について、ひろさんのお考えを批判的に検討したい。

まずは、ひろさんのお話の概要から。

「施論」とは、「布施」の教えである。

ひろさんが、施論の解釈で最も優れているとするのは、日本の禅僧の道元の解釈だとして、道元の「正法眼蔵」の「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の以下を引いている(現代語訳だけを記す(改変あり))。

「布施とは不貪(ふとん)である。不貪とはむさぼらないことである。
むさぼらないとは、世にいうへつらわないことだ」

ひろさんによると、道元のこれを現代風に解釈するとこういうことらしい。

すなわち、満員電車で老人や身障者に席を譲るのは布施だが、最初から座らないのが布施だ。
なぜならば、私達が座りたいというむさぼりの心を抑えれば、座りたい人は自ずと座れることになるからだ。

ひろさんによると、これが道元による布施の解釈で、賛成できるとのこと。

私達は、日々の生活で「得をしたい、損したくない」という気持ちを持ち、これが欲望であり、貪欲であり、エゴイズムだそうだ。

そして、ひろさんは、「ちょっとぐらい損してもいいではないか」という気持ちを持つのが、布施の心だとしている。

そして、これが宗教心の第一歩になるのだそうだ。

というのは、損したくないのは、この世で成功したい願望であり、大事なことになるからとのこと。

しかし、宗教、中でも仏教は、この世に最大の価値を置かないとされる。

なぜなら、この世で栄華をきわめても、たかだか百年程度であり、永遠の至福を求めるものとはならないからだそうだ。

永遠の至福を求めるのが、宗教であり、仏教であるとのこと。

従って、われわれは、この世の中を馬鹿にした方がいい。
馬鹿にする言えば喧嘩腰になってしまうが、まあ、ほんのちょっと軽視した方がいい。
いや、世の中の一般の人のようにあまり世間を重視しなさんな・・・! というのが仏教の第一歩である。
それにはちょっとぐらい損したってかまわないという気になることだ。
釈迦はヤシャに、そのことを教えられた。
それが施しの理論である。
(この節はほぼ原文のまま)

・・・。

「われわれは、この世の中を馬鹿にした方がいい。
ほんのちょっと軽視した方がいい」

うーん、ちょっと違うんじゃないかなあ、これ。

ひろさん(と道元さん)の言われていることは、積極的に施すことはしなくても、自分がむさぼりをやめればいい、ちょっとだけ譲るのがいい、と言っているように見える。

むさぼりさえ控えれば、これは何とかなる、と。

そのためには、世の中の一般的な常識にありがちな、自己中心的な損得勘定の得ばかりにとらわれる、つまり、こうした世間一般の常識におもねるというか、迎合することなく、損を受け入れよ、といった感じか・・・。

でもねえ。

これは、修養レベルのさらにその入り口の話だから、仕方のないことかもしれないが、あまりにも恣意的な要素が強すぎますよ。

世間に媚びるなって言ったって、その時々の社会情勢によっては、基準がどう変わるかはわからない。

みんなが互いに譲り合い、つつましく暮らすのが当たり前の常識となる場合もあるかもしれないし、その反対に、他人を押し退けてでもしなければ、生きてはいけない厳しい常識を持たなければならない場合もあるかもしれない。

だから、不確かな世間を基準にするのはやめて、自らの置かれた環境下で、あくまでも自分を追い込み過ぎないほどに、無理のない範囲で、施しができるなら積極的にすればいいし、積極的な施しに無理が生じるくらいならば、ちょっと譲るようにすればいい。

ちょっと譲るのにも自らを犠牲にし過ぎるなど無理が生じるなら、一切の施しもせず、譲るのもやめればいい。

要するに、自らの想いが、真善美と愛という神様のみ心に悖るようなら無理な布施はしない。

想いを乱さないほどに余裕があれば、可能な限り譲るか、積極的な施しをする。

本来の宗教心としては、愛一念で、他人が求めてくるものは惜しみなく与えるのが理想です。

しかし、私達はこの世を生きていくために、自己保存の本能が与えられているから、そもそも、愛一念で他人にすべて捧げる理想は実現できないようになっている。

どうしても、わが身、わが命、わが身内や近しい人達を優先せざるを得ないようになっているのです。

だから、わが身や近しい者を無理にでも犠牲にするのは、却って世の中に争いや不和をもたらすことになりかねないのです。

従って、移ろいやすい世間云々を基準にするのではなくて、積極的な布施の気持ちは心にとどめ置きながらも、あくまでも無理のない範囲で、自然な施しや譲歩をするのが穏当だと個人的には考えます。

729_ひしみー150

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 728_ひしみー149 ) の続きです。

律蔵のマハーヴァッガは、かつての修行仲間である五比丘が、お釈迦さんの教導で、(おそらく数ヶ月で)悟りを開いて阿羅漢になってしばらくして後に、ヤシャというヴァーラーナシーの大資産家の息子が入信したと伝えている。

つまり、ヤシャは、はじめて仏教に入信した僧侶以外の在家の者ということになりますね。

ヤシャは、豪邸に住み、遊女(あそびめ)に囲まれて、贅沢きわまりない暮らしをしていた。

そうして遊び暮らしていたヤシャは、ある夜目覚めると、昼間は美しかったはずの彼女達が、ある者は化粧も剥げ落ち、またある者は髪を乱し、またある者はよだれを垂らして寝ていた姿を目の当たりにした。

ヤシャは、この有り様がショックだったのか、「まるで墓場だ」と感じて、衝動的に家を飛び出してしまった。

そうして彼は、鹿野苑の方向に「ああ、悩ましい、ああ、煩わしい」と呟きつつ、歩を進めて行った。

そこで、経行(きんひん。座禅中に眠気が生じるのを防ぐためのそぞろ歩き)をしていたお釈迦さんと出会い、「青年よ、ここに来て座るがよい。ここには悩みはない。ここには煩いはない」と声をかけられることになる。

そこで、お釈迦さんは、まず自らの教えを説くにあたっての基礎の基礎となる、教え=施しの訓話、戒めの訓話、生天の訓話、の 3 つの訓話を説いたとされている。

律蔵のマハーヴァッカでは、以下の通り(改変あり)。

「良家の子ヤサが一隅に座った時に、尊師(←お釈迦さん)は彼に順序次第に従った訓話を説かれた。
すなわち、施しの訓話、戒めの訓話、生天の訓話、諸々の欲望の患いと害悪と汚れ及び出離の優れた利益とを説かれた」

それから、お釈迦さんは、四諦の教えを説いたとされている。

ひろさんによると、これは地ならしだそうだ。

すなわち、仏教のアマチュアである彼に対して、いきなり仏教の教理・教学を説くことはできないから、仏教を教えるための準備としての基礎固め、ということらしい。

そして、ひろさんは、この節 (・アマチュアの青年への教導 ) では、施しの訓話、戒めの訓話、生天の訓話、(施論、戒論、生天論の三論というらしい)のうちの施論についてお書きになっているのだが・・・。

ちょっと、おかしいというか、違うんじゃないかなあ、これは・・・という話になってるんだなあ、これが。

次回以降に、それらのご紹介をしてその都度批判的に検討するか、一通り三論をご紹介した後の数回後に、まとめて批判的検討をするかは、まだ決めていません。

すみませんが、ということで、とりあえず、三論の戒論などは、次回以降とします。

ご了承願います。

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①追記: 2023/12/03 21:32
②追記: 2023/12/04 05:18
③追記: 2023/12/04 05:23
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。