おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

732_ひしみー153

10 初めて法輪を転ず

・人生の羅針盤としての戒

前回 ( 731_ひしみー152 ) の続きです。

今回は、お釈迦さんが、大資産家の息子で家を飛び出してきて遭遇したヤシャに対して説いた、仏教を教えるに当たっての基礎固めとなる三論のうち、第二の戒論(戒めの訓話)について、考えてみたい。

ひろさんは、戒(シーラ)は、それを自発的に守ろうとすることが大事だと言う。

また、戒は良い習慣性を身につけ、悪い習慣性をやめることを目指すことでもあると言う。

じゃあ、そもそも、その習慣性の善し悪しを見分ける基準はどこにあるの?

何となくですか?

これは、(人によって(=その人その人の過去世の因縁によって)感覚的な幅のバラつきはあるにせよ)人間としてごく自然に感じる、感覚的なものを、基準=よりどころとしているのではありませんか?

八正道もそうだけど、そもそも、良い、正しい、という判断は、どこから来ているのですか?

仏教の教学は、この三論に限らず、四諦・八正道・十二縁起もそうだけど、こうした肝心要のことに対する説明がまったくなくて、暗黙の前提としてこれを(恣意的に省いているのか、無意識に飛ばしているのかはわからないが)すべて抜かした上で、いかにも精緻に見える、割り切りのいい数字で飾られた抽象的な概念を説いているように感じられてならないのですよ。

そうした実質的な背景を抜かした上で、見た目の形式的な美しさを伴う教理・教学に陶酔しているきらいがある、と。

私には、抽象的過ぎて、難し過ぎてわからない。

そもそも。

私達の物事に対する良い、悪い、の善悪の判断はどこから来るの?

私達の物事に対する正邪の判断はどこから来るの?

私達のこれらを判断する、感覚的な要因は何で、これは一体どこから来ているの?

これは、やはり、私達肉体人間の本質=本体が、真善美と愛に悖らない神様の分けられたお命という霊魂魄=分霊(わけみたま)にあるからではないですか?

こうした、神性(仏教で言えば仏性)が、私達の本質にあり、それによって、この肉体が生かされ、有機的生命体として機能しているからこそ、善悪、正邪を判断する能力が、自然にそなわっているのではありませんか?

もちろん、個々の肉体人間によっては、過去世の因縁が悪い、業の深い因業人間やサイコパスのような人がいても、判断能力の基本は変わらないはずです。

肉体人間は、動物的な側面を持っていても、神様の分けられたお命を、霊魂魄の霊として直接に頂いていて、この神性によって、この肉体は有機的生命体として機能しているし、神様としての判断能力も当然のようにそなわっているのだから。

ただ、その感覚や判断能力が、過去世の因縁によっては、著しく制限されたり、曇らされてこの世に生まれてくる場合があるだけのことで。

だからこそ、仏教の(今まで読んできた仏教の十数冊の本には出ていなかったけれど)戒は、良い=真善美と愛に悖らない、すなわち、神様のみ心に適う、肉体人間としてのあり方を身につけるようにする、これを目指す、と。

だからこそ、悪い=真善美と愛に悖り、神様のみ心に適わない悪い習慣性をやめるようにする、これを目指す、と。

つまり、私達肉体人間の本質が神性(仏性)にあるとする限り、肉体人間として、真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適う肉体人間としてのあり方を、目指して、求めていくことは当然になるから、
他人も同じ神様の分けられたお命をその本質に頂く同胞に他ならないのだから、互いに慈しみ、尽くし合うことも当然となるし、
様々な施しもできることなら自ずとやるべき(施論)だし、
良い習慣性を身につけ、悪い習慣性をやめることも目指すべき(戒論)なのも当然、
という結論になる。

ということで、三論の 2 つ目の戒論までは終わりにして、次回は、五戒について同じようにして、神性を基準にして考えてみたいと思います。