おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

730_ひしみー151

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 729_ひしみー150 ) の続きです。

今回は、お釈迦さんが、ヤシャに仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、施論(施しの訓話)について、ひろさんのお考えを批判的に検討したい。

まずは、ひろさんのお話の概要から。

「施論」とは、「布施」の教えである。

ひろさんが、施論の解釈で最も優れているとするのは、日本の禅僧の道元の解釈だとして、道元の「正法眼蔵」の「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の以下を引いている(現代語訳だけを記す(改変あり))。

「布施とは不貪(ふとん)である。不貪とはむさぼらないことである。
むさぼらないとは、世にいうへつらわないことだ」

ひろさんによると、道元のこれを現代風に解釈するとこういうことらしい。

すなわち、満員電車で老人や身障者に席を譲るのは布施だが、最初から座らないのが布施だ。
なぜならば、私達が座りたいというむさぼりの心を抑えれば、座りたい人は自ずと座れることになるからだ。

ひろさんによると、これが道元による布施の解釈で、賛成できるとのこと。

私達は、日々の生活で「得をしたい、損したくない」という気持ちを持ち、これが欲望であり、貪欲であり、エゴイズムだそうだ。

そして、ひろさんは、「ちょっとぐらい損してもいいではないか」という気持ちを持つのが、布施の心だとしている。

そして、これが宗教心の第一歩になるのだそうだ。

というのは、損したくないのは、この世で成功したい願望であり、大事なことになるからとのこと。

しかし、宗教、中でも仏教は、この世に最大の価値を置かないとされる。

なぜなら、この世で栄華をきわめても、たかだか百年程度であり、永遠の至福を求めるものとはならないからだそうだ。

永遠の至福を求めるのが、宗教であり、仏教であるとのこと。

従って、われわれは、この世の中を馬鹿にした方がいい。
馬鹿にする言えば喧嘩腰になってしまうが、まあ、ほんのちょっと軽視した方がいい。
いや、世の中の一般の人のようにあまり世間を重視しなさんな・・・! というのが仏教の第一歩である。
それにはちょっとぐらい損したってかまわないという気になることだ。
釈迦はヤシャに、そのことを教えられた。
それが施しの理論である。
(この節はほぼ原文のまま)

・・・。

「われわれは、この世の中を馬鹿にした方がいい。
ほんのちょっと軽視した方がいい」

うーん、ちょっと違うんじゃないかなあ、これ。

ひろさん(と道元さん)の言われていることは、積極的に施すことはしなくても、自分がむさぼりをやめればいい、ちょっとだけ譲るのがいい、と言っているように見える。

むさぼりさえ控えれば、これは何とかなる、と。

そのためには、世の中の一般的な常識にありがちな、自己中心的な損得勘定の得ばかりにとらわれる、つまり、こうした世間一般の常識におもねるというか、迎合することなく、損を受け入れよ、といった感じか・・・。

でもねえ。

これは、修養レベルのさらにその入り口の話だから、仕方のないことかもしれないが、あまりにも恣意的な要素が強すぎますよ。

世間に媚びるなって言ったって、その時々の社会情勢によっては、基準がどう変わるかはわからない。

みんなが互いに譲り合い、つつましく暮らすのが当たり前の常識となる場合もあるかもしれないし、その反対に、他人を押し退けてでもしなければ、生きてはいけない厳しい常識を持たなければならない場合もあるかもしれない。

だから、不確かな世間を基準にするのはやめて、自らの置かれた環境下で、あくまでも自分を追い込み過ぎないほどに、無理のない範囲で、施しができるなら積極的にすればいいし、積極的な施しに無理が生じるくらいならば、ちょっと譲るようにすればいい。

ちょっと譲るのにも自らを犠牲にし過ぎるなど無理が生じるなら、一切の施しもせず、譲るのもやめればいい。

要するに、自らの想いが、真善美と愛という神様のみ心に悖るようなら無理な布施はしない。

想いを乱さないほどに余裕があれば、可能な限り譲るか、積極的な施しをする。

本来の宗教心としては、愛一念で、他人が求めてくるものは惜しみなく与えるのが理想です。

しかし、私達はこの世を生きていくために、自己保存の本能が与えられているから、そもそも、愛一念で他人にすべて捧げる理想は実現できないようになっている。

どうしても、わが身、わが命、わが身内や近しい人達を優先せざるを得ないようになっているのです。

だから、わが身や近しい者を無理にでも犠牲にするのは、却って世の中に争いや不和をもたらすことになりかねないのです。

従って、移ろいやすい世間云々を基準にするのではなくて、積極的な布施の気持ちは心にとどめ置きながらも、あくまでも無理のない範囲で、自然な施しや譲歩をするのが穏当だと個人的には考えます。