おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

448_スマホ

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

スマホ

スマートフォンの略称ですね。

iPhone のことなのか、それとも Android のことなのか、云々の話もあるようですが、細かい話は省きます。

とにかく、スマートフォンの略称がスマホだとします。

今や、生活必需品なのか、老若男女を問わずほとんどの人が持っているように思います。

ただねえ。

現在の疾病(しっぺい)状況よりも少し前のことでした。

とある回転寿司チェーン店に閉店間際(1時間くらい前)に 1 人で行ってカウンター席に座った時のことです。

左隣は 30 代とおぼしき男性が、右隣には 20 代とおぼしき女性が、やはりそれぞれ 1 人で座っていた(つまり、彼らは私の先客です。おそらく、2 人とも閉店までいたんじゃないかな)。

その 2 人とも、ズーッとスマホをいじっている。

悪いから画面を覗(のぞ)くことはしなかったので、何をしていたのかはわからない。しかし、私が 35 分ほどで、まったくスマホを出さず、食べてから帰るまでの間、ほとんどスマホいじりをしていたのです。

その間、 2 人とも、注文(タッチパネル式)したのは、たったの 1 回。

内容も 2 貫の 1 皿のみ。

これじゃあ、食事をしに来ているのか、スマホいじりをしに来ているのか、わからない。

何をやっていたのかわからないけど、そんなに面白いのかなあ。

ある意味、ほとんど画面とにらめっこで、言葉は悪くて申し訳ないけど、完全にスマホに目に見えないひもか鎖(くさり)でつながれているかのようです。

まあ、今やスマホは凄まじく高性能で多機能だし、よほど重い作業でない限りは、かなりの用が足せるから、もはや、持ち歩ける高性能パソコンなんでしょうね(画面が小さくバッテリーの消耗は激しいけど)。

人間を拘束(?)するには、十二分の性能なのかもしれない。

いやあ、スマホ恐るべし(?)、です。

~~~~~

・疾病~しっぺい~病気。やまい

・先客~せんきゃく~先に来ている客。

・拘束~こうそく~行動や意志などの自由を制限すること。
(用例)拘束時間(=休憩時間をも含めた労働時間)。

447_わからない

以下は、個人的な独断と偏見ですので、お許し願います。

よく、孤独はさびしいかのように言う人や書いてあるのを時おり見たりする。

そうかなあ。

ご本人の資質にもよるだろうけれど、神経質だったり、人様に気を遣(つか)う性質だとかなり疲れます。

特に目上の場合や恩義のある人には、相手を傷つけないように、気分を害さないように、といろいろと気を遣うことになるから本当に疲れる。

参ってしまうし、正直、面倒くさい。

私は元々はズボラで霊性が低く、自然でスムーズな気配りをすることができないので、どうしても、故意に、意図的に気を遣うことになるからなんですけどね。

だから、あんまり親密にしすぎずに、かなり距離を置いて、お付き合いもホドホドにしている方がはるかに気楽です。

距離感のあった方がいいです。

また、自分は幼少時から多少抜けているので、何かと失敗しやすい欠点があります。

なので、一挙手一投足、なるべく相手に不快感を抱かせないようにと注意を払っていると、ヘトヘトになってしまう。

気を遣わなければいいじゃないか、と思われる方もいるかもしれませんが、元々が臆病で小心者なのでどうしようもないんですよ(小学校時代の悪魔的な人間から受けたいじめも影響している)。

それに、気を遣うのは、何も自分だけではなくて、相手も遣っている訳で。だから、それまでをも考えると、あまり、軽はずみにはできないし、いい加減にするのははばかられます。

気疲れすることを考えたら、やっぱり、まだ孤独の方がずっと楽です(今のところは)。

たとえば、食事。

家族だけとならいざ知らず、友人や知人などの人様と一緒となると、やっぱり様々な気を遣ってしまう。

話題選び、合いの手の入れ具合、食事の運び・・・。

こっちは何気ない一言でも、何が相手の気分を害さないとも限らない。

やっぱり、個人的には疲れてしまう。

それに娯楽。

テレビ番組でも、ユーチューブなどの動画でも、やはり、人によってかなりの嗜好の違いがあります。

こうした嗜好が他人様と共通なのは、珍しいんじゃないのかな。

中でも困るのがテレビです。私は今は家でほとんどテレビを見ないので、テレビを見なければならない時が結構きつい。消してくれとは間違っても言えないし。テレビはなくても、モーツァルトの音楽でも流れていればいいんだけど・・・。

もちろん、有限な肉体人間の命だし、限りある時間だし、気のおけない人と食事をしたり、いろいろすることはありがたいことだし、有意義なことはわかるんだけど・・・。

やっぱり、偏見かな・・・。

女性の場合は、マウントをとるだの何だのと、同性の人と比較対照して自分の価値を高めないと気がすまないのかもしれませんが、そんなに人の目を気にしなくてもいいんじゃないかなあ・・・。

神様のみ心に照らし合わせての絶対基準に変えればいいのに・・・。

ワイワイガヤガヤうるさい外野は、全部過去世の因縁の、この世で時を経て消えてゆく姿として、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行で振り切り、気にしない訳にはいきませんかねえ。

ママ友のお付き合いがあったりすると、やっぱりマウント合戦は、避けることができないのかなあ。

比較すること、序列をつけること、承認欲求を満たすこと、これらに血道をあげなくてはならない性(さが)を持つ定めがあるんですかねえ。

女性という方々は。

よくわかりません。

ただ・・・。

唯物論で行き詰まったら、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をご検討下さい。

お願い致します。

なお。

同性、対異性を問わず、お付き合いはホドホドが楽、距離感としては適切なんじゃないかなあ。

あまりズブズブになって抜き差しならなくなると、ちょっとしたことで亀裂が入り、ギクシャクし始めると中々修復は難しいような気がしますけどねえ。

どうなんだろ。

この世においては、親子でも、夫婦でも、兄弟姉妹でも、友人でも、知人でも、実は目には見えない過去世からの縁(えにし)(=因縁)で結ばれた、人間関係、それも場合によっては、輪廻転生を通してため込んだ真善美に悖る想いと行いの業想念の清算としての厳しい修行相手である可能性があります。

これは宿命通(過去世を読み取る力)がある人でなければ、わからないこと(家族でも良い関係を築かれている方々は、やはり、それなりに過去世での生き方が良かったものと考えられます)。

だから、ある程度の距離を置いておき、祈りと感謝行で霊性を開発しながらやっていくのが、ある意味で中庸にもなるし、いいように思うんですけどねえ・・・。

どんな運命でもやってこい。私は深い信仰心があるからどんなに厳しい縁(因縁)も必ず受け止めて乗り越えて見せる、という人はほとんどいないと思うので・・・。

失礼致しました。

~~~~~

・嗜好~しこう~その物を好んで親しむこと。たしなむこと。また、人それぞれの好み。

・マウントをとる、マウンティング~対人比較において、自己の優位性を示すための自慢や他者をけなすなどの示威行為。

(*)このマウント云々の定義は、国語辞典に意味が載っていなかったので、私流の意訳です。ご了承下さい。

・示威~じい~威力や勢力を示すこと。

・中庸~ちゅうよう~一方に片寄らず穏当なこと。また、そのさま。

・穏当~おんとう~穏やかで無理がないこと。また、そのさま。

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追記: 2021/07/26 05:02 〜訂正内容〜

誤記を訂正しました。

446_距離感

前回( 445_説教2 )、親子関係について私見を書きましたが、今回はこれをも含めた人間関係について書きたいと思います。

端的な場合、輪廻転生の末に悟りを得たような人同士の場合なら、神様の分けられた個性を持ちながらも、互いに尊重し、協調し、融合して、軋轢や問題は生じないと考えられます。

本来は、自由自在で、縛られる、束縛されることは嫌っていても、悟りを得ていれは、距離感も適正(神様的?)に保たれると考えられます。

しかし、輪廻転生の途中、多くの真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねている肉体身では、これは絶対に望めないでしょう。

相手のために良かれと思ったことでも、上手くいかなかったり、程度が不適切でかえって迷惑がられたりすることも、稀ではありません。

日本人の場合は、相手を傷つけるのは極力避けることが多いですし、外国人さんのようにあまりハッキリとは否定の言葉を言えないことがほとんどなので、ストレスを溜め込むことになりやすいです。

そんな中で、親子だから、兄弟姉妹だから、親しい友人や知人だからと、その私生活や心の奥底まで、ズカズカと土足(?)で勝手に入り込み、あれやこれや、言われたり、介入・指図されたらどうなるでしょうか?

大元の自由自在が縛られるだけでなく、数々の業想念にとらわれた肉体人間のすることです。

ズブズブの人間関係になれば、いずれはドロドロのいさかいを起こすようになっていくことにもなりかねません。

たとえ、わが子の場合でも、肉体人間が自分だけで生きている訳ではないように、神様から命をお預かりしたものとして、それなりの敬意を抱く、というように・・・。

従って、当面のところは、美輪明宏さんのおっしゃっられているように、腹六分目で、つかず離れず、しかも、それなりにしっかりと見守り、危機緊急の時には惜しみない協力と援助を、見返りを求めずさりげなくこなす。

霊性がまだまだな、輪廻転生の途中の修行中の私達肉体人間には、こうした距離感をとりながら、人間関係を構築していくようにするのが無難だと思います。

見返りを求めたいのもヤマヤマかもしれませんが、ここは一つ涙を飲んで、適度な距離感でお願いしたいと願う愚か者です。

失礼致しました。

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追記: 2021/07/25 09:30 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

445_説教2

だいぶ前に、世の女性様方にあらゆる意味で無駄とは知りつつも、私的な説教を書いたことがあります( 270_説教 )。

それからすれば、これは一般向け(?)になるのかな。

わからないけど。

そんな訳で、説教2 です。

親子。

それも、そこそこ仲のいい親子やきわめて仲のいい親子はとても貴重な存在だ。

お人によっては、親子でも尊属殺人まで起きる厳しい因縁の下に生まれ合わせる場合もあるのかもしれないが、こうした深刻な因縁の生まれ合わせは、とりあえず、例外的なものと見なしていいだろう(それから、毒親も、育児放棄(ネグレクト)も)。

夫婦だって元々は赤の他人。

しかし、場合によっては、親子より仲のいい夫婦さえある。

やっぱり、輪廻転生を通した因縁因果の織り成すあやですね。

形式的な霊魂魄(れいこんぱく)の入れ物のしての肉体の関係と、因縁因果を反映した中身の霊魂魄の関係は、やはり、違うんですね。

あくまでも、中身の霊魂魄の織り成す因縁因果の関係が主軸で、意味を持っているから。

話を戻すと。

そんな中で、そこそこ仲のいい親子や、きわめて仲のいい親子は、貴重だし、大事にした方がいいな、と感じるからです。

実は、かなり仲のいい親子でさえも、すべての面で完全に一致することはなく、やはり、それなりに考え方が違い、衝突することもある。

しかし、長年の付き合い(?)だから、許せることも多々あるし、修復もやり易いことが多い。

しかし、これが、赤の他人となるとそうはいかない。

一度、亀裂が生じると、表面上は修復したかのように見えても、中々、許せないことがあったりするのです。

また、親身になることにも限界があり、中々、親のようにまでは親身になれないのがほとんどなのです。

いや、すべてと言っていいでしょう。

極端なことを言えば、自らの子供のためには命を投げ出す親もいるくらいです(古くは戦争の空襲でわが子をかばってともに焼死した母子の事例があります)。

あれは、見栄も、体裁も何もない。

ただただ、とっさにわが子をかばった行為としか解釈できません。

理屈も、感情も何もない。

とっさの行動です。

無償の母親の愛です。

これは、かなり究極で、特別な例なのかもしれませんが、赤の他人では、親ほどには親身になってくれることはないんですよ。

あまり書くと人様の悪口になるので書けませんが、私はそう思わされる経験をいくつもしています。

そうすると。

親がどれだけありがたいか、地球上でこの人達以外に、本当に心の底から自分を思ってくれる人はいないんだな、とつくづく思わされるのですよ。

私は、超のつく人格者さんは知りませんが、普通のかなりいい人でも、到底、親には及ばないんです。

何度もそう思わされてきているんですよ。

やっぱり、違うんだな、と。

近しい親戚でも、他人様でもこれはまったく変わりません。

親とはまったくの別物(ちょっと失礼ですがお許し下さい)です。

絶対に違うのです。

唯物論者の人は、親子でも所詮は別の人格、必ず何かしらの見返りを期待する打算があり、そんな純粋なものはないのさ、という人もいるかもしれない。

しかし、こと自分に関してだけでも、これは絶対に打算なんかじゃない、という経験を何度もしているのですよ。

やっぱり、親子として生まれ合わせるのは、特別です。

いい因縁でも、たとえ、悪い因縁でも。

やはり、それなりの因縁がないと、親子として生まれ合わせることはないからです。

以前出てきましたが、仏教で人身得難し、肉体人間として、この世に生まれてくることは、ありがたいこと、類い稀(たぐいまれ)なこと、そして、さらに因縁因果の織り成すあやとしての、仲のいい親子として巡り合いの身を結ぶのも、もっと貴重なこと。

ましてや、これも前に仏教で見たように、(神様以外は)諸行無常、万物流転で、この世で人身は刻々と変化していて、やがては肉体人間としては、誰しもがいずれは死を迎えざるを得ない宿命にある。

だから、大切にするに越したことはないのですよ。

類い稀な貴重なことの、相乗以上の巡り合わせなのだから。

わかる人には、わかりきったことかもしれませんが、ちょっと一言書かせて頂きました。

もしも、この文章をお読みになった方がいらしたら、まあ、何だかわからないけど、こんなことを言ってたのがいたよ、と記憶の片隅に引っかけて頂ければ幸いです。

大変、失礼致しました。

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追記: 2021/07/25 23:46 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

444_エンジェルナンバー

444。

このブログの通し番号になります。

数字が揃(そろ)いました。

いわゆる、ゾロ目です。

ネットを調べてみていくつか出ていたのは、なんでも、この 444 という数字はエンジェルナンバーというもので、たくさんの天使が自分を見守ってくれて、その導かれによってすべてがうまくいくから、前向きに生きていきましょう、がそのおおよその意味合いでした。

こうやって、わからないことを手軽に調べられるのも、前回( 443_インターネット )触れたインターネットの発達のおかげですね(調べた情報自体の信憑性は各自の検証次第になりますけど・・・)。

まあ、この 444 のエンジェルナンバーについて出ていたのが恋愛を含めた占いを扱うサイトに多かったので、それならば、こうした肯定的・積極的(ポジティブ)な話はありがちですよね。

でも・・・。

言霊や数字も、場合によってはそれなりの注意を払う必要があるでしょうが、最も大事なことは、霊性が開発されることだと思います。

霊性がかなり開発されて、高い霊性を備えるようになれば、真善美に悖る肉体人間の想いと行いの業想念も払われて浄まってくるから、自然に悪い言葉を使わないようにもなる(霊性の開発がまだまだで霊性の低い私のような場合には、故意に使わないようにするよう、努めて注意を払うしかないですけど・・・)し、変な数字の取り合わせにも、出合いにくくなってくると思われます。

やはり、神様のご意志で意味をお与えになった言葉、または、肉体人間の慣用などによって想いの集積によってそれなりの力というか響きを得た言葉、あるいは、これら 2 つの合わさった言葉でも、それぞれにそれ相応の響きというか力(波動ですかね?)があり、それぞれに神様のみ心に沿うか沿わないかの段階があり、これが肉体人間の想いの同様な段階に対応した形で、呼応してくると考えられるからです。

卑近な例で言えば、類は友を呼ぶ、といったところでしょうか。

例えば静かで落ち着いている水面を、一方向から波立たせた場合、その波の伝わり方は、穏やかでその程度に応じた段階的なものとなります。

静かな波には、静かな伝わり方が、激しく大きな波には、それなりの激しく大きな波が、段階的に徐々に伝わっていきます。

なので、波動は連続的かつ周期的なので、穏やかな波と激しい波が不規則に組合わさった伝わり方は、ありません。

これと同じように、似たような想いを有する波動は、連結しやすいというか、響き合いやすい、組み合わさりやすいのではないでしょうか。

なので、数字についても、こうした考え方を応用して、前向きないい意味に取る、または、あまり好ましくない場合やものの場合には、自らを戒めることや教訓にすればいいのではないですかね。

やはり、これも前々回( 442_投影 )で触れた、神様のみ心に適(かな)った、沿った想いや行いをするように、できるようになるように、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をしながら、無理のない、少しずつの段階的な霊性の開発が好ましいと考えられます。

数秘術もそれなりだけど、まずは、自らの因縁因果の漸次の改善・向上がまずは第一だと考えられるのです。

従って、いたずらに、数秘術の持つ魅力(?恣意的な我欲に悪用されると魔力になるような気がする)に振り回されずに、肉体人間的な願望(主に人様をかえりみない自分勝手な欲望のこと)は後回しにして、まずは霊性の開発を第一にして頂きたいんですよね。

個人的には、こんな風に切望しております。

失礼致しました。

・追伸

言葉について話をすると、実は真言(しんごん。マントラ)について触れるべきなのかもしれませんが、これも低能力で力不足の私には、とても手に追えそうもないので素通り(スルー)してきました。

文字にも、梵字(ぼんじ)があり、やはり仏様や菩薩様をあらわしたり、それなりの力があるようです(従って、万が一にも粗末に扱わないように注意が必要だと思われます)。

下記の注釈に意味だけをあげておきます。

簡単に言うと、真言(マントラ)は、古代インド語のサンスクリット語(梵語)の言葉を意味し、宗教の祭祀(さいし)などでは仏様に対する讃歌や呪文などで用いられるために、それなりの力を持つものと言えると思います。

仏様にまつわるお言葉なので、当然にそれなりのお力が宿っていると考えられます。

まあ、とにもかくにも、どんな記号(言葉や数字など)に出くわそうと、とにかく、祈り一念、南無阿弥陀仏か世界平和の祈りで乗り切るしかない(できることなら世界平和の祈りの方で)と勝手に考えています。

残念ながら、あれやこれや立ち回ったり、計算することが、業想念を招くことになる可能性があるからです。

業想念を浄め、消し去ること。

輪廻転生を通しての運命の好転化には、この道が、急進的ではなく、無理もなく、段階的で一番馴染みやすいと思いますので。

輪廻転生を通した運命の好転化という全体(マクロ)的な改善は、結果として、今生(現世。今回の人生)という微視(ミクロ)的にも、運命の好転化につながるはずです。

だから、運命を好転化しておくのは、好ましいし、何よりも浄まって輪廻転生を卒業するためには、望ましいとなる訳です。

仏教のように、この世が苦だ、という人にも、その苦を伴う輪廻転生の人生を早く上がりたければ、やはり、霊性の開発が必須だと思います。

世界人類が平和でありますように

~~~~~

・ゾロ目~ 2 個のサイコロを振った時に目(数)が揃うこと。転じて、2 ケタ以上の数列が全て同じ目(数)で揃うこと。

・卑近~ひきん~身近で理解しやすいこと。また、そのさま。
(用例)卑近な例をあげる。

真言~しんごん~①真実の言葉。
②上記マントラの漢訳。仏教語。~密教梵語で唱える仏への祈願の呪句。
真言宗の略。
ここでは、②の意。

・祭祀~さいし~神を祭ること。祭り。祭典。

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追記: 2021/07/24 00:25 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

443_インターネット

インターネット。

元々は、軍事技術から始まったものらしいですが、今では広く普及して、たくさんの人々に様々な形で利用され広く普及していますね。

ある意味では、私達は情報社会の利便性を享受しながら、同時にすべてを知り尽くされている、監視下に置かれている可能性もなくはない訳です。

それはともかく・・・。

個人的な感想としては、ブログはありがたいな、と思っています。

自分の頭の中だけで考えていたこと、あたためていたこと、家族や友人や知人にも中々言えなかったことを、こうして、日本語の通じる世界に向けて発信することができる。

まったく見ず知らずの遠く離れた人にも読んでもらえるかもしれない、気持ちを理解してもらえるかもしれない、などの機会を与えて頂いているのですから、自分としては、とてもありがたいと考えています。

インターネットなら、昔のような身分や権威の厳しい縛りもなく、(制約に触れない限りは)とりあえずは、端末さえ操作する環境にあれば、自由な発信ができる。

やはり、それなりにありがたさを実感しております。

442_投影

以下は、私の個人的な主観にもとづく勝手な仮説なのでお許し願います。

今まで幾度となく、私達は神様の分け命、分霊が人間そのもの、霊なる人間こそがその本体だ、と書いてきました。

しかし、実際には、ほとんどの人(悟りを開けない人のことだから、地球上の人口、ほとんどすべてでしょう)が、肉体人間こそが人間であると認識していると思います。

人間=肉体人間である以上、そのあらゆる能力には限界があり、神様のような自由自在な万能さはありません。(*)

しかも、数多くの輪廻転生を通して、真善美に戻る想いと行いである、業想念を積み重ねてしまったために、その償いのためもあり、様々な制約まで課されて、できることはかなり限られています。

自己保存の本能から、肉体の五感にまつわる各種の欲望も相まって、誰しもが、ヒーローになりたい、ヒロインになりたいと無意識に思っていると思います。

その根底には、元々の神様の自由自在な万能さを求めたい、という無意識な元返りの気持ちがある上で、さらに肉体的な五感にもとづく欲が加算されているためだと考えられます。

よく、巷(ちまた)には恋愛や婚活などでお相手への高望み云々という話がありますが、私はこれは当人の本音から発した言動ではないと考えています。

肉体人間は、よほど輪廻転生を通してかなりの悪い因縁を積み重ねた因業人間でない限りは、その思考能力や判断能力を制約されることはなく、まともな思考能力や判断能力を備えているはずです。

希望的評価と自ら下す客観的評価は完全に別です。

自分の容姿その他の水準くらい、誰しもがわかっていなきゃおかしいんですよ。

わからないはずがない。

人様(異性のこと。男性なら女性、女性なら男性)の評価ができるということは、とりもなおさず自分の評価ができることに他ならないのだから。

人間は誰しも自分に対しては、客観的(おおむね、人様からの評価)が甘くなる嫌いは確かにあります。しかし、極度に甘くなるのは、どう見ても不自然でおかしいのですよ。

それでも、あえて突っぱねて高望みをしている(あるいは演じている)のは、ある種の心理的な代償行為、補償行為だと考えています。

だから、外部の人間としては、ああした本人の言動を決して真に受けることなく、その心中を察して、ただ、黙って祈りを捧げて差し上げれば良い、と思っているのです。

それに、いくら批判をしても、非難をしても、残念ながら業想念を巻き起こすだけにしかならない、批判する側・される側の双方の総体としての因縁因果を悪くすることにしかならない、と思っているからです。

平たく、悪い言葉を使って言ってしまえば(すみません)、誰しもが、皆、バカじゃないんだから、本当のことはちゃんとわかっている、ということです。

という感じで、私達は神様の万能さにはほど遠く、ヒーローやヒロインになるのさえも難しいのが、一般的だと思います。

仮に、ヒーローやヒロイン的になって一世を風靡(ふうび)したとしても、肉体人間として生きる命は有限であり、しかも、その旬の期間も良くてもわずか数年といったところではないでしょうか。

しかも、残念なことに、この肉体世界のこの世で、こうしたヒーローやヒロインになれる確率はきわめて少なく、どうしても何らかの挫折(ざせつ)を余儀なくされてしまいます。

こうした状況で、肉体人間として次に考えられることは、誰しもが人並み(平均的な)能力を備えたい、暮らしがしたい、そして、できることならば、人様を少しでも出し抜いて、より良い位置につきたいということになると思われます。

そんな時に、実生活ではなかなか叶えられない願望や生きざまを、間接的になぞらえて体験できるもの・・・。

それが、小説や演劇や映画やアニメーションや各種の成功を含めた波乱万丈の物語や各種のスポーツ観戦になるものと思われます。

つまり、肉体人間は、こうした物語などを読んだり、聞いたり、応援する行為に自己を間接的に拡大させて乗り移らせ、感情移入をして、追体験をしている、と言える訳です。

すなわち、肉体人間としての自己を投影している、と。

逆に言うと、その人が、どういった投影物を好んでいるかを見れば、その心理状態がある程度読めるということになる訳です。

もしかしたら、神様は自らの分け命を与えた肉体人間に、ヒーローやヒロインだけでなく、ありとあらゆる階層の人々にたくさんの体験をさせて、肉体人間の経験をさせて、修行を同時にさせることで、その体験に多くの幅を持たせて、最終的には肉体身をもちながら、立派な魂を備えた人間に仕上げようとしている。

そのために、神様は、こうした投影の機会を設けて、肉体人間の社会を運営しているのかもしれない。

そんなことを感じることが、ままあります。

~~~~~

(*)自由自在について

自由自在といっても、この世で、肉体人間こそがすべて、肉体人間の五感にもとづく自己保存の本能による、自らの利害得失計算だけを図ろうとするための自由自在ではありません。

肉体人間の五感にもとづく、自分勝手な欲望達成のための自由自在ではないのです。

そうではなくて、神様の分け与えられた命が、この肉体をまとって、肉体人間として生きていても、この世の、この肉体世界の利害得失計算を超えた、何のとらわれもない、という意味の自由自在です。

つまり、神様のみ心を、そのお働きを、そのままにあらわすための自由自在のことです。

従って。

神様から分け与えられた命を、自由自在に働かせている時には、真善美に悖らない、すなわち、悪いことはしていない、自分のためにもなり、皆のためにもなる、良いことをしていることになります。

逆に言うと、この世で、この肉体世界で、他の人を押し退けて、排斥して自分のためだけに生きていたり、その他の悪いことをしている時は、神様から分け与えられた命を、汚していることになります。

これが、いわゆる、真善美に悖る肉体人間の想いと行いである業想念となる訳です。

だから、この輪廻転生を通して積み重ねられた業想念は、同じく、輪廻転生を通して、浄めてなくしていかなければならない、となってくる訳です。

これが、たびたび書いてきた、業想念の輪廻転生を通したあがない、償いの病気・争い・貧乏・苦労となってあらわれてきている、となる訳です。

もちろん、足りない分がたくさんあるので、私達の預かり知らないところで、守護霊さんと守護神さんが、たくさんの業想念を浄めて、私達肉体人間を守って下さってきている訳です。

で、これを、ただ、規定値のままに送る(?)よりは、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることで、より、自由自在の世界にほんの少しでも近づくことで、世界の運命の光明化にほんの少しでも貢献することにもなるし、自らの運命を輪廻転生を通してほんの少しでも好転させる道にもなる訳です。

だから、推奨してきた、ということになります。

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①追記: 2021/07/22 20:15
②追記: 2021/07/23 01:07
③追記: 2021/07/23 01:23
④追記: 2021/07/25 05:39
⑤追記: 2021/07/25 08:48
⑥追記: 2021/07/26 21:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正し、注釈を追加しました。