おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

369_法悟28-0-2

以下、初期仏教の経典である、法句経(ダンマパダ)の章だてについて、334_お断り を編集の上で再掲(さいけい)します。

法句経の章だてについて、です。

法句経を、S さんの 法句経一日一話 の 50 節に沿って見てきましたが、経文が古く簡素すぎて(?)私のような力不足な者には、わかりにくいこと、そして、S さんの法句経の内容の取り上げかたの順序が、やや散らばっているような気がしました(S さんは体系づけてお書きになっているのかもしれませんが、私には難しくてわからなかったので)。

そこで、どれだけご参考になるかはわかりませんが、法句経の目次を参照にして、通し番号だけでなく、どの章におさめられていたかを一言書き加えておこうと思います。

見出しの参考には、
「ダンマパダ」をよむ 片山一良著 サンガ

ダンマパダ ブッダの真理の言葉 今枝由郎著トランスビュー
の 2 冊があったのですが、前者が引用云々の縛りがあったので、その断り書きのない後者を参考にします。

法句経(ダンマパダ)の章だては以下の26 章からなっています。

短いですが、これで通し番号から、どの章に含まれていた経文かはわかるので、多少の理解に何かしらの助けになるかもしれないと(個人的には)考えます。

ご了承願います。

その内容は、以下の通りです(表記など改変あり)。

第01章 対句 (01~20)
 02  励み (21~32)
 03   心 (33~43)
 04  花にちなんで (44~59)
 05  愚か者 (60~75)
 06  賢者 (76~89)
 07  まことの人 (90~99)
 08  千という数にちなんで (100~115)
 09  悪 (116~128)
 10  暴力 (129~145)
 11  老い (146~156)
 12  自己 (157~166)
 13  世の中 (167~178)
 14  ブッダ (179~196)
 15  幸せ (197~208)
 16  愛しきもの (209~220)
 17  怒り (221~234)
 18  汚れ (235~255)
 19  道理に従う人 (256~272)
 20  道 (273~289)
 21  さまざまなこと (290~305)
 22  地獄 (306~319)
 23  象にちなんで (320~333)
 24  激しい愛着 (334~359)
 25  出家修行者(比丘) (360~382)
 26  行い清き人 (383~423)

以上の章ごとの見出しを、従来の通し番号、そして、これからの通し番号に附記するものとします。

ご了承願います。

なお、扱う文章量が増えたので、ブログの更新も、かなりおそくなるかもしれません。

この点も、あらかじめご了承下さりますよう、お願い申し上げます。

368_法悟28-0-1

前回( 367_法話50-50 )までに、スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老(これは長いので、すみませんが、以下、Sさんと略します)の 法句経一日一話 を法話と題して全部の 50 節を見てきました。

1 節ごとの分量もさほど多くはなく、大体、見開きの 2 ページかそれ以上という感じでした(全 203 ページ)。

同じく、法句経(ダンマパダ)を扱った続編の 1 冊、S さんの著書 法句経一日一悟 (全 226 ページ)は、法句経一日一話 と外観と厚さはほぼ同じながら、全体が 28 節なので、1 節ごとの文章量は、前著の約 2 倍近くあります(字自体も小さくなり、行間も狭まり、行数も増えているので、よけいに分量を感じる)。

なので、このブログ自体も 1 回あたり、これまで以上にやや長めの分量になるかもしれませんが、この点はあらかじめご了承願います(できる限り要約するように努めます)。

以下、法句経一日一悟 を法悟と題して見ていこうと思います。

まず、おさらいになりますが、S さんの前著書の解説(前書き)も含めての法句経についての概要です。

ダンマパダ(=法句経)は、宗教宗派の違いを超えて世界中の人々に愛されている仏教の経典の一つです。

日本では大乗仏教が先に入って(日本にとっての)伝統的な仏教となっており、法句経などは、近代(明治、大正)になってようやく知られるようになってきたという、特異な経緯で入って来ています。

というのは、歴史的には法句経は初期仏教の時代の経典で、大乗仏教の経典はお釈迦さん(以下、敬称を略して釈迦とする。ご了承下さい)が亡くなったずっと後の時代の発展系の経典だからです。日本には先に大乗経典が入り、近代になってようやく法句経が入るという、入り方の順番が、本来の歴史的なものとは、まったくの逆になっているのです。

ダンマパダは、直訳すれば、真理のことば、という意味になります。

おそらく、釈迦の直(じか)の教え、または、これにきわめて近い流れを汲(く)んだ経典と思われます。

壮大なお話というよりは、地道で渋い哲学のようなお話という感じでしょうか。

S さんによると、釈迦は教条主義的に教えを広めたのではなくて、待機説法(たいきせっぽう)のような形で、真理を悟らせ、しかも実行させるようにしていた、とされています。

すなわち、釈迦が真理を、
「普遍的でなければいけない。
矛盾があってはいけない。
例外があってはいけない。
誰もが実践できることでなくてはいけない。」
としていた、とお書きになっています。

S さんは、この法句経を味わい、実践して、人生の悩みや苦しみを乗り越えて行き、お釈迦さんの言葉は真理だと自らの実感とすることで、一人でも多くの人が平和で幸せな人生を歩まれることを願っておられるようです。

以上は、法句経一日一話 の前書きを含めての紹介ですが、今回からの 法句経一日一悟 の前書きについても触れておきます。

ざっと、まとめます。

S さんは、世界の平和は、まず個人の平和から、と考えているようです。

しかし、その個人は、現代において、幼少時から大人まで、ずっと競争社会にさらされ、競争原理しか幸せに生きる方法がないと思い込んでいるととらえています。

幼稚園に通う前から、敵と戦うようなアニメを見て、小、中、高、大学、社会人とずっと競争にさらされる。

個人の平和、平穏(へいおん)は夢のまた夢。

私達はこのままずっと激しい競争に耐え続け、苦しみやストレスを抱えながら生きていかなければならないのか?

いや、問題解決の糸口はある。

人類最初の競争原理を超えた、真の幸福と平和を語った人物がいるから。

S さんは、この人物こそ、釈迦だとしています。

という訳で、私達の人生に平和をもたらすブッダ(釈迦のこと)の常識を超えた智慧(ちえ)を身につけて、皆さんが幸福になることを祈っておられるそうです。

(お断り)私は、中村元さんの原始仏典に関するものを含めて、この S さんの内容に関しても、意訳などをして要約するだけにした回もいくつかありますが、霊性の面から違った話をかなり書きます。

最近はまとめが多くなりましたが、本来は、むしろこっちが主体です。

この点は、申し訳ありませんが、あらかじめご承知置き下さりますよう、お願い申し上げます。

次回は、再掲(さいけい)になりますが、法句経の章立てをご参考までにあげておきます。

では、次々回以降から本題に入っていくことにします。

よろしくお願い致します。

367_法話50-50

50 人格の完成をめざす

一切の悪を犯さないこと。
善に至ること。
心を清らかにすること。
これが諸仏の教えである。

(一八三) (第14章 ブッダ より)

また S さんのお話をまとめます(要約・意訳・改変などあり)。

仏教の教えとは何か。一言で言えば、「一切の悪を犯さないこと。善に至ること。心を清らかにすること」である。「何だ、そんな簡単なことなのか。それが高度な思想なんだろうか」と思うかもしれない。しかし、仏教はあくまでも実践論だ。この 3 つを実践すれば、それが最高レベルでの思想だとすぐにわかるだろう。それは完全なる人格者になるための教えだからだ。

悪を犯さない生き方を実践するためには、そもそも悪とは何かを理解する必要がある。聖典や古典には、大昔からある悪のリストがある。しかし、聖典や古典に書かれているからといって、必ずしもそれが悪だということにはならない。

「今、ここ」で「私」が行う行為自体が、善になるのか、悪になるのか。その都度(つど)、その都度、注意深く判断しなくてはならない。かつて悪とみなされていたものが、現代では悪ではなく、かつて悪ではないと思われていたことが、現代では悪となることもある。そして、今も昔も、一貫して悪と認められる行為もある。

悪を犯さないとは、どういうことなのか。それはまず、今の世の中で悪とみなされる行為は絶対に犯さないこと。そして今、この瞬間にする行為が、善になるのか、悪になるのか、常に判断して行うことである。

この判断のためには、世の中の出来事についての深い理解が必要だ。常に心の眼を開いておかなければならない。それが智慧の開発につながる。

「善を行う」という意味も同じである。しかし、何か一つよいことを選んで守るだけでは、人格は向上しない。大事なのは、「善を行う」よりも「善に至る」ことだ。善に至る人は、「今日は昨日よりもよい人間になる」と励む。そうして、はじめて人格の向上が確かなものとなるのだ。

では、人はなぜ悪いことをするのか。なぜ、よいことを真心を込めてしないのか。

それは思考が乱れているからだ。心が汚れているからだ。自らの行為を改めることは素晴らしいが、心が汚れたままでは、それをやり遂げることはできない。しかし、悪を犯そうとする無知を心の中から抜き取ってしまえば、「悪を犯さない。善を行う」という努力さえもいらなくなる。

といった訳で、仏教では「心を清らかにすること」を究極的な目標にしているのである。

とのこと。

366_法話50-49

49 けっして失われないもの

白檀(びゃくだん)、ジャスミンの花の香りは、
風に逆らっては広がらない。
しかし、善き人の徳の香りは
逆境にあっても広がっていく。

(五四) (第4章 花にちなんで より)

S さんのお話をまとめると(要約・意訳・改変などあり)。

世の中に「いつでもどこでも通用する価値」はない(?)。どれも通用するのは、限られている。お金があっても病気になるし、事故に遭(あ)うかもしれない。いくら王様が偉くても、他国となると話は別だ。武器は戦いにしか使えない。スタイルがよくても力仕事とは無関係だ。食事は空腹ならありがたいが、満腹時や腹下しの時には、ありがたいとはならない。

(社会的に)価値がある(とされる)ものを所有しても、それらはいつか無くなる。財産も、社会的地位も、伴侶や家族もいつかは離れる。知識をいくら蓄えても、年をとると忘れてしまう。

私達は、お金や知識や技術や肩書きなどを手に入れ生きている。しかし、これらは自分の外にあるものなのだ。

欲しいものを苦労して手に入れて喜んでも、引き換えに自由を失う。手に入れたものに執着するからだ。入手する苦労、維持する苦労、失われることへの不安や恐れ、失われれば、悲しみまである。

美しい妻や会社の地位を手に入れても、それ相応の苦労があるのだ。

私達は、何かを得ることによって満たされようとするが、こうした心はとても弱いのだ。財産や権力に幸せを感じる人は、それに依存しているのだ。だから、それらが失われれば苦しむことになる。

依存によって幸せを得ようとすれば、また依存を探すはめになる。その繰り返しだ。いくら「自分のものだ」と思っていても、いつかは必ず失うことになるからだ。

しかし、失われないものがある。それは「自分といつも一緒にいるもの」「自分と離れず一体のもの」である。つまり、自分の人格・人徳だ。

これは、風に吹かれようとも、すべての方向ににおい立つ薫(かお)る花のようなものだ。

決して失われることのない(揺るぎない)人格の完成。これこそが、仏教の目的であり、誰もが心の奥底で求めているものなのだ。金儲けや有名になることが人生の目的ではないのだ。どんな状況にあっても、常に自分の人格がよい方向に向いているか否かを確かめて生きることが大切だ。

とのこと。

そうですよね。

仮に生まれたままで一切何も手を加えない体で、成長して今に至った場合、裸になってみて残るものは何かといったら、人格もその最重要な一つですから。

しかし、さらに、一歩をすすめて、安心立命すること。

何があっても動揺せず、不動の心でいることができること。

これが、宗教の目的となると考えられます。

~~~~~

・香る・薫る・馨る~かおる~①よいにおいがする。
(用例)梅が香る。
②よい雰囲気が漂う。
(用例)風薫る五月。
ここでは、①の意味。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2021/05/09 10:05 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

365_法話50-48

48 千のことばより一つの実行

美しくてあでやかな花でも、
香りのないものがあるように、
よく説かれた言葉も、
実践しない人には実りをもたらさない。

(五一) (第4章 花にちなんで より)

(お断り)経文の一部を改変(漢字化)しています。ご了承願います。

何か、奇しくも前回(364_法話50-47)の(注2) の後半で書いた内容と重なりますね、これは。

前回は、八正道などの教学から話がそれて、お釈迦さんの実質的な教えの話から、教学と実際の私達の想いや行いの関係について、少し言及しました。

その小難しい教学(ごめんなさい)に、ある意味で刺すような内容じゃないですかね、今回のお話は。

あくまでも、人としての実際の想いと行いのあらわれが何よりも大事なんだ。

尤(もっと)もらしく能書きばかり言っていても、どんなに美しい美辞麗句を並べ立てても、いかなる精緻な理論を組み立てても、飾りものでは意味がないんだ、というような内容ですからね、これは。

とりあえず、また S さんのお話をまとめたいと思います(要約・意訳・改変・省略などあり)。

インドの人にとって花はとても大切だ。食事と同様に日常生活で重要な役割を持っている。単に観賞だけではなく、神様に捧げたり、健康に用いられたりするからだ。

花は見た目だけではなく、香りも大切とされる。ジャスミンの花は香りもよく、様々な儀式に使われる。また、体調が悪い時には花を体につけて治すこともある。花をお茶にしたり、ベッドにしいたりすることで、悪いエネルギーを体の外に出したりするのだ。

ジャスミンの花で作ったレイを首にかけると目の疲れがとれるし、花の香りは心身をリラックスさせる働きがある。柔らかく自然な香りは、心を穏やかにして怒りを鎮めるのだ。

このように、花の美しさは香りと相まって、心身を癒(いや)してくれるのである。もしも、美しい花が、見た目の美しさだけでよいのならば、造花でもいいことになる。

これと同様に、どんなに美しい言葉も、どんなに素晴らしい真理の言葉も、日常生活に役立たなければ、香りのない花のようなものだ。

お釈迦さんは、「学びに努める者は、巧(たく)みに花を摘(つ)むように、真理の言葉を摘み集める」と説いた。

花びらの一つ一つを糸で通したレイや、美しくアレンジされた生け花を見るのは喜びだ。それと同じように、お釈迦さんの真理の言葉が、日常生活の一つ一つに実践されて、生き方となるならば、これは素晴らしいことだ。これは彼の次の言葉にあらわれている。

美しくとても洗練された言葉を厳選して、
人が感動する言葉を千以上も話しても、
それはただの無駄話です。
それに対して、たった一言でも、
心に気づく言葉があれば、
それだけで充分です。

(一〇一) (第8章 千という数にちなんで より)

真理の言葉を自ら実践することによって、生活の中での気づきを深めるーお釈迦さんはその大切さを繰り返し説いている。

しかし。

こうした話を読むと、花はやはり生きているし、紛れもなく神様の創作作品ですね、これは。

人に寄り添い、病気の治しや、癒しをしてくれるお花さんは、どんな気持ちなんだろう。

その、はかない命を捧げてくれるのだから、人生を贅沢三昧や遊興三昧に使う訳にはいかなくなってしまうだろうな。

花をよく観察するとわかるけど、本当にきれいだし、不思議だ。肉体人間には、まったくのゼロ(何もないところ)から創作することはできないもんね。

せいぜい、遺伝子操作(これだって良いのかどうかあやしい。よくわからない)するくらいしかできない。

花が生きているのも、不思議な力。造形、色彩、香りも不思議。そのお作り、設計はどうなっているのだろう。育っていくのも不思議な力。

やはり、神様がなさしめている、命の設計図と、命の存続と成長の力をお与えになっているとしか考えられない(このように考えてくると、やたらに摘むのも気が引けてくる)。

従って、摘むにしても、何かに使うにしても、それなりの感謝を伴うことが、本来ならば必須であるという考えに行き着いてしまう。

私達としては、使わせてもらいながら、世界平和の祈りとともに、お花さんの天命がまっとうされますように、と祈るくらいしか、できることはないでしょうね。

これと同じように、私達肉体人間も、生かされていることを、心にとどめておくことが、大事なように思いますね。

なお、形式よりも、内容だよ、という話に関連して、五井先生の本にこのようなお話がありました。

百知不及一実真行
誠実真行勝万理識

百知は一実真行に及ばず
誠実真行万理を識(し)るに勝(まさ)る

神様は肉体人間を故(ゆえ)あって、この世にわざわざ送り出している。

お産みになっている。

成長していくのも、生きているのも、神様によっている。

ならば、神様のみ心に沿うように、生きていくのが、最善と考えられる。

従って、その肉体人間の想いと行いが鍵となる。

すべてと言える。

だから、実際の(結果として出される)想いと行いが大事。

過去世からの輪廻転生を通した想いや行いの集積がその人の今の人生をつくり、今、この世の想いや行いが来世以降のこれからのその人の人生をつくり、そのさらなる集積が世の中全体の動向となるものならば、整えて良きものとしていくことを、私達としては目指していかざるを得ない。

そうでないと、なかなか神様の世界はあらわれないし、神様のみ心にそぐわない想いや行いのために、いろいろと苦労を味わうはめになるから。

だから、想いや行いが出るまでの過程が大事であり、良きものとして整えていくことも大事。

だから、真理の想いと行いが、できること、これに尽きる。

従って、過去世からの想いを浄め、現在の想いも整えることが、大事。

そのように考えます。

~~~~~

・尤も~もっとも~①道理にかなう(適う)さま。
(用例)尤もな意見。
②(接続詞として)そうはいうものの。ただし。

・尤もらしい~①いかにも道理にかなっているようなさま。いかにも本当らしい。
(用例)尤もらしい話。
②いかにも真面目であるようなさま。
(用例)尤もらしい顔つき。
ここでは、①の意。

・適う・叶う~かなう~①求められた内容を満たす。当てはまる。うまく合う。
(用例)理に適③。時宜に適う。
②思い通りになる。望みが実現する。
(用例)念願が叶う。叶わぬ恋。
③力が及ぶ。匹敵(ひってき)する。
(用例)彼に適う者はいない。
(参考)適うは思うようになる、叶うは力を和合する意。③は、敵うとも書く。

・美辞麗句~ひじれいく~たくみに飾って表現した言葉・句。暗に内容や誠意がないことをいう。
(用例)美辞麗句を並べる。

・レイ~ハワイで客の首にかけて歓迎の意を表す花輪。

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①追記: 2021/05/09 04:10
②追記: 2021/05/09 08:51
③追記: 2021/05/10 00:01

〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、内容を加筆・訂正しました。

364_法話50-47

47 中道とは超越道である

あらゆる道の中で八正道(はっしょうどう)が最も優れている。
あらゆる真理の中で四諦(したい)が最も優れている。
あらゆる徳の内では離欲が最も優れている。
人々の中ではブッダが最も優れている。

(二七三) (第20章 道 より)

(お断り)経文を部分的に改変(漢字化)しています。ご了承願います。(注1)

以前、中村さんの原始仏典のお釈迦さんの臨終のところ(チュンダの供養を受けた時の話)で、以下の 2 冊の本を参照しました。

(1)露の団姫(つゆのまるこ)著 団姫流 お釈迦さま物語 春秋社

(2)ひろさちや著 釈迦 春秋社

この (2) の中に、こうしたすっきりした概念分類(?)に疑問を投げかける箇所がありました。

実は、私もどちらかというと、そんな気がしている部分があるのですが、今回はとばします。(注2)

なので、S さんのお話をまとめます(要約・意訳・改変・省略などあり。なお、お釈迦様も敬称を略して釈迦とする。ご了承下さい)。

人間の生き方、道は様々だ。どの人のどの教えがいいのか簡単には判断できない。

しかし、釈迦は八正道が最も優れているとした。世の中には、100 % よいものも、100 % 悪いものも、ひとつとしてない。すべての現象において、極端な2つのものは成立し得ないのだ。両極端な2つのものがぶつかり合う時、やがてはどこかで必ず、まあまあ、いいところ、におさまるものなのだ。

自然界でも、人間の世界でもそうだ。ただ、人間界の場合、それが両者にとって必ずしも納得がいく形でおさまるとは限らない。勝者、敗者ともに、互いに不満は残る。要するに、そこには正しい道が存在しないのだ。

しかし、釈迦は、それを超越した道を示した。それが中道である。これは、極端の真ん中をとるとか、均衡をとることではない。それは、「超越道」とも言うべきものだ。「判断をしない生き方」「決めつけない生き方」なのだ。

ところで、世の中に起きる様々な問題は、すべてこの中道的な智慧が欠落しているために起こる。私達は日常生活の中で様々な判断をして生きている。物事は、二面性、いやそれ以上の多面性の部分があり、どれが正しいと決めつけることはできない。たとえ、物事を多面的に見ても、そのすべてを判断することはできない。ましてや、物事を一方的に決めつけたり、偏(かたよ)った物の見方をしていれば、問題はますますこじれるばかりである。

中道のものの見方、生き方を身につけるには、どうすればいいのか。

釈迦は、中道とは八正道を歩むことだ。幸せになるにはこの八正道しかないと説いた。

正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)の、8 つの実践によって、あらゆる偏見を乗り越え、すべての事象を客観的に観(み)ることができる。八正道は誰もが納得して歩むことのできる道だ。

正見は、偏見のない正しい見方であり、物事を、ありのままに観ることだ。

正思惟は、正しく論理的に考えることだ。釈迦は、怒りのわくようなことを考えてはいけない、慈しみのわくことを考えなさい、と言った。

正語は、ウソをつかない、きつい言葉を使わない、無駄話をしないことだ。

正業は、正しい行為であり、殺生や盗みや邪(よこしま)な行ないをつつしむことだ。

正命は、他人のものを盗んだり、人をだますようなよからぬ仕事ではない、正しい仕事だ。正しい手段で、人のためになる仕事だ。

正精進は、正しい努力で、心を清らかにするよう努(つと)めることだ。感情的にならない努力である。

正念は、しっかり気づくことだ。過去を悔やまず、未来を心配せず、今をしっかり確認して気づくことだ。

正定は、いつでも落ち着いて、安定していることだ。

この八正道は、具体的には手始めに正語から入るのがよいと思われる。すべてをいっぺんに実践するのは、無理なので、わかるところから始めればよい。

一つでもしっかり実践できれば、すべてに通じていくことになるだろう。

そして、ひとつが完成することによって、8 つすべてが自ずと完成に向かって行くのだ。

~~~~~

(注1)S さんの本では、四諦(したい)のふりがなもついていなければ、一切の説明がない(八正道にもふりがなはついていない。自分で調べなさいということなのか)。

四諦とは、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の 4 つの真理を言う。

苦諦は、人生は苦であり、自分の思い通りにはならないこと。

集諦は、諸行無常を知らないために起こる執着が苦の原因になること。

滅諦は、迷いの煩悩の炎を消した、涅槃の境地のこと。

道諦は、涅槃の境地までに至る道筋のこと。

これらが、一般的にお釈迦さんが最初の説法で説いたとされている。

(注2)ひろさんは、その著書の中で、四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)・十二縁起(じゅうにえんぎ)を、お釈迦さんが弟子に教えたことが古来からの通説とされていることに関して疑問を呈している(私は、さらに、縁起に関する世界認識の仕方について、神様を認める考えから前回疑問を書いたけど)。

少なくとも、最初の段階では、お釈迦さんは、そんな体系的な教理・教学を構築していなかったはずだ、と。

あれらは、お釈迦さん亡きあと、仏教学者や仏教哲学者達が、彼の教えを体系的・教学的にまとめたものではないか、と。

だから、あの経文のブッダをお釈迦さんと読み替えると、これが当てはまるような気がするんですよ。

お釈迦さんが、こう言った、というよりも、そのようにされている、と。

あの経文の順番を逆に読めば、肉体人間の中では、お釈迦さんが最も優れている、偉い。

その彼が説いたものが、以下の 3 つだ。

たからこれらは、それぞれ、最も優れているのだ、と権威づけしているような経文に読めるんですよ。

ちょっと、話がそれますけど、大村大次郎という人の書いた、「ブッダはダメな人間だった」(ビジネス社)という本があります。

かなり刺激的な表題の本ですが、既存の考えにとらわれない独自の見方をしている箇所のある本です。

この人の本にも、ブッダ(お釈迦さんのこと)の教えには、体系的な教義はなく、その教えは複雑だったり、難解ではなかったのではないか、としている箇所があります。

私もどちらかというと、このお二方に近いですけど、すべての大元に神様を持ってきて、神様の全面肯定と霊性の肯定から話をはじめる点が明らかに違います。

だって、こんな小難しい教義(すみません)を会得したって、いざ、生活の場に、実践の場に活(い)かすことができなければ、何にもならないことになりはしませんか。

いざ、問題が起きた時に、サッと適切に(神様のみ心に沿うように)対処できる。

たった一つの神様のみ心に適(かな)った行いは、いかなる万巻(まんがん)の書物を読破することよりも、いかなる広大・深遠な知識よりも勝(まさ)る。

そうじゃありませんか。

こういう点では、古(いにしえ)の妙好人の人達は、ブッチ切りで、秀(ひい)でていますよ。

ただ、本を読む限り、ひろさんも、この人も、基本的には神様を認めていない唯物論者みたいに見えるんですよ。

やっぱり、神様を根本から認めないから、話がああいった形になる。

どうしても、発想の根っこが唯物論から離れない。

五井先生の本にありましたけど、神様を根本に認める考え方になれば、(悲喜こもごも、艱難辛苦を含めても)つまるところは、神様ありがとうございます、になってしまうと思うんです。

そうすれば、あらゆることに感謝をすることができる。

それが、宗教の極意ではないのか、と思いますけどね、個人的には。

だって、すべてのものをあらしめているのが神様ならば、感謝するしかないでしょう?

しかも、その存在が悪魔(?)のような意地悪で悪質なものでない限りは。

そう思うんですけどね。

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追記: 2021/05/09 03:38 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

363_法話50-46-3

何だか、前回の内容を補足説明して、加筆・訂正したら、縁起についてやたら気になってきたので、また、書かせて頂きます。

なお、前回と同様、以下に述べることは、私の独断と偏見による仮説ですので、拙(つたな)い者の罵詈雑言(ばりぞうごん)のように見える点もあるかとは思いますが、この点は、あらかじめ、平にお許し願います。

まずは、一般的な話から。

縁起の話のところで、自分のものは何一つない、とするのは、いわゆる、諸法無我(しょほうむが)のことです。

これは、すべてのもの(諸法)が、因縁によって(縁起によって)生じたもので、実体(という我)はない、という話です。

だから、これは諸行無常と併せた、並行した内容です。

諸行無常は、万物は流転・変転するから、それなりの時間が経てば、結果としては何も残らない。

無となる。

だから、(残るものとしての)実体はないんだ、という話ですね。

後の変転消滅した結果から遡(さかのぼ)って、その形があらわれて消滅するまでのすべての期間を、遡及(そきゅう)して、ないものと見做(みな)してしまっていますね、これは。

何か、結果論のようで、少々乱暴なやり方に見えるんですけど。

そこでは、一時的なかりそめの形(実体)でさえも、遡及することによって、ない、と否定してしまっている。

そう読み取れますよ。

で、この世に様々な形であらわれている、いわば、かりそめの姿は、その変転消滅の前に、縁起を通して、相互依存の形で関連しあっている間だけ、見えている、存在している、ということですよね。

でもこれ、変じゃないですか?

縁起という因縁因果を結ぶ網の目も、何かわからないけど、突如として(?)あらわれて、相互依存の姿同士(仮に A と B とする)を結びつける。

相互依存の形ではあるにしろ、A と B は、いわば、相互依存の投入と産出、インプットとアウトプットの関係にあると言えます。

投入という原材料がなく、産出という製品もない。一時的には姿形があってもいずれ消滅してしまう。

だったら、そもそも、媒体となる、加工して産出する機械だってないんじゃないですか?

その機械だけが、投入と産出の間を取り持つ時だけ、都合よく、奇跡的に忽然(こつぜん)とあらわれるとでも言うんですか?

ずいぶん、恣意的な話に見えるんですけど。

縁起だって、物や光や音と同様に、何らかの物質的な形のあらわれだと思うんですよ。

A と B を確実に結びつけて両者の間を取り持つのですから。

ただの概念だけじゃない、と思うんです。

仮に、想いでも、物質でも、あらゆるものがすべて波動としてあらわされるものと仮定するならば、縁起も波動(概念波動?)ではないか、と思うんですよ。

これを、何かしら(ここでは波動と仮定)の物質的なあらわれだ、とすると、A と B と同列の扱いと言えますよね。

そう考えてくると、きわめておおざっぱに言うと、原材料もない、製品もない、だったら加工する機械もないはずでしょう?

何で機械だけが、ポッと出で、臨機応変にあらわれるんですか?

機械だって、原材料から作られた製品です。

物としての本質は、原材料と製品と同じのはずですよ。

だから、空(むな)しいもの。

(遡及して)ない、と看做(みな)すことができるはずのものですよ。

ならば、原材料、加工する機械、出来上がった製品となる、A と B と縁起の 3 つすべてが「ない」のではありませんか。

縁起だけが魔法のように神出鬼没、変幻自在、臨機応変にあらわれて、しかも実体として残らない、空しいものを作り出す・・・。

その縁起自体もないものであるはずなのに・・・。

だから、私には理解できないんです。

何を言っているのかわからない。

私が能力不足だから仕方ないのかもしれませんが、言っていることが、モヤモヤとしてわからないんですよ。

なぜ、このようになっているのか?

以下も、上段にお断りしたように、あくまでも、私の独断と偏見にもとづく仮説です。再度のお断りになりますが、あらかじめご了承下さい。

こうした、すべてのものはない、縁起によって一時的な、かりそめの姿としてあらわれるだけだ、という理論がこのようになっているのは、自らの仏性(神性)は肯定しながらも、創造主あるいは絶対者としての神様を否定しているからではないか、と考えられます。

神様がすべてを作ったんだ、ありとあらゆるものに命を吹き込まれたんだ、命をお与えになったんだ、すべては神様のあらわしたものなんだ。

すべては神様のものなんだ。

すべてのあらわれたものは、神様の創作作品であり、ある意味では、神様が形を変えた、その化身なのだ。

だからこそ、大自然雄大さ、素晴らしさ、言葉にはあらわし切れない美しさ(もちろん、理解の難しい厳しいものもたくさんありますけれど)を見て、人は心を打たれ、讃歌を謳(うた)い、画を描き、写真に収める。

そして、神様は因縁因果の転回の法則をお作りになった。

そうして、良いものも悪いものも、この世(現界)で時を経て消えてゆくが、中でも、神様のみ心にそぐわない、肉体人間が余分に作り出した真善美に悖る想いと行いの業想念は、神様の世界にはあるべからざるものとして、その存在が許されず、時間をかけて消滅させられる形となる。

この業想念は、いわば、一定の限度があるもの(たくさんの輪廻転生を通して消していかなければならないから、それなりに多くあっても)。

しかし、よいものは、神様のみ心に沿ったものとして、消えてもまた神界から流れてきて、消えてもまた神界から流れてきて、と限りはない。

その中で、私達肉体人間は、特別に神様自体の命を分け与えられた万物の霊長という、かりそめの姿として幾度となくこの世にあらわれ、その輪廻転生を通して神様のみ心を肉体を持ちながらあらわすことができるように、進化・向上していく立場にある、と言えばいいところを・・・。

神様を否定しているせいで、そうは言えない。

そうした訳で、かなり苦しい理屈をつけているように感じるんです。

般若心経で言えば。

色即是空で、この世にあらわれているものは、すべて時間をかけて消えてゆくものだ、だから、最終的に残らないのだから、ないものと看做す、として、一度この世にあらわれているもの、肉体にまつわる五感に感じることのできるものを、すべて「ない」とする(これは、悟りを得た人でないと理解が難しいでしょうね。一般的な私達は肉体=人間だという、肉体人間観が抜きがたくあるから)。

そうすると、残るのは、神様の世界のものだけ、神様の光そのままの想いや行いだけが残ってくるから、空即是色で、空(神様)がそのまま、この世にまで流れてきて、素晴らしいものが、この世にあらわれてくる。

神様を否定していると、こうした考え方はできないと思うんですよ。

色即是空=空即是色としてしまうと、何もかもが、ない、ない、ない、となってしまって、何を言っているのかわからないんですよ、私には。

だから、私はこうした一般的な見解に対して思うんです。

ないと看做されるものは、一時的に、かりそめにあらわれている訳です。

じゃあ、それを作り出している縁起は誰が作ったんですか。

因縁因果の法則は誰が作ったんですか。

神様としか答えようがないんじゃないですか。

神様がすべての生きとし生けるものに命をお与えになっている。

神様が因縁因果の法則をお作りになった。

空の中から、無からすべてのものが出てくるのではなくて、神様からすべてのものが出てくる。

こうした方がずっと話がすっきりするような気がするんです。

神様は肉体人間の中の内側にも、仏性(神性)としてあり、それを守護する外側にも守護の神霊としてあり、それを取り巻くあらゆる環境にもある。

つまり、神様はすべての世界に満ち満ちている。

神づまりにつまっている。

そうした方が話に無理がないような気がするんですよ、個人的には。

神様を現代の科学(または古代の科学水準)で証明できないからといって、否定してしまうのは無理があるんじゃないかなあ、と。

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・拙い~つたない~①下手(へた)である。
(用例)拙い文章。
②能力が劣っている。愚かである。
(用例)拙い者ですがよろしくお願いします。
③運が悪い。
(用例)武運拙く敗(やぶ)れる。
ここでは、②の意。

・罵詈雑言~ばりぞうごん~口ぎたなくののしり、悪口を言うこと。また、その言葉。罵詈讒謗(ばりざんぼう)。悪口雑言(あっこうぞうごん)。

・遡及~そきゅう~過去にさかのぼって影響・効力を及ぼすこと。
(用例)遡及力。2 年前まで遡及して適用する。

・看做す~みなす~見てそれと判断して取り扱う。また、仮にそれであるとする。
(用例)一人前の大人と看做す。

・かりそめ~①一時的なこと。その場限り。
(用例)かりそめの命。かりそめの恋。
②ふとしたこと。ちょっとしたこと。
(用例)かりそめの病。
③軽々しいこと。おろそか。
(用例)かりそめにする。
ここでは、①の意。

・忽然~こつぜん~たちまち。にわかに。突然。忽焉(こつえん)。
(用例)忽然と消え去る。

・神出鬼没~しんしゅつきぼつ~鬼神のように自由自在に出没し、所在が容易につかめないこと。

・変幻~へんげん~姿が急にあらわれたり、消えたりすること。変化が非常にはやいこと。

臨機応変~りんきおうへん~その時その場の変化に応じて適切な手段を取ること。
(用例)臨機応変に対応する。

・謳う~うたう~①主義主張・特長・効能などをはっきりとわかるように述べる。
(用例)条文に謳う。
②ほめたたえる。もてはやす。
(用例)至宝と謳われる名器。
ここでは、②の意。

(追伸)

中村さんの原始仏典について書いたもので、縁起などに関連した部分はいまだに書いていません。

申し訳ありませんが、折を見てゆっくりと、ボチボチとやらせて頂きます。

かなり間を置くかもしれませんが、お許し下さい。

縁起を扱うとなると、何だかとっても気が重くなり、特に疲れてしまうので。

また、それに伴い、だいぶ前の過去記事の更新が余分に増えることにもなりますが、この点も、あらかじめご了承願います。

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①追記: 2021/05/06 12:15
②追記: 2021/05/06 22:14
③追記: 2021/05/08 06:00
④追記: 2021/05/08 06:05
⑤追記: 2021/05/08 12:01
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。