10 初めて法輪を転ず
・人生の羅針盤としての戒
前回 ( 730_ひしみー151 ) の続きです。
今回は、お釈迦さんが、ヤシャに仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、第二の戒論(戒めの訓話)について、ひろさんのお考えを批判的に検討していきたい。
まずは、ひろさんのお話の概要から。
ひろさんによると、日本語とは異なり、サンスクリット語には「戒律」という言葉はないそうだ。
サンスクリット語にあるのは、「戒(シーラ)」と「律(ヴィナヤ)」になるそうだ。
その「戒」は、日本語なら習慣性に相当するもので、良い習慣を身につけ、悪い習慣をやめることが、「戒」に当たるらしい。
これに対して、「律」は、罰則規定なのだそうだ。
ひろさんは、ここでは、この「戒」と「律」を、在家信者と出家者(出家修行僧・出家信者)とに分けて、お書きになっている。
おおざっぱに言うと、在家信者は、戒を守り、出家者は、出家した集団としての仏教教団への責任も生じることになるので、戒だけでなく、罰則規定の律が設けられているとのこと。
だから、在家信者にあるのは、戒のみになるらしい。
で。
普通、仏教で戒と言えば、連想されるのは、五戒、すなわち、
1.不殺生戒
2.不妄語戒
3.不偸盗戒
4.不邪淫戒
5.不飲酒戒
の 5 つのものがあるが、ひろさんは、お釈迦さんがヤシャに戒を教えたとはいえ、この五戒すべてを教えたかどうかは、不明だとしている。
というのは、仏教教団のはじめっから戒が、この 5 つにまとまっていない可能性もあるからだそうだ。
だから、ひろさんは、お釈迦さんがヤシャに教えた戒は、これらの戒の項目すべてではなくて、戒の精神といったものであるかもしれない、としている(五戒の具体的内容は下段に記す)。
ざっと言って、この五戒は、出家者でさえ、厳密に守ろうとすれば、難しい項目だ。
ましてや、在家信者には、(言っては悪いが)ほとんど守れないような項目ばかりだ。
在家の立派な人格者として生きている人でも、この 5 項目全部を厳密に守ることは、おそらく不可能だろう。
それほどに厳しい 5 項目だ。
ひろさんは、(こうした五戒が破られ易いことを踏まえたからだと思われるが)戒は、いわば、生きる上での姿勢といった羅針盤ではないか、としている。
そして、
「戒が破られるからといって、羅針盤としての戒が不要なのではない。
私達はいつもしっかりと人生を歩む方角を定めていなければならない。
釈迦はそのように考えて、ヤシャに戒を教えられたのであった」
としている。
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・五戒について
1.不殺生戒~ふせっしょうかい~殺すなかれ。要するに、生き物を殺してはならない、ということ。人間はもちろんのこと、動物や昆虫にまで至る。
2.不妄語戒~ふもうごかい~嘘をつくなかれ。嘘をついてはいけないということ。
3.不偸盗戒~ふちゅうとうかい~盗むなかれ。何物をも盗んではいけないということ。
4.不邪淫戒~ふじゃいんかい~淫らなセックスをするなかれ。在家信者には淫らでなければ、セックスは禁じられていない。ただし、出家者は一切のセックスは NG。
5.不飲酒戒~ふおんじゅかい~酒を飲むなかれ。これは、他の項目に比べると多少重要性が落ちる(?)と思われる方がおられるかもしれない。
これは、お釈迦さんがダンマパダに酒のもたらす良くない副作用(?)をたくさん列挙しているので、そうした意味合いもあるのかな?
ひろさんは、それ以外にも、インドは日本よりも暑いので酒(多分、水分という意味合いだろう)を飲むと働きたくなくなる側面も考慮に入れるべきだとしている。
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追記: 2023/12/05 21:38
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。