おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

286_雑感13

前回(285_雑感12)に書いた因縁因果や過去世の話を再度します。

自分としては、できるだけわかりやすく、平易に、と考えて書いているつもりなのですが、あとから読み返して見ると、どうもモヤモヤとした書き方だなあ、と感じるところがあったりするので、補足をします。

あれでも、少しは推敲をして書いているんですけどね。やっぱり、あらゆる方面で基本的に力不足なんだな、と痛感しております。

で、前回(285_雑感12)の中で、わかりにくいと思われる箇所を追記します。

現世での不条理な出来事、苦しみの原因、因縁の大半は過去世にあり、これは特別な人を除いて、一般的な私達にはわからないものとなっている、と書きました。

まずは、特別な人を除いて、一般的な私達にはわからない、という意味についてです。

特別な人というのは、仏教でいうところの宿命通(しゅくみょうつう)を備えた人のことを指します。

宿命通とは、自らや人様の過去世のすべて、輪廻転生を読み取ることのできる能力のことです。

なお、過去世とは、その人(当該の霊魂魄)が何回も輪廻転生を繰り返したその全体像を言います。

宿命通は、神様のおはからいで特別な使命を帯びてこの世に遣わされた人や、個人的にかなりの修行を積んで獲得する(これも結局は過去世の因縁からそのように守護の神霊さんに導かれた人である可能性が高い)ものです。

だから、それ以外の一般的な私達には、縁がない、備わっていない能力なので、あのように書きました(ただ、私達は霊性が開発され尽くして神様の子供そのままのようになることができれば、誰しもが仏教でいうところの六神通(ろくじんつう。宿命通はその中の一つ)を備えることになるんでしょうけど)。

一個人の過去世のすべてを俯瞰(ふかん)することができれば、原因たる過去世の因縁から導かれた今現在あらわれている結果としての因果の関連の、一部始終をすべて理解することができることになります。

そして、これをただ知ることができるだけでなく、その当人が高い霊性を備えて、適切に人を指導して導ける人格者であることが必須となります。

従って、今現在あらわれている結果としての因果から、一般的な私達がわかることは、できることは、逆算と類推しかありません。

今現在の因果から、過去世であったことを逆算類推することしかできないのです。

今までに、何回か私達は神様の分霊が本体であり、その本質は神様である、と書いてきました。

神様は、全知全能、真善美に悖らない、完全円満な存在です。

ならば、自己保存の本能を付与されたとはいえ、私達肉体人間も、本来であるならば、神様であり、真善美に悖る想いや行いをすることはあり得ない、あってはならないことになります。

従って、肉体人間を使って、神様の世界をあらわすためとはいえ、その過程において生じた真善美に悖る想念や行為は、すべて消し去り、その想いや行いで生じた霊魂魄の汚れは浄めなければなりません。

そうして、最終的には、肉体身を持ったままで、神様のみ心をあらわし得る、神様の想いや行いをそのままあらわすことのできる肉体人間ができれば、悟りを得たということになります。

世界がこうした人で構成されるようになれば、神様の世界が地球の物質世界に映し出された、地上天国が出来上がる、となるのだと思われます。

とにかく、このような完全円満を欠いた部分を、穴埋めして修復するために、様々な因果があらわれてくると考えられるのです。

だから、今生で神様の想いや行いとしてはふさわしくない想いや行いがあれば、そこから逆算して、真善美が損なわれた想いや行いが過去世であったんだな、と推定できる訳です。

原則としてほとんどすべての人は過去世の記憶を持たない(あっても幼少時までに消えるか、記憶を持ったま夭折(ようせつ)するかなどしかない)から、これしか原因である因縁を知る術(すべ)がないんですよね。

ただ、それが、何代前の過去世での出来事か、相手方をはじめ、詳しい状況はどうだったのかまでは、宿命通を備えた人でなければわからない、ということになります。

以前、ごく簡単な事例として、傲岸に殴ることや身勝手な浮気などを挙げました。神様ならば、神様が本質であるならば、こうした想いや行いは、絶対にあってはならないことです。

なので、今生で何の思い当たる節がないのに、こうしたことが起きてくるというのは、自らが過去世でこうした想いや行いをしてしまっていた可能性がきわめて高い、ということになる訳です。

もちろん、過去世の因縁を原因とせずに、今生で新たに起こされた想いと行いの可能性もある訳ですが、大半(8割以上?)は、過去世を原因とするものであるらしいのです。

よって、何があっても、常識的な対処のほかは、とりあえず過去世の因縁が現世(この世、今生)で時を経て消えてゆく姿だとしておいて、祈りと感謝行で何とかおさめていくしかないように思うんですよね。

とにかく、できるだけ、あらゆる場合において、愛を行じる、そして、祈りと感謝行で神様にすがって、何とかやっていくしかないのかな、と。

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①追記: 2021/03/08 02:43 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

②追記: 2021/03/08 03:49 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

285_雑感12

前回(284_雑感11)因縁因果について、脅しのつもりではないのだが、まずい書き方をしたので補足をしたい。

hc や pc にアラサーやアラフォーのわがままな女性達に対して、コメントとはいえ、彼女達をひどく蔑んだ言葉を投げつけてしまうと、それらの言葉は、真善美に悖る言葉に他ならず、過去世の因縁によるものでない限り、輪廻転生を通してすべてご自分に返ってきますよと書いたくだりのこと。

まず、その前に。

因縁因果についておさらいをしておきたい。

これは話が外れることなのだが。

ちまたには、神様のことや仏教のことに関連させて、因縁因果の話をするものが、たくさんある。

例えば、あるCD付きの本の場合。

そのCDでは、教祖的存在(?)の実業家が、因果、因果とさかんに声に力を込めて力説(?)していた。

しかし、ごく普通の唯物論しか知らない、信用しないような人が、あれを聞いても、まず、わかりはしません。

その人は、この話を聞けるのは、神様に選ばれた特別な人云々などと言っていたが、あれではよほど霊性や因縁因果に詳しくない人でないと、理解ができない内容だからだ。

なぜなら、過去世の話がふっとんでいるから。

過去世の話を抜かしては、輪廻転生の話は理解できないし、あの話し方では、ほとんど理解はできない。

いくら、因果、因果、と連呼したって、あれでは理解できませんよ。

肝心要の部分を抜かしているんです。

それに、みんな、現世で因縁因果が完結していれば、悩みもしないし、こんな世の中になってはいないはずだから。

人間(ここでは肉体人間ではなく、神様の分霊たる霊なる人間が本来の人間とする)が、何べんも何べんも生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すことによって、上がり(=輪廻転生の卒業)になるまでには、たくさんの過去世を積み重ねていて、現世たる今生(今回の人生)の因果の原因、すなわち、因縁の大半は、その過去世の中にこそあるのだ、ということがまったく述べられていない。

だから、因縁因果の理解はほぼ不可能な内容となっている。

他方、仏教的に因縁因果を述べている人の場合。

お釈迦さんが、愚痴や報復の愚かさに触れている話に絡めて、因果たる現世での不条理な出来事を受け入れて、怒るなかれ云々としていたが、やはり、因果の元となる原因、すなわち、因縁が過去世にあることに触れていない。

あれでは、到底、納得できない内容だと思うのだけれど。

結果としての現世での不条理な苦しみなどの出来事が、どこに起因しているかをまったく触れず、言ってみれば原因をまるっきりぼかしたままで、ただ受け入れろ、といっても納得なんかできませんよ。

で、そもそもに戻ると。

私達は、人間は上述のように神様の分霊が、本体であり、霊なる人間こそが、本来の人間である。

ただ、地球さんという惑星を開発して、神様の世界を最終的にあらわす、完成させるために、肉体人間としてこの地球上に働きかけていくこととなった。

その肉体人間として、この物質の地球界を開発するための便宜上、本来にはなかった自己保存の本能を付与された。

そのために、本来なら神様の分霊を頂く神様の子供としてはふさわしくない、真善美に悖る想念と行為=業想念をすることになってしまった。

しかも、個々の肉体に分かれ、輪廻転生を繰り返すうちに、人間=肉体人間だ、との思いが抜きがたく染みついてしまった。

しかし、業想念は、神様としては、神様の子供としては、ふさわしくない、あってはならない想念と行為なので、輪廻転生を通してあがなう、償うという形で、矯正していかなければならない定めにある。

その償いが、この世で、病気、争い、貧乏、苦労といった、私達がもっとも嫌がる辛(つら)い形となってあらわれてくる。

だから、現世での不条理な出来事、苦しみの原因、因縁の大半は過去世にあり、これは特別な人を除いて、一般的な私達にはわからないものとなっているのですよ。

これを、あらかじめ踏まえておかないと、因縁因果の話は、納得ができないし、到底、わかりません。

今、この世の中で、因縁因果の法則が、すぐに誰にでもわかる形で機能していたら、誰も悪いこと(というか、真善美に悖ること)はできないし、しやしませんよ。

そもそも、すぐにバチが当たるなら、悪いことなんかできないはずです。

絶対と言っていいほどに、しないことになるでしょう。

誰だって、被虐的(マゾ)でない限り、痛い目や嫌な目に遭うのは好まないのだから。

だから、例外的な場合(霊性がかなり開発されて現世内で因縁因果がすぐに完結されるようになってくる場合)を除き、今生(今回の人生)で行った、真善美に悖る想念と行為のあがない、償いは、来世以降の何世目かに、因果としてあらわれて、償わなければならなくなる、ということです。

私が、世界平和の祈りと守護の神霊さん(守護霊さんと守護神さん)への感謝行をおすすめしているのは、このためでもあります。

私は、唯物論ではどうしようもない、現世内での不可抗力による苦しみを多少なりとも味わってきている。

祈りと感謝行は、このような苦しみのあらわれを、かなり軽減してくれる効果があるそうなんですよ。

だったら、こんなにありがたいものはない。

あらわれてしまったもの、果たすべき因縁としてやむなくあらわれてくる因果は仕方ないにしても、少しでも少ないに越したことはない。

まあ、こうした、ある意味功利的というか、救われたい一辺倒で、祈りと感謝行をしていても、やがては自然にあるべき形として、信仰として根付いていくのが、理想的な形ではありますが。

ざっと見た限りですが、あそこにコメントを寄せていた大半の方が、唯物論者であるようなので、以上の話は、信じるか、信じないかには、よりますけどね。

多分、これも因縁因果次第だとは思うのですが、信じて頂いて、祈りと感謝行をして頂くことを望みたいです。

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①追記: 2021/03/06 07:05 〜訂正内容〜

誤記(284_雑感11を、今回の285_雑感12と書き間違えていました)を訂正しました。

②追記: 2021/03/08 00:15 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

284_雑感11

以前に、vtuber (バーチャル youtuber。架空の個性を持つ人物などの存在を使ってYouTubeの配信を行っている人)のチャンネル hc(ハートカフェ) と pc (パウラちゃんねる)について、いくぶん否定的なことを書きました。

これらのチャンネルでは、現代の男女のあり方、特に昨今の婚活にかかわる女性のあり方などについて厳しく批判した類いの内容が出ていることが多いです。

ただ、これらのチャンネルの制作者の意図が、話題づくりをしてアクセスを稼ぎたいのか、それとも女性の改心を期待して(従って、結果としての彼女達の霊性の向上を期待して)のものなのか、それとも、これら双方なのか、はたまた、その他にあるのか、はわかりません。

ただ、ああした内容から、当然のことながら、コメントとして寄せられるものは、チャンネルの主張する内容と似通ったものになることが予想できます。

主に、チャンネルの主張に同意的で、件(くだん)の女性達に批判的な内容や悪口を主とするものになってしまうのです。

実際、ざっと見た限りでも、寄せられたコメントのほとんどがそうなっていました。

残念ながら、この世は、批判、否定(ディスり)、叩き(バッシング)がかなり流行っていますよね。

で、あれらのチャンネルでは、あからさまな批判、否定、叩きをせずに逆の形をとってはいても、かなりの皮肉を込めるような形で、実質はやはり・・・といった内容になっていました。

内実は変わっていませんでしたね。

これも、唯物論全盛と真善美に悖る業想念が満ち満ちている現代では、仕方のないことなんですかね。

で、批判のことなんですが。

仮に(あくまでも仮にです)、ああした女性達の改心だけを、チャンネルの主目的とした場合、あれでは、まったくといっていいほど、その効果はないとしか思えないんですよ。

批判や悪口は、言われた当事者の人々は行いを改めることは、まず、ありません。

ないんです。

そもそも、批判や悪口は、強制的な命令の効力や拘束力はありませんからね。

なので、あのような場合には、批判などをされた当事者の人達は、真摯に反省をするどころか、反発するだけで、不快感や怒りを買うのがせいぜいじゃないですか。

たとえ、指摘している内容が的を射ているものであったとしても、です。

そうでなければ、自分に都合の悪いことは、黙殺か無視されるのがオチでしょうね。

なので、当人達が身に染みて心から反省しない限り、行動が改まることは、まずないのですよ。

そもそも、ああしたことが彼女達の過去世の因縁のあらわれだとしたら、説教や批判や悪口などの唯物論で直すことはできないんです。

好ましくない因縁のあらわれや、これからのそのあらわれを直す可能性があるのは、ごくわずかです。

そもそもあれ自体が批判などをされて行いを改める、きわめてまれな因縁であるか、そうでない場合は、守護の神霊さん(守護霊さんと守護神さん)の裁量の範囲内での修正に頼るしかありません。

後者の場合には、さらに普段からの世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行が必須に近いものとなります。

なぜならば、普段から知らず知らずのうちに、たくさんのご加護を頂いていてさえも、あのような状況なんです(守護の神霊さんは、私達肉体人間が、その存在を知らずとも、それなりに守って下さっている存在だから)。

なので、祈りと感謝行がなければ、普段以上に悪い因縁のあらわれを修正して頂けることはほとんどないとしか考えられないんですよ。

従って、部外者の人間が、彼女達にして差し上げられることは、ただ一つ。

世界平和の祈りとともに、彼女達の天命がまっとうされるように祈り、彼女達の守護の神霊さんへ祈りの光が届くようにすることだけです。

あとは、彼女達の行く末がどうなるかは、すべて彼女達の守護の神霊さんのおはからい次第になると思います。

その結果がどうなるかは、わかりません。

ただ、外部から唯物論で、批判や悪口ばかりを言っているよりは、間違いなく彼女達のためになります。

だから、祈りと感謝行をして頂きたいのです。

この祈りと感謝行は、彼女達自身がしてくれれば、さらに好ましいことは言うまでもありません。

それと、これは別に気になったことなのですが。

やはり、現代の唯物論しか頭にない人々は、どんなにやり手でも、優秀でも、霊性がまったくダメだな、と言わざるを得ない人がいます。

以前、婚活スパルタ教師のような女性が、女性が 30才までに男を知らない(=処女であること)なんて気持ち悪いとした貞操観念を著しく軽視した発言を取り上げましたが、hc チャンネルのコメントを書いた男性にも、こんな霊性しかないのか、とガッカリしたものがありました。

その人の自己申告をそのままとすれば、年収800万以上の公務員、かなりのエリート男性です。

その人のコメントが、霊性の面からするとちょっとひどい。

40代後半の婚活女性が、産院で産める証明書を出せると書いていた事例について、嘲笑のような顔文字「(^-^;」を出し、「オエ」などときわめて無礼千万な表現を加えている。

私には、彼が当の婚活女性がどんな気持ちで検査を受けたか、どんな気持ちでいるかを微塵も考えていないとしか思えません。

私からすると、その婚活女性が、ただ額面通りに思い上がって、傲慢で楽観的な気持ちだけでいるとは到底思えないんですよ。

未だに結婚できないことへの焦り、これまでの生き方への後悔、信頼できる男性と出会えなかった嘆息などがないまぜになって、決して将来を楽観視している訳ではないと思いますよ(表立って言わないだけで)。

出産についての診断の結果が出るまでの間も、かなりの不安にさいなまれて、苦しい思いをしたのではないですかね。

だから、私には彼女を蔑(さげす)んだり、ましてや、嘲笑するような顔文字を使い、さらには、オエなどというとんでもない侮蔑表現をすることなど、絶対にできません。

絶対にできない。

彼は、かなりのエリートだから、勉学での苦労はしても、不可抗力による病気などの不幸は、あまり味わうことはなかったのでしょう。

だから、人様の立場に立ち、その気持ちを推し量ることができない(自らの立場をよくするために功利的に立ち回る忖度(そんたく)ではありません)。

人生の不可抗力による悲しみや苦しみを味わった人間なら、彼女に対してあんな表現をすることは、まず考えられないんですよ。

霊性のことを知らないということは、過去世の因縁のあらわれでない限り、現世(今回の人生)で行ってしまった、真善美に悖る想いと行為を、来世以降に必ず償わなければならないことも、当然、知らないでしょう。

ましてや、傲慢や侮蔑や嘲笑が、輪廻転生の上で、どれだけ甚大な意味を持つなど知るよしもないでしょう。

世間一般的にエリートとされる男性が、あの状態です。

私は、落胆するというよりも、悲しい。

彼のような人こそが、祈りと感謝行をして、高い霊性で生きてくれていたら、どれだけありがたいことか。

まわりの人々への波及効果も考えたら、本当に残念でなりません。

でも、彼も先の婚活スパルタ教師のような女性と同様、これが、このような人としてのあり方が、世間にまだまだ多い唯物論しか知らない人々のあり方なのかもしれませんね。

彼らが、私の文章を読むことはあり得ないでしょうが、万が一、目にされることがあったなら、たゆまない世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願いしたいと切に望みますよ。

繰り返しますが、上記のように、hc や pc といったチャンネルの制作者さんの意図がどこにあるのかは、私にはわかりません(pc は相も変わらず、p という美少女キャラクターを使って、かの女性達を ハハッ なんてやってるから、あのチャンネルの製作者が、私の文章を読むことは、未来永劫(?)ないのでしょう)。

ただ、あのように指摘することによって、彼女達の行動が多少なりとも改まったと言えるのでしょうか?

そんなことが、少しでもあったのでしょうか?

ただひたすら、折り重なって、やいのやいの批判して、彼女達の行動が多少なりとも変わったのでしょうか?

やいのやいのと批判の渦ができるということは、真善美に悖る想いと行為の業想念が増えたことと同義です。

これは一体、何を意味するのでしょうか?

そして、こうした行為の集積は、結果として何をもたらすのでしょうか?

あとは、読まれた方がお考えになって頂ければ、どのようなことを意味するか、あとは何をなすべきか、はおわかりになると思います。

まあ、そもそものはじめから考えてみると・・・。

神様のご計画として、もし神様の世界をこの物質の地球世界に最終的にあらわす、完成させることがあるとすれば・・・。

自然や動物や人類をあらわし、それぞれ、最終的には調和がとれたものに仕上げられることが到達点だと考えられます。

中でも、人類を男性と女性にわけている、ということは、肉体人間として世代を引き継がせる生殖も含めて(単体で生殖を自己完結する生物もいますからね)それぞれに役割を持たせている、となりますね。

ということは・・・。

男性と女性が互いを尊重して協力し合っていくのが、当然の帰結として考えられます。

従って、男性が、女性はただ黙って俺に従えばいいんだ、という有無を言わせぬ封建的なやり方や、女性がお姫様気取りで、高みにとまって男性を選り好みするなどは、もっての他ということにはなりはしませんか?

まあ、人類の進化の過程としては、このような段階を経る歴史を刻むこともあるのかもしれませんが、それは本当の姿とは言えない、となりますね。

男女ともに、互いに手を取り合って、相手に尽くし合い、神様の世界をつくっていく。

これが私達の使命であるならば、男女がお互いを尊重し合わなければならない、となりますからね。

まあ、それからすると、hc や pc で槍玉に上がっているような女性達は、確かに外れてはいますね。

少なくとも表面上は、外れまくっている。

でも、こうも思うんですよ。

批判や悪口は、うさをはらしたい、アクセスを稼ぎたい、商売をしたい、だけではなくて、あのような女性達に、本当はこうあってほしい、という理想像があって、それからあまりにも彼女達がかけ離れてしまっている現実への深い哀(かな)しみが内に秘められているのかな、とも思うんですよね。

こうした女性達から厚遇を得られなかったという恨み辛み(うらみつらみ)(?)だけからではなくて、そうした彼女達によくあってほしいと陰ながら願う執念(?)がなければ、批判や悪口が続かない、続ける原動力そのものがいずれなくなるのではないのかな、とも思うんですよ。

あそこのコメントに書かれているような、ただ表面的な、自業自得だろ、ざまあ・・・だけではなくて、その底には、あなた方(彼女達のこと)は、なんでそんな生き方をしてきた(いる)んだ、哀しいじゃないか(本当は俺達と手を取り合って、神様の世界をつくりあげていくための、かけがえのない伴侶となるはずの人達であったのに)、という同世代の男性達の悲痛な心の叫びも含まれているのかもしれない、と。

裏読みをすれば、ですけどね。

hc や pc にコメントを寄せた人達も含めて。

心理学的に言えば、いわゆる、反動形成ってやつなのかもしれません。

もしも、そうであるならば、いや、そうであると気づいたならば、いや、気づかなくても、これからは彼女達を蔑む言葉を絶対に使ってはなりません。

読むに耐えないほどの彼女達を蔑む言葉は、真善美に悖る言葉に他ならず、過去世の因縁によるものでない限り、輪廻転生を通してすべてご自分に返ってきますよ。

すべて、です。

なぜ、このような仕組みになっているのか、どのような形で返ってくるのかは、ご自分で輪廻転生を研究して、お考えになって下さい。

批判などが的を射ているものであったとしても、なぜしてはならない行為に当たるのかを始めとして、ご自分でよくお調べになって下さい。

とにかく。

唯物論や因縁にしばられ、迷っている彼女達を少しでもよくする、因縁因果を改善させる方法は、祈りと感謝行しかありません。

だから、哀しみは、祈りと感謝行に託すんです。

昇華させるんです。

それしかないんですよ。

いつまでも三界(この世=現界と幽界と霊界の下層)の因縁因果巡りをしていても、キリがありませんから。

で。

hc や pc へのコメントのいくつかから感じましたが、どうせあいつら(女性達のこと)あんなだから、もう俺は独身でもいいや、というのがありましたね。

こうした男性でも、自分を一人の男性として大事にしてくれる、尊重してくれる、愛してくれる女性があらわれれば、話は違ってくるでしょう。

この人(女性)を大事にしたい、苦楽をともに人生を歩んでいきたいと思うようになるはずですよ。

ただ、私達は、この世に肉体人間として修行に出されているだけに、家庭内不和や離婚などなど、様々な因縁を果たさなければならない可能性があります。

この人生だけで、この一生だけで、何もかもすべてうまくやりたいと思っても、そうはいかない場合が大半だと思うんですよね。

だから、今回の人生を含めて、長い長い輪廻転生を見通せる守護の神霊さんに、お任せした方が、よりよい生き方に導いて頂けるように思うんですよ。

なので、祈りと感謝行をおすすめしているんです。

繰り返しますが、批判や悪口では、あのような女性達が変わる可能性は、ほとんどない。

絶対に近いかな。

この意味でも、祈りと感謝行を心にとどめおいて頂きたいんですよね。

唯物論ではどうしようもない、と思いいたったときに。

世界人類が平和でありますように
(せかいじんるいがへいわでありますように)

日本が平和でありますように。
(にっぽんがへいわでありますように)

私達の天命が完うされますように。
(わたくしたちのてんめいがまっとうされますように)

守護霊様ありがとうございます。
(しゅごれいさまありがとうございます)

守護神様ありがとうございます。
(しゅごじんさまありがとうございます)

~~~~~

(追伸)

郷愁かな。

アラサフ(アラサーとアラフォーを勝手に略しました)の件(くだん)の彼女達が、同世代の男性達を敬意を持ってそれなりに尊重して、大切にしていたら、このような状況にはならなかったのかもしれない。

まあ、こうした最近に限らず、女性は元々計算高いから、学生時代やごく若い頃にはイケメンや女性の扱いに長(た)けた男性と付き合っても、家庭を築くとなれば、頭を素早く切り替えて堅実な男性と結婚した事例もそれなりにあったのだろうし。

いや、多分、たくさんあっただろう。

ただ、残念なことに、恋愛は弱肉強食なんですよ、おそらく。

さらに、政策により、かなりの人の所得が大幅に削られたのも追い討ちの大打撃となっただろうし。

しかも、女性は基本的に受け身でありながら、かなりわがままであるという、非常に厄介な特徴を備えている。

だから、心根の優しい男性や、心穏やかな男性は、我が強い男性、目的のためには手段を選ばない男性、強引な男性に先を越されてしまったことがほとんどじゃないのかな。

しかも、こうして残された女性には、いわば、遊び尽くして来た(尽くされたと被害者の形にはしません。あくまでも最終的には個人の判断による選択だと思うので)ような人がいる可能性が出てきます(もちろん、例外も多々あります)。

昔(といっても、ちょっと前かな)俺の誠意(純情かな)にちっとも報いもしなかったくせに、今さら何が恋愛だ、婚活だ、と悔しさと哀しさがない交(ま)ぜになっている人も、もしかしたらいるかもしれません。

でも、本当に彼女達を忌(い)み嫌うのであれば、その存在自体を完全に無視するのが、理に適(かな)った行き方ではありませんか。

彼女達については・・・。

彼女達の行いがどのようなものであろうとも・・・。

もう、悪口も言わない。

批判もしない。

気にもとめない。

行く末なんかもどうでもいい。

どうなろうと知ったこっちゃない。

考えもしない。

余計な労力・気力を割(さ)かない(批判や悪口には、かなりのエネルギーが要りますからね)。

ある程度のキリをつけたら、原則として金輪際、彼女達の存在を極力無視。

とにかく、一切、かかわらない。

これが、嫌い果てて(?)、見切りをつけ果てた(?)人達への、由緒正しき(?)対応ではないのかな、と私は思うんですよね。

にもかかわらず・・・。

と感じたので、上記のような内容を思いつきました。

こんなこと書いたけど、性格が悪い女性には、本当にたまらない、嫌悪感がわいたことがあります。

たとえ、無人島でこの女性と二人きりになっても絶対に親しくしたくない、という女性を近くで見たことが。

癇(かん)が強く、キツい性格で、わがままで、それが言動にはっきりと出ている。

いくら、若くても、外見が普通でも、この女性とは、金輪際、かかわりたくないと思ったことがあります。

こんなんじゃ、まだまだ、祈りが足りないし、霊性が低くてダメなんですけどね。

ただ、最近は以前からの疑問がありまして、みんな本当はわかっているんじゃないか、おかしな言動も行動も、本当は自分ですべてわかっているのではないか、とふと思うことがあります。

だれにでもある奥底の神性意識は、あますところなくすべてがわかっている。

それでも、ことがすすんでいくだけではないのかな、と。

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追記: 2021/03/04 11:30 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

283_原仏18ー12

282_原仏18ー11 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 念仏 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様) このように、色々なことが議論されていますが、日本人にとって興味あることの一つは、念仏が論議(直前の議論とどう違うんだ?)されていることです。
念仏によって救われるとどうして言えるのか。王はききます。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、あなたがたはこのようにいわれます。
ー「たとい百年間も悪を行っても、臨終に一たび仏を念ずることを得たならば、その人は天上に生ずることができるであろう」と」(しかし私はそんなことは信じません)。
「またあなたがたはこのようにいわれます。
ー「ひとたび殺生を行ったならば、地獄に生まれるであろう」と」(こんなことも信じません)。

続きです。

(A)これに対して、ナーガセーナは反論します。

(B)

続きです。

「石を水の中に投げこんだら石は水の中に沈むでしょう。しかし石を舟の上に乗せてごらんなさい。すると石は浮ぶじゃありませんか。大きな牛でも舟に乗せると浮ぶ。それと同じように念仏の行いというのは功徳のあるものであって、不思議な力を持っているのです。だから過去に悪を行った人でも、仏さまを念ずるというその行いによって人は救われるのです。」と。

(以上、第一篇 第七章・第二)

(A)仏さまを念ずるということは、仏教で最初から説くことです。(?) そして、それは功徳があると考えられています。(?) それで念仏によって罪が救われるという考え方もだんだん出てきた訳です。(?) けれども、念仏によって救われるということがギリシャ人には理解しがたかったのではないでしょうか。
この議論はずっと続くのですが、彼(ナーガセーナのこと)は善業の力は、悪業の力より強いと考えていました。
悪人がいることは確実に認めますが、こうしたどんな悪人でもやがて救われる可能性があり、それを救ってくれるのが仏の慈悲だと考えているのです。そうした見解がここにも(?)反映されています。
ミリンダ王がナーガセーナと議論をしたものは、まだこの他にも色々とあります。インド人一般の宗教聖典と同様に、ことに仏典の記述には、非常に誇張した表現が出てきます。空想的な説き方もあります。
ミリンダ王は、これらを「わしには信じられん」というのです。ミリンダ王は、三十二相が信じられないとも言っています。仏さまに三十二の色々な立派な特徴があるという、あの信仰をどうしても信じられないと質問する場面が、この書物(ミリンダ王の問いのこと)の中にも出てきます。
これらの対話を、今日の問題と考えてみますと、宗教の伝統が確立されているところならば、経典に説かれていることだけですべて受け入れられる訳です。ところが、今日のように色々異質的な人が対立して争っているとき(?)には、ただお経に書いてあるからというだけではだめなのです。どこまでも合理的に考えて、自分で納得しなければ人は受け入れない訳でしょう。納得してもらうように説くためには、この「ミリンダ王の問い」は、実に教えるところの多い経典だと思います。

(B)

~~~~~

これで本の一通りは終わりです。
縁起や無我を含めて、いまだに書き方を決めていない(空欄にしてある)ものは、おいおい書いていくつもりです。
ちょっと、注釈をはしょったものもありますので、読み返しながら、適宜、追加していこうと思います。
なお、本の末尾に中村さんのお弟子さんの解説があるので、息抜きをはさんで、もし気が向いたら適当に触れてみたいと思います。
いい加減ですみません。

~~~~~

282_原仏18ー11

281_原仏18ー10 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 解脱 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様) 解脱の状態については、さらに突っ込んで論議されています。

(B)なし。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、涅槃を得た人は、なんらかの苦しみを感じますか?」
「ある種の苦しみを感じ、またある種の苦しみを感じません。」
「何を感じ、何を感じないのですか?」
「大王よ、肉体的な苦しみを感じ、心の苦しみを感じないのです。」
「尊者よ、どうして肉体的な苦しみを感じるのですか。またどうして心の苦しみを感じないのですか?」
「肉体的な苦しみを感じるための因と縁とがなくならないかぎり、肉体的な苦しみを感じ、また心の苦しみを感じる因と縁とがなくなるがゆえに、心の苦しみを感じないのです。大王よ、世尊(釈迦のこと)はこのことを説かれました。「彼はただ一種の苦しみのみを感じる。すなわち肉体的な苦しみのみを感じ、心の苦しみを感じない」と。」
「尊者ナーガセーナよ、苦しみを感じるその人が、なにゆえ完全な涅槃に入らないのですか?」
「大王よ、聖者(阿羅漢)には愛好もなく、嫌悪もない、聖者は未熟なる(果実すなわち身体)を落とすことがない、賢者は(それが)成熟して(脱落するのを)待つのである。」

続きです。

(A)業の成熟する因縁を待つというのです。
ここで、ナーガセーナ長老は、経典のうちの古い詩の文句を引用します。

(B)

続きです。

「大王よ、サーリプッタ長老によってこれが説かれました。
われは死を喜ばず、われは生を喜ばず、あたかも雇われ人(びと)が賃金を待つがごとくに、われは時の来たるを待つ。
われは死を喜ばず、われは生を喜ばず。正しく意識し、心に念じて、われは時の来るを待つ。
と。」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ。」

(以上、第一篇 第二章・第四)

続きです。

(A)今、読んだパッセージ(またこんな言葉を使う・・・)の内容に付随して説かれていることですが、悟った人はなぜ完全な涅槃にすぐ入らないか、あるいは、何もかも苦しみがなくなれば、存在も消えてしまうのではないか、という疑問を向けられた訳です。それに対する答えは、我々の、ことに修行を完成した人の生存というものは、果実のようなものだというのです。果実が出てくるのは、色々な因縁があって、そして実がなる訳でしょう。
それと同じように、我々がこの世でこうして生きているのは、過去から、あるいは目に見えない色々な因縁が織りなされて、そしてここに我々は現れている訳です。因縁の続いている限りは、我々は生存している。因縁がやがて解きほぐされると我々の存在も消えてなくなる。それに対して決して無理はしない。因縁の存在する限りは生きながらえる。生を願わず、死を願わず、与えられたものを与えられたものとして生を頂いて楽しんでいく。そういう気持ちなのです。無理して早く自殺するというようなこともしない。また、やたらに不老長寿ばかりを求めて長生きをはかろうともしない。水が流れるようなサッとした気持ちで生きていく。それを目指しているのだろうと思います。
「生を喜ばず、死を喜ばず、生を悲しまず、死を悲しまず」という淡々たる気持ち、それが解脱である、となるのだと思います。
そこで、この議論を突き詰めていって、解脱においては心の悩みはないけれども、体の悩みは別になくなる訳ではないと言っています。
これは非常に合理的で徹底した説明です。初期の仏典を見ると、涅槃、ニルヴァーナの説明はあるのです。そこでは、(涅槃のことを)苦しみがなくなるとか、すがすがしいとか、涼しいとか、清らかだとか、安楽の楽しい境地であるとか、いう訳です。
しかし、具体的にどういうことかは深くは追究していない。それでインド人は非常に空想して物事を考えて、遠くに思いを馳せる訳です。だから、あまり分析的な論議をすることをしなかった訳です。
ところが、ギリシャ人の合理的思惟によって質問を向けられた。そこで考えてみると、なるほど、悟った人だって、棘(とげ)が刺さればやっぱり体は痛い。だから、身体の苦痛は残る。しかし、精神の苦しみはなくなっているのだ、と示す訳です。つまり、問答、ダイヤローグ(また、こんなことする・・・)によって、その点がはっきりさせられたと言えるのではないでしょうか。これは、つまり、対話によって、異質な考え方をぶつけられたためだ、ということではないでしょうか。
つまり、悟りを開いても、あるいは解脱をしても、(肉体人間として)生きている限りは、少なくとも肉体的な感覚はちゃんとある、痛いものは痛い、と。
こうはっきり言ったのは、仏典ではここが最初ではないかと思います。古い仏典を見ると、悟った修行者の生活や感想が色々とでていますので、それを論理的に分析すれば、このようになると思われますが、インド人は、あまりそういうことを分析しないで、現実と空想の世界が何か続いていたように考えて楽しんでいた、という面もあるのです。ところが、この対話においては、考え方が非常に現実的になっています(何を言っているのかわかりません)。

(B)

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追記: 2021/02/24 02:52 〜訂正内容〜

本文を加筆しました。

281_原仏18ー10

280_原仏18ー9 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 究極の理想の境地 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)その他、色々なことが論じられています。例えば、「涅槃に入る」とは、何かが論議されています。

(B)

続きです。

尊王(?)ナーガセーナよ、涅槃とは止滅のことなのですか?」
「大王よ、そうです。涅槃とは止滅のことです。」
「どうして涅槃が止滅なのですか?」
「すべての愚かなる凡夫は、生まれ・老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えから解脱せず、苦しみから解脱していません。大王よ、教えを聞いた聖なる弟子は、何ごとにも歓喜せず、執著していません。このとき、彼には愛執が滅び、愛執が滅びるがゆえに執著が滅び、執著が滅びるがゆえに生存一般が滅び、生存一般が滅びるがゆえに生まれが滅び、生まれが滅びるがゆえに老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えが滅びる。このようにしてこの全き苦の集まりが滅びるのである。大王よ、こういうわけで涅槃とは止滅のことなのです。」

(第一篇 第四章・第七)

続きです。

(A)涅槃(ニルヴァーナ)とは、これまでもたびたび出てきましたが、仏教が興(おこ)った時代にどの宗教でも使っていた言葉なのです。つまり、理想の境地を言います。理想の境地は、いかなるものかを追究した中で、ある人々は、快楽を追究するのが理想だと思い、またある人々は、人間の一切の感情や欲望を鎮(しず)めてなくすことが理想だと思いました。後者の傾向の方が、インドの宗教一般としては強かった訳です。
そして、元の語義から見ると、否定的な意味が強かったと言えるでしょう。ニルヴァーナのニルは否定的な意味です。ヴァーナはよくわからないのです。色々と解釈されますが、やはり、我々は束縛されている存在で、そこから出て行くということを意味するのです。
次に、王は、「すべての人が涅槃を得ることができるか」と問います。

(B)

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、すべての人が涅槃を得るのですか?」

(A)すると、ナーガセーナは次のように答えます。

(B)

続きです。

「大王よ、すべての人が涅槃を得るのではありません。しかしながら、大王よ、正しく道を行い、熟知すべき法を熟知し、完全に知るべき法を完全に知り、断ずべき法を断じ、修すべき法を修し、現証すべき法を現証する人は、涅槃を得るのです。」
「もっともです。尊者ナーガセーナよ。」

(以上、同・第八)

続きです。

(A)ここでは、もしも真剣に仏道の実践をするならば、いかなる人でも救われる。救われない人はいないはずだ、という根本的な立場が表明されています。

(B)

続きです。

王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、まだ涅槃を得ていない者が、「涅槃は安楽である」ということを知っているでしょうか?」
「大王よ、そうです。まだ涅槃を得ていない者が「涅槃は安楽である」ということを知っているのです。」
「尊者ナーガセーナよ、どうして、まだ涅槃を得ていない者が「涅槃は安楽である」ということを知っているのですか?」

続きです。

(A)ナーガセーナは、逆に王に問います。

(B)なし。

続きです。

「大王よ、あなたはどうお考えになりますか?手足をまだ切断されたことのない人々が「手足を切断することは苦である」ということを知っているでしょうか?」
「尊者よ、そうです。彼らは知っているでしょう。」
「どうして、知っているのですか?」
「尊者よ、他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、「手足を切断されたことは苦である」ということを知るのです。」
「大王よ、それと同様に、(まだ涅槃を得ない人々でも)、涅槃を体得した人々の声を聞いて、「涅槃は安楽である」ということを知るのです。」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ。」

(以上、同・第九)

続きです。

(A)つまり、その境地(涅槃のこと)に達していなくても、心の落ち着いたすがすがしい境地に達した人に会えば、自然に「あの人の境地はまことに慕わしいものだ」と我々でも感じるように、同時にその究極の境地が願わしいものだと知ることができるというのです。
これは、今日の私達にも非常に訴えかけるところがあると思います。ことに、まだ涅槃を得ていない人でも、涅槃を体得した人々の声を聞いて、涅槃は安楽であると知る。現代でも、宗教的実践に徹している方にお会いしていますと、何かしらそこに感じるものがあるのです。こちらでは(そういった境地)を得ていなくても、あの方はそうした境地を得ておられると思って非常に慕わしくなりますね。また、特に宗教的実践ほど難しいことではなくても、ごく平生お会いしている方々の中に、それぞれの人柄といいますか、持ち味というものがあります。あの人のああいう気持ちはいいなということを感じます。それを、ここでは宗教的な形で述べているのではないかと思うのです。

(B)

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追記: 2021/02/23 06:38 〜訂正内容〜

本文を加筆しました。

280_原仏18ー9

279_原仏18ー8 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 対話の成立する基盤 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)続いて、色々な議論が述べられています。

(B)なし。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、わたくしとともに(再び)対論しましょう」と王は問う。
「大王よ、もしあなたが賢者の論を以(もっ)て対論なさるのであるならば、わたくしはあなたと対論するでしょう。しかし、(大王よ)、もしもあなたが王者の論を以て対論なさるのであるならば、わたくしはあなたと対論しないでしょう。」
「尊者ナーガセーナよ、賢者はどのようにして対論するのですか?」
「大王よ、賢者の対論においては解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ、賢者は実にこのように対論するのです。」

続きです。

(A)反対説が出されても、賢者は怒ることなく、じっと道理を考えて議論します。それが賢者の対論なのです。

(B)

続きです。

尊王(?)よ、また王者はどのようにして対論するのですか?」
「大王よ、しかるに、実にもろもろの王者は対論において、一つの事のみを主張する。もしその事に従わないものがあるならば、「この者に罰を加えよ」といって、その者に対する処罰を命令する。大王よ、実にもろもろの王者はこのように対論するのです。」

続きです。

(A)どちらをとるのですか、という訳です。ミリンダ王は答えざるを得ません。

(B)

続きです。

「尊者よ、わたくしは賢者の論を以て対論しましょう。王者の論を以ては対論しますまい。尊者は安心し、うちとけて対論なさい。たとえば、尊者が比丘(びく)あるいは沙弥(しゃみ)あるいは在俗信者あるいは園丁(えんてい)と対論するように、安心してうちとけて対論なさい。恐れなさるな。」
「大王よ、よろしい」といって、長老は同意した。

(以上、第一篇 第一章・第三)

続きです。

(A)このように、あなたがそういう態度で対論なさるなら、これから始めましょうと長老は言いました。ナーガセーナ長老がミリンダ王に対して一本釘をさした訳です。
つまり、対論する場合には、力をもって圧迫するようなことがあってはならず、どこまでも道理を追求すべきであるという精神が、ここにはっきり出ているのです。今日の我々でも、まず第一に心がけるべきことではないでしょうか。

(B)