おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

735_ひしみー156

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 734_ひしみー155 ) の続きです。

前々回 ( 733_ひしみー154 ) と前回 ( 734_ひしみー155 ) で書いた内容から、昆虫や動物や肉体人間の命を奪う、または、奪われることはあってはならないことの基本については、ご理解頂けたと思います。

すなわち、昆虫も、動物も、肉体人間も、造物主・創造主としての神様にその命の息吹きを吹き込まれることで、この世に生きていくことができている生物としての存在に他ならないのであり、従って、その生殺与奪の権限は、本来的にそうした命の息吹きを吹き込んで、与えている神様にしかないものであろう、と。

というのは。

少なくとも、私達肉体人間には、昆虫も動物も肉体人間も、まっさらの一から造り出すことはできない。

昆虫や動物や肉体人間の身体を生成する物質も、これを有機的な生命体として生かしていく命も、何から何まで、絶対的な力を持つ何者か=神様によって、あらかじめ与えられている、としか考えられないからです。

従って、(ちょっと語弊があるかもしれないけれど)昆虫も動物も肉体人間も、一から造り出して、命を与えて、生かしている神様ならば、その昆虫も動物も肉体人間も、制作をして、生物としての命を与えて、しかも、生かしているのだから、当然の権利として、使用・収益・処分する権利がある、と理屈では考えることができる訳です(実際は、神様はありとあらゆるものを愛情を持って与えているだけなのでしょうけど)。

つまり、昆虫も動物も肉体人間も、その終焉に当たっては、みんな神様によって生かされている存在なのだから、神様が何らかのご意思で、その命を終わらせるとなったら、文句を言える筋合いではないだろう、ということです。

以上は、とりあえず、昆虫や動物や肉体人間に話を限定して考えてきた訳ですが、ならば、植物その他はどのように考えたら良いのか?

結論を簡単に言えば、植物その他についても、まったく同じことが言えます。

つまり、植物その他にも、やはり、神様の何らかの命の息吹きが与えられたからこそ、この世に生まれ、成長し、衰退し、その生をまっとうするものである、と。

従って、いわば、神様の一種の化身とも取れる訳で、当然にそれなり(植物などなり)の意思を持っている、生きている、と考えることができます。

つまり、肉体人間も、動物も、昆虫も、植物その他ありとあらゆるものも、さらには、こうした生物ではなく、まったく動かない、個体としての物質も、この世にあらわれたものである以上は、神様の何らかの化身であり、それなりの意思を持っている、と。

ここまでくれば、もうおわかりですよね?

そう、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、あるいは、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)とほぼ同じことを言っているんです。

しかし、こうした言葉ではなく、やはり、大元の考え方は神道の考え方が元ですね、これは。

神様がお造りになったのだから、それなりの神性がある(肉体人間だけは神様の分けられたお命を、霊魂魄の霊として特別に与えられた神様の子供に相当する訳だから、他の動物などとは明確に異なり、本来ならば気高く生きて、ありとあらゆる生物を取りまとめて最終的に調和をさせていく役割があると思われる)のなんて当たり前。

何も突然のように、とってつけたような、これらの概念を作り出すことも、持ち出すまでもない。

まあ、とにかく。

(西欧的ではない)造物主・創造主としての神様を認めて、演繹的に素直に考えていけば、自ずとわかる話だからですよ。

だから、肉体人間も、動物も、昆虫も、植物その他も、個体や液体や気体でも、
ありとあらゆるものは、いわば神様の化身であり、
粗末にしてはならない、
ましてや、生き物を殺してはならない、物質を破壊してはならない、液体や気体を消滅させてはならない、
ということです(理屈だけで考えるとこのようにきりがなくなるのですが、ひとまずここまでにします)。

このように考えてくると、さらに、何かお気づきになることはありませんか?

そう、食物連鎖のことと、肉体人間の摂取する食事はどのように理解したらよいのか?という話です。

続きは、次回以降とします。

ご了承願います。

なお・・・。

お気づきかとは思いますが、私は、造物主も、創造主も、神様もすべて同じ意味合いで用いています。

すべてのありとあらゆるものを造り出す、万物の根元という存在として。

造物主・創造主・神様に西欧も、東洋も何もありません。

強いて、特定の言い方をすれば、地球を統括する、さらにもっとずっと広げて、宇宙全体を統括する神様の意味合いで、造物主・創造主・神様を書いています。

この地球上には、たくさんの民族があるのだから、自分だけがただ一人ご宣託を受け、われこそは・・・、と自らにかかわる神様だけに固執して、他の一切の信仰を排斥する形での独善的かつ排他的な神様や信仰は、地球の調和を乱し、争い事を起こす原因を作る以外の何物でもありません。

宗教のズブの素人としての独断と偏見として、勝手にそのように考えています。

お気づきの方もいるかもしれませんが・・・。

私がこうしたことを言っているのは、結果としての現状から遡って考えているのです。

これまで何回か触れたように、この世に肉体人間として生まれてくること自体が、貴重なことなんです。

私の考え方とは、違う形ですが、仏教で触れられているからです。

それに触れてきました。

話を戻すと。

神様の命の働きかけがなければ、この世には生まれ出てこないし、成長してはいかれないし、生きてはいかれない。

この世に生を受けること、成長していくこと、有機的生命体としての肉体人間として生きていることは、すべて神様の命の働きかけによっている。

そうした、神様のお力という、摩訶不思議な力の働きかけでしか、この世に誕生しない、生きてはいけない肉体人間が、この地球上に様々な人種に分かれ、たくさん、たくさん生きている。

ということは、この地球上にたくさんの肉体人間があらわされたということは、神様のご意志と解釈することができます。

肉体人間の意志だけで、肉体人間の構成要素から、それを生かす命から何から何まで、一から造り出すことができないものを、
万物の創造力をはじめとした絶対的な力をもつ何者か
サムシング・グレート
=神様が、
この地球上にあらわしているからです。

だから、自分達だけが選ばれし民族だからと勝手に決めつけて、他の民族を好き勝手し放題に、使用・収益・処分していいはずがありません。

仮に特定の民族を使用・収益・処分するというのなら、その権利、すなわち、生殺与奪の権限は、あくまでも創造主・造物主の神様にしかないはずです。

神様は、黙って私達肉体人間をこの地球上にたくさん、たくさんあらわしている。

ならば、世界平和の祈りのようにして、各人がかなりの人格の向上、もっと言えば、かなりの霊性の開発に努めて、それでも、不幸や災難、戦争や天変地異が、避けられなければ、そこで初めて、それは神様のご意志であり、神様のおつくりになられた法則(因縁因果の法則)を違(たが)えて、仕方がない現象ということになる。

それを、形而上学的に、頭ごなしに自分だけが神様のご託宣を受けたんだ、自分達だけが選ばれし民族なんだ云々、というようななされ方を、果たして神様がなされるのでしょうか?

単純思考で、単細胞な私には、どうしてもそのようには、考えられないのですよ。

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①追記: 2023/12/09 00:10
②追記: 2023/12/09 14:27
③追記: 2023/12/09 22:39
④追記: 2023/12/10 00:25
⑤追記: 2023/12/18 15:35
⑥追記: 2023/12/19 04:01
⑦追記: 2023/12/20 06:05
⑧追記: 2023/12/21 07:38
⑨追記: 2023/12/21 18:50
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。